インタビュー記録

1940(昭和15)年4月 東京陸軍航空学校に入学(第5期生)

暮らしぶり


親父は五男。貧しい生活をしていた。長男が酒飲みか何かに少ない財産を売ってしまった。次男は奄美大島できこりをしていた。三男がまずはサイパンに行き、それで親父がサイパンに渡って、酒造所で働いていた。30を過ぎてから親戚を介して、沖縄から20歳になる娘を「南洋にはこういう素晴らしい男がいるから」とか言って、半分騙されて見も知らぬ男と一緒になったのがうちの母。初めて会ったのは酒造所で立派な庭があってコイが泳いでいる。 その後サトウキビの栽培をしていた。サトウキビ畑の中にポツンと家があり、一番近い家で約600百mあった。夜はランプ生活、月の夜は楽しかった。飯を食うのには困らない、優遇があったのだと思う。配給所もあってそこで牛車で買い物をして帰る。月の夜はお膳に芋をむいて食ったりするのが楽しみだった。貧しくて芋を食べているわけではない。ヤシガニがいっぱいいて、取ってきて食べた。おいしかった。

1942(昭和17)年 国民学校入学


皇民化教育は同じなのではないか。天皇陛下の話が出て背筋を正さなかったら叩かれた。弁当の時間は「箸取らば、天地(あめつち)御世の御恵み、君と親との御恩味わえ。いただきます」と言って食べた。

1944(昭和19)年


爆弾が落ちたら、親指は耳、中3本は目、小指は鼻、これで伏せをしなさいという練習をした。3年上からは教練ではないけど行進や。戦争とは知らないから怖いとは感じない。 学校で兵隊が生活するようになって追い出された。山の中に掘っ立て小屋を作りそこで勉強した。サイレンが鳴ったら防空頭巾を付けて防空壕に逃げて来いと言うこと。何でだろうと思ってはいるけど、激しい戦があるだろうとは知りはしない。

同年6月13日 艦砲射撃、 6月15日 米軍上陸


戦になる直前にタッポーチ山の上空で空中戦をするのは見た。また戦が始まって、ラウラウ湾でドラム缶が爆発して何十時間も燃えるのは見た。戦(いくさ)が始まると、昼夜なく飛行機は飛ぶし、あの小さな島を軍艦が3重に巻いていたらしい。 最初は家から50mぐらいの防空壕で何日か暮らした。ガラパンの港が見える。軍港から直接見えるので危ないと自然壕に移った。家まで500~600m、3家族が暮らした。夜家に 飯を炊きに行く。照明弾が上がると道端に伏せ、落ちたらまた歩き出す。帰りは熱いご飯を持っているから母親は大変だったと思う。昼になると攻めてくる、夜になると引き返す。次の昼になるともう少し攻めてくる。ピクニックみたい。 トンボ飛行機、エンジンを止めても落ちないで滑空してくる。それが過ぎ去るとその辺りに激しい爆撃がある。日本軍が反撃するとそこに一斉射撃、すると日本軍の射撃が止まる。 ある日、水タンクの水が無くなっている。なくなった頃に捕虜にされた。 艦砲が壕の入口に落ちて爆発した。壕には近所の人もいたが、生きたのが父と母とうちの兄弟3名。そこで10名ぐらい亡くなった。4男はその壕で死んで、5番目長女もそこで亡くなった。叔父さんは壕の入り口で無傷だけど、多分爆風で亡くなった。肩を揺すったけどばたっと倒れた。 多分、母が大怪我をしていたので、父はそこに残った。父の腰にも破片が刺さっていた。看取るまではということではなかったんかな。弟二人は怪我をしていなくて、僕は足に怪我をしていて。 親父に外に行くよう言われ、弟二人とそこを追い出された。危ないし、側にころころ人が死んでいるから。近くに監視塔があって陸軍兵士の自然壕の防空壕があった。職員もいるはずで、そこをたよりに出て行ったが、そこも崩れて誰もいなかった。近くに民家、納屋があって木綿が積まれているところで一晩寝た。 翌日B29が飛んでいって、一つ下の弟が水汲みに行ったのを見られて引き換えしてきて、爆弾を落とされたのと、機銃掃射。うちの次男は頭を打ちぬかれてそこで死んだ。私、長男と、三つ下の3男の弟の二人が生き延びた。 茅葺の納屋も燃えたので、次男の弟の遺体はほったらかしで近くの潅木林に弟と逃げた。 人間の死体、何とも思わない。怖くもないし、ぼけっとしている。悲しいこともない。何でかねとも思わない。親父が出て行けと言ったから出て行ったのであって、怖さ、悲しさ、何にも感じなかった。人間じゃなくなりますね。今もそうかもしれない。

