インタビュー記録

1944(昭和19)年4月1日 志願により入学

1944(昭和19)年6月8日 東京北多摩郡の飛行兵学校で生活


慣れない環境で無我夢中だった。ベッドがワラ布団 ラッパで就寝と起床 点呼 清掃 洗面 食事。食事前は礼拝所で拝礼したり 食事後は飛行兵学校の神社にお祈りにいったりした。 午前中は学科 物理と物証  午後は訓練 教練 剣道と器械体操。その後は夕食 入浴自習 夜10時くらいから8時間くらい寝た。進んでくると銃の実弾射撃訓練 鉄砲は一人ずつ持った。グライダーの滑空訓練が始まる ゴムのひもを12人でひっぱる。つらかったのは剣道と毒ガスの訓練 涙が出た 道場の風呂に催涙ガスをまいてマスクをつけて入った。

1945(昭和20)年1月9日  B29に体当たりを目撃した体験 


【震天制空隊】当時B29専門の体当たり専門の特攻隊がいた。飛行機が重ければ高度が出ないという事で機関銃防弾チョッキなどは全部はずしていた。 マリアナから富士山を目印に東京を爆撃する航路が少年飛行兵学校の上空を通っていた。午後2時頃大編隊の後4機編隊が残った。そのうちの一機が遅れた。それに対して日本の飛行機4機が追った。大タカをスズメが追いかけている様な感じだった。 そのうちの一機のエンジンが燃え上下したとおもえば墜落炎上した (丹下充之少尉)。別の一機が斜め上から行ってB29の右肩に体当たりした。B29が白から黒の煙を噴出し落下した。日本の機も落下したがパラシュートで無事脱出した(隊長 高山正一少尉)。高山少尉は着陸後口笛を吹きながらB29の方に歩いていったという。B29撃墜は皆で見ていて万歳と叫んで喜んだ。この高山少尉は銚子沖で1月29日B29を攻撃、体当たりして亡くなった。22歳だった。

1945(昭和20)年2月17日 機銃掃射を浴びつつ卒業試験


卒業準備に追われている頃 太平洋戦争の状況が大変悪くなった。毎日の様に空襲があってグラマンが小型爆弾を投下。訓練が出来なかった。 3月に上級学校へ行くための卒業試験があった 試験中に空襲があっても退避しない様お達しがあった。前日も空襲があり最悪の状態で試験会場へ 警報発令があったが退避せず会場で待っていた。 近くの立川飛行場で機銃掃射と小型爆弾の爆音がした。すぐ超低空でグラマンが来て機銃掃射してきた。ダダダダっと音がして屋根を壊して、教室内も攻撃。試験官と生徒の丁度間を機銃弾が通り抜けた。 千田という級友が弾を拾ってまだ熱いよといっていた。その後また攻撃の恐れもあったが鉄カブトをかぶって試験を続けた。 試験を受けない下級生は防空壕にいて小型爆弾で4人が戦死した。
 

1945年(昭和20年)終戦


その後三重県の学校に行った。数学の授業中下士官が自転車で来てすぐに中隊に帰れということで集合、中隊長が「大東亜戦争は4年にして矛を収めることになった」とだけいって肩を落として檀を降りていった。 休戦と思っていたが後で区隊長が来て要するに負けたんだと話した そこで初めて敗戦を知った。その日は大騒ぎだった。何があっても家族に元気な顔を見せろといわれた。郷里に帰った時は昼で良かった良かったといわれた。

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