インタビュー記録

(※下記は主に2回目の収録の概要です) 

1944(昭和19)年4月中旬 徴兵検査

 背が小さくて、貧弱で甲種合格にならず第一乙種合格。155センチないくらいで、貧弱な体で兵隊に引っ張りだされた。

1944(昭和19)年9月1日 東部6部隊に入営、現役

  • 第27師団支那駐屯歩兵第2連隊(極2904部隊)要員

 外地に行く予防注射を受け、9月9日に品川駅まで徒歩で移動。軍用列車で博多へ。
 輸送船に乗り込むと、太い竹筒を渡された。潜水艦の攻撃を受けて、万が一船が沈んだら、この竹筒を抱いて海に飛び込めといわれた。玄界灘はすごい揺れで、船酔いで飯盒の中に船酔いしたものを吐き出していた。お昼の弁当食べられない。船で上官にどこへいくかを聞いたが、「お前ら一兵卒は場所を知る必要なし」といって教えてくれない。
 釜山に上陸。船を下りると憲兵が警戒していた。すぐに貨物列車に詰め込まれ南京到着。むしろがひいてあるだけの車中だった。
 輸送船で長江を遡上。蕪湖、安慶、東流を経由。昼間は敵飛行機が上空にいるので、朝になると船からおりて林で隠れて休む。夜に移動する日々。

1944(昭和19)年10月~ 初年兵教育

 大治(だいや)で訓練を実施、鉱石の高山があり露天掘をしている。

1945(昭和20)年2月~ 本隊を追及して行軍開始

 本隊を追いかけるため、大治から(2月6日発)武昌へ、武昌大学が兵舎になっており、武器、食料、衣類を背嚢に詰められるだけ詰めた。
 班長が来て皆にはがきを1枚配った。明日、出発するから親に別れの挨拶を書けといわれた。周りはしーんとなった。夜、飲んだことがない酒が出て、おいしいもの、タバコ、が出た。お酒を飲んで、酔っ払って、周りの戦友に「俺が死んだら骨を持って帰ってくれ」と言い合っていた。あちこちでその会話が見られた。その会話に入れないで、酒も飲まずに部屋の片隅でしくしく泣いている人もいた。その後、酔っ払って故郷の歌や軍歌を歌った。
 翌朝(2月20日)、5時30分に起床ラッパがなって、梯団長から「これから戦地だ。元気に出発だ」と激励。曹長は「泣いてもいいから故国に別れの挨拶をしろ」と言っていた。これが戦地へむかう死の準備だ、何でもいいから叫べという。しばらく沈黙が続き、やがて後ろにいた一人が「お母さん、さよなら」と大声で叫んだ。それにつられて皆叫びだした。
 ぬかるみはどこまで続く、雨が途中降ってきた。武昌を出発してから雨の日も関係なく歩く。露営は朝出発して、夕方まで歩く、移動したところで民家があれば宿泊する、草原ならそこで寝る。布団をしいて寝るわけではなく、ごろ寝。そういったことを毎日毎日繰り返した。
 足に豆ができて、まめが痛いから、びっこを引く。普通背嚢をしょって、弾薬120発、手榴弾2つを担ぐと30-40キロになる。背嚢を担いで、しゃがむと一人では起き上がれない。誰かの手が必要。
 雨がふってきて、なかなかやまない。2月で寒い。天幕を頭からかぶって、立って休憩する。寒いから足を動かしながら、寄り合って寒さをしのいで休憩した。そのうちに、歩き出す。中国の道は舗装道路はない。泥道、粘土質。皆が歩くと、田んぼのように道路がくちゃくちゃになる。足を抜くのが大変だった。隣の兵隊にぶつかったり、転んだりで泥んこ。雨が止めばと思うが、なかなか止まない。我慢して歩く。そうこうして雨が止む。

 3日間休むと大休止の指示がでた。みんな喜んだ。曹長の当番兵だったので自分のものは後回し、曹長の服の洗濯をした。ひと段落したら自分の服を洗濯した。他の兵士は自分のものだけでよかった。
 (長沙では)どこからか、ドラム缶を誰か見つけてきた、レンガを積んで、川から水を汲んで、お湯を沸かした。偉い人から入る。初年兵が入るころには、お湯が少なくなり、また水を汲んで沸かす。入って空を眺めるとお月さんがきれいだった。大休止は本当にいいものだな、と思った。ドラム缶を拾ってきた人は大功績だと思った。
 行軍で、どうしても足の裏にまめができる。まめが痛くてしかたない。そのままにすると化膿する。それが怖い。衛生兵が、ようちんと針と糸を持ってくる。糸にようちんをつけて、針を豆に刺して抜く。ようちんの汁が豆の中に浸みる。痛いが、化膿止めになる。それが生き残る秘訣。
 靴下をはくとき、2枚重ねで履けといわれた。靴下の裏表に固形石鹸を塗りこむ。そうすると足が楽になる。洗濯するときに、ただ川にいってもめばいい。それが生き残る秘訣。どんどん歩ける。それは曹長が教えてくれた。
 曹長は歴戦の兵士で、何でも知っていた。私たち初年兵に何でも教えてくれた。45分歩いて15分休憩するのが行軍。15分の休憩のときに、思い背嚢を肩から外す、体操を3-4分してから休む。そうすると歩くのがとても楽になる。一日、少しでもいいから体操をする。他の人は足が痛くて落伍するが、私は体操で体を動かしていたから大丈夫だった。体操を疲れたといってやらない人は落伍していた。

 この頃になると、後方から食料の補給はなくなった。行軍中に蛙がいれば、皆でわっと捕まえて。人間が人間でなくなって動物になる。民家があれば、勝手に入って、何か食い物はないかと探す。米とかあれば、かっぱらってしまう。これを徴発という。いよいよ部隊に食料がなくなると、臨時に大休止をする。足の強い元気のある兵士だけで編成して、山奥の部落に行って、空に向かって銃を撃つ。村人が逃げるので、その後、豚とか米をかっぱらっていく。持って帰ってきて部隊に配分する。向こうの紙幣を置いて、徴発する。何もなくて獲ったわけではなかった。やせている人は、骨と皮になる。栄養不足になる。
 ある人が川に手榴弾弾を投げた。魚が浮いてきて、食っていた。自分の口にいれるために魚をとるために手榴弾を使った。順番を決めて、皆で投げていた。
 その頃になると仲間が死んでいった。歩くのが嫌になる、逃亡する人、銃で自殺する人もだんだん出てきた。軍の偉い幹部は食料を補給しないで、兵隊を中国に送り出して、「兵隊は馬鹿なくじを引いたな」と戦友とも話していた。早く、家に飛んで帰りたい。国のために、と考えるよりも、ここを早くおさらばしたいと考えていた。

 中国では嫁入り道具の一つとして棺おけを持っていくので、民家に入ると天井からつるされている。日本の棺おけと違って厚さ5センチの木材でできている。飯盒炊爨の燃料には丁度良かったが、古年兵から「現地の人の大事なものだし、嫁入り道具だから燃やすな」と言われて、それ以来手をつけなかった。纏足の人も当時いて見た。美人ほど足が小さいそう。部落に残っているのは年寄りばかりが多く、特に殺すとかはしなかった。鶏、豚を持って帰ることが重要だった。
 行軍の隊列の先頭と後ろは1キロもある。空からバリバリやられると、道路に直角に逃げると助かる。足の痛い、栄養不足の兵士は逃げられずにやられてしまう。
 夜に行軍にした。夜なら飛行機は真っ暗でわからない。昼間は林に入って寝ている。昼間はいくら寝たと言っても眠たい。洗濯物が乾かないと、竹の棒にひっかけて銃と一緒に担いでいく。夜は歩きながら居眠りをしてしまって、田んぼに落っこったり、迷子になる。綱を結んで歩くようにした。よろよろって眠くって列から外れても、すぐに気がつく。眠気がいつの間にか出る。眠りながら歩く。帽子の後ろに白い布を張っているが、暗くてそれも見られない。

 4月24日あたりに湖南省衡陽(こうよう)に着く

1945(昭和20)年4月下旬 
  秋水第131師団独立歩兵第591大隊に転属

 追及していた本隊が壊滅したと、衡陽で第131師団独立歩兵第591大隊に転属命令が出る
 今度は591大隊を追及して湖南省衡陽→来陽→?県(ちんけん)→広東省・楽昌→曲江(きょくこう)を移動
 鉄道があるのだが、ずたずたにやられており、使えない。鉄道を道にしてたどって移動していった。坂道になる。
 行軍中に用便をするときに気をつけないといけない。油断すると敵に拉致される。2~3人で守ってもらわないと、駄目だといわれた。ところが、用便を見られるのが嫌で1人でいくと、帰ってこない。どこかに連れて行かれている。ものすごく、そういうのがあるんで、用便は1人でするなと厳命された。
 どんどん山道を上っていくと他の兵隊と会った。歩兵砲の部隊。砲を分解して山を登っていた。隊長が可哀想だから手伝おうとなった。ところが、山を登ってくると谷が深い。馬が谷から落ちて、泣いている。隊長が可哀想と言って助からない馬を殺していた。
 栄養失調、マラリヤで死ぬ人が多かった。死んだ人は荼毘にする。だけど体全体を焼くには薪が山ほどいるから、死体の手首や指を切って、それだけを焼く。3-4時間かかる。
 マッチはあった。最初は枯れ草をむしって、丸めて火をつける。細い木の枝をその上に乗せて段々と太い木の枝を乗せていく。帯剣、ごぼう剣が重宝だった。包丁にも使えた。敵を刺すために38式歩兵銃の先端に付けられた。歩けなくなった人がいて担架に乗せるわけだが、作るときに木を切るのは帯剣が役に立つ。
 歩くのが戦争だった。歩いて本体に追いつくことが私の戦争だった。弾を打ち合ったことはなかった。敵を殺したのは銃剣術で人を刺したことが初めて(後述)。本にも書けなかった。

1945(昭和20)年6月 独立歩兵第591大隊に合流

 本隊の師団司令部があった曲江にようやく到着した(5月10日頃)。
 受領部隊に渡され、さらに広東省・南雄→福建省・南安→江西省・南康(なんこう)→かん州まで行軍。6月16日頃かん州で第5中隊に配属される。
 1200人の初年兵は戦闘もないのに150日、3,000キロ行軍のため体力が消耗。食料が枯渇しし、マラリヤ、風土病、栄養失調、自死、逃亡等の兵が続出し、400名になっていた。
 着いた時に、へとへとで歩くのはやっとで、こんなのでは戦争出来ないと言われた。肉や魚を食べろと言ってくれた。2週間食っては寝てを繰り返し、顔も膨らんで生き返った。初めて銃剣術の練習を仕込まれた。3週間たつと、駆け足もできるようになった。食べるものもどんどん食べられ体重が増加した。
 ある日非常呼集がかかった。本部の柱に縛り付けられている兵士がいた。中国人の兵隊だった。柱にくくられていた。あれ、と思った。夕方になったら敵が100メートル前方にいるから、その敵を突かなくてはいけない。うす暗くてよく分からない。「前々、後ろ後ろ、前々」と号令で進んでいく、10-20メートル先で目隠しされた中国人兵士の捕虜が見えた。両脇に古年兵が抱え込んでいる。15メートル手前で、前の捕虜が見えるか?と言われた。誰か突けと言われた。「誰か返事しろ」と教官が言うが、誰も名乗りあげない。「出てこなければ敵前逃亡罪と一緒だ」と叫んだ。「これから名前を呼ぶから出て来い、黒田!」一番最初に呼ばれてしまった。身体が震えた、「前、前」「前、前」という分隊長の声に併せてだんだん目隠しした捕虜が見えてくる。「よし俺に続け」分隊長が脱兎のごとく走る。遅れまいと付いていく。「突け」の命令で捕虜を刺した。「よくやった」と叫ばれた。全部の初年兵がを突かされた。あの時の気持ちはなんともいえなかった。敵と遭遇したことがなくて、撃ったことがなかったが、捕虜を刺して「これが戦争だ」と実感した。その夜の夕食は半分くらいのどが通らなかった。寝たけれども、目の前に捕虜の姿が浮かんでいて、寝れなかった。次の日の朝になった。おなかもすいているから食事も食べられたが。

1945(昭和20)年7月16日 かん南作戦に参加のためかん州を出発

  • かん江左岸を北上行軍、江西省・万安→吉安→吉水→豊城
 

 初年兵だけの行軍にはクーリーは使わなかった。自分が警備している地区でお金をあげて、手なづけている。初年兵がクーリーのそばにいて、逃げたら撃つぞと見張っていた。
 水牛を使って輸送することもあるが、水牛は水を見かけると水に浸かりだす。背中に積んでいる糧秣がぬれてしまうのでとても困った。
 1945(昭和20)年8月14日 劉家(りゅうか)着、大休止。

  • 同年8月19日 終戦を知る。22日安慶へ出発。
  • 同年10月5日 安慶大学に集結して武装解除。行軍は全行程3千キロに達した。

  • 同年10月20日 野戦倉庫警備の任務を命ぜられ、再度武装。
  • 1946(昭和21)2月21日 任務解除
  • 1946(昭和21)3月31日 復員

1946(昭和21)3月31日 復員

 貧弱な体格の私たちが戦場に送られた。弾除けで連れて行かれたものだ。食料の補給はままならず、敵のど真ん中に大きな犠牲を払って歩かさせられ、なぜ歩く必要があったのか、その理不尽さに今も納得はできない。日本の何十倍もある中国を歩かせられた。その責任を断罪することが私たちの役目。歩いた距離は3000キロ。戦って死ぬも生きるも地獄だった。多くの靖国の戦友から守られて生き残れた。
 好き好んで戦争にいったわけではないです。いやおうなく軍隊に召集されたもう戦争はこりごり。誰が自分の子供を戦死させるために、人を殺すために育てる親がいましょうか。平和はひとりひとりの心のあり方で、やさしい心を持ち続けることが大切。戦争を知っている人よりも知らない人がはるかに多い。アジアの人には悲惨な経験をさせて、日本は空襲、原爆で多くの人が死んだ。今ある自由も権利も、巨額の犠牲を払って手に入れたものだから忘れてはならない。

ご本人からのメッセージ

 戦争は日本人の真実の体験である。我々は戦争を憎むが、体験をさげずむことは許されない。日本人が血の代償として、将来命の代償として得た体験をありのまま、次世代の人々に語り継ぐ責務がある。戦場で護国の鬼となった、霊魂は、平和の限りない尊さを身を以って教えてくれた。皆さん一人ひとりが、意識して平和を守る心を頭に刻みましょう。私たちは、過去の悲惨な戦争の教訓を生かし、未来に語り継ぐことが大切です。世界に唯一の憲法9条は、戦争を放棄し、過去の過ちを反省し、隣人を慈しむ憲法です。憲法9条は、平和の神様です。9条は絶対に守らねばなりません。「2度と戦争繰り返してはならない」「2度と起こしてはならない」
 世界の人々と手を携え、語り合い世界のため、永遠の平和を築かねばならない。「世界の若人よ銃を持つな」と声を大にして、口から口へ、耳から耳へと語り伝えてください。今日の平和を見ることなく、殉国の土となられた多くの英霊に応える道です。哀悼の意を表し、冥福を祈ります。不戦の誓いを新たにし、世界の恒久平和を念願します。
 日本は唯一の被爆国です。
 「No More ヒロシマ」「No More ナガサキ」「No More 核兵器」

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