米軍に捕まる


岸壁沿いの崖っぷちの潅木に潜んでいた。 ご~ご~ご~ご~戦車の変な音。戦車部隊が先になって後ろに兵隊が付いてくる。 最初は引っ張り出そうとするけど木に?まって我慢していたけど、鉄砲を手に突きつけられて離してしまった。なだめすかしているみたいだけど分からんさ。笑うと歯は白く見えるけど怖い。チャモロ族は見たことがあるが、あんなに黒い人間がいると驚いた。本当に気持ち悪かった。あとで白いのを見ると目は青いし。 水を飲ませてお菓子を出すが、誰に教えられたわけでもないけど水も飲まなかったし、チョコレートも食べなかった。彼らが水筒から水を飲んでみせてこれは飲めるんだと思った。チョコレート、赤黄緑の10個ぐらい入ったドロップス、これも彼らが口に含んでみせて初めて食べた。 車に乗っけられて収容所に連れて行かれた。 捕まったのは親父と母が先。軍用トラックに乗っけられていた。それを見て安心したと思う。母は病院に行ったが、女性と男性は分けられ、そこで亡くなったであろうけど誰も見ていない。アメリカさんはシーツで丁寧にぐるぐる巻きにして近くの墓に埋め、十字架が立てられてるけど名前がない。落ち着いてからそこにも行ってみたけどどこに埋葬されているか分からない。秋桜が綺麗に咲き乱れていた。現在は宅地になっている。

キャンプ生活


私も親父も怪我をしていたので治療を受けながら暮らしていた。囲いがあった。兵隊の捕虜は別の場所だったと思う。 時々日本の飛行機が飛んで打ち落とされた残骸がキャンプの目立つ場所に置かれていた。 米軍になってからも魚は豊富でおいしかった。配給所があって給食センターみたいな感じ。腹は満たしているんだけど、おこげを貰って食べるのが楽しみで子供が群がっていた。ワカモトは唯で貰えた。 あとは慣れたもんで遊ぶだけ。砂地で秋桜がい~っぱい咲いていた。ターマートンボ(オニヤンマ)がいっぱいいて、カマチリの木にとまって、あの木は棘があるので登れないので竹の筒で落として採った。 そのうち学校らしい学校が近くに出来た。国語はない、英語と算数。先生も1人か2人。 半年ぐらい。週1回は海水浴が出来るようになった。キャンプはフェンスで囲まれているので、そこを出る時は衛兵にガードされながら。戦前は現地民は“トーミナー”“トーミナー”とか悪口を言ってましたが立哨している。この人たちが「トウジョウ、イッセイ、バンザイ、イイナサイ」。意味分からないで「トウジョウ、イッセイ、バンザイ」、手を叩いている。憎かったんだろう。帰りも同じ事をさせられる。情けないよね。 大人は知っていたかもしれないが私は本土の敗戦のことは知らなかった。 野菜は捕虜が作っていたみたい。父は農業に借り出された。赤い布(リボン)を安全ピンで留めてゲートから出てトラックで目的地に行く。帰りに変なものを持ち込んでいると、ゲートに立っている現地民が皮バンドでお尻を叩くのは見た。立場は逆。 彼らも日本教育をする学校はあったけど日本人扱いではなかったから。出入りは好ましくないので現地民のところには行ってない。学校の途中に彼らが住んでいて、下は動物、豚や鶏を養う場所。上に住んでいる。男子はふんどしに椰子の葉っぱ。大人はマチェッテという刀・鉈を持っていて、ある日キャッサバで遊んでいるとマチェッテで脅されて泣いて帰った。男性も上は裸もいたし。 朝鮮の人はフェンスの外で綺麗な建物に入っていた。日本人はバラックの継ぎ足したところにいた。「ちょうせん、ちょうせん、ばかするな。同じ飯食って何違う、天皇陛下一つ」って聞いたことありますか。あれは言うたでしょうね。私の同級生にも朝鮮人がいて、何の意味もないけどいじめた。私もその一人。何であんなにさげすんだんかよく分からない。

1946(昭和21)年2月か3月頃 沖縄に引き上げた 4年生のはずだが3年生に編入


寒かった。食い物がなかった。 学校で「かなしろ」(サイパンでの呼び名)じゃなく「きんじょう」と呼ばれたから返事をしなかったら「南洋ボケ」と先生に言われた。 方言を知らんから友達が出来なかった。近くに優しいやつがいて、いつも迎えに来て、彼と付き合っているうちに方言を覚えるようになって、学校で方言を使うと「方言札」を持たされる。「何で南洋から帰ってきたやつが方言札を持つんだ」と先生にも叩かれるし、家で言われるし。 戦前の民家の綺麗な赤瓦の家があてがわれていて、びわの木やみかんの木がなっていた。びわは初めて食べた。食べて歩いていたら家主の子供が「かま~」頂戴と言ってる。何を言ってるか分からんから黙っとったら、方言で「覚えとけよ」という内容を言われた。家で聞いたらお前何したんだと親父に言われた。 銃弾がたくさんあった。地面に埋めて釘を立てて棒で叩くとぼんとなる。危険な遊び。ざらにあった。アメリカの手榴弾も海で投げてみた。水溜りで小魚を採った。 父親は生活の基盤が出来た頃このことが起こって、妻に子供3名も亡くして、悔しがっていた。サイパンは作面積を聴取したら、自己申告は島の3倍ぐらいあったみたい。1円も貰えないわけだから悔しがっていた。あるとき酒を飲んでいて1回そんな話をした。 補償はいいから墓参の費用ぐらいは面倒を見てもらえないかと私は思う。 厭戦の立場、軍事関係は納得をしない。勝ったから正しかったじゃないでしょ。軍事力があったか運が良かったか。 思い出したくないんではないけれど、しいて喋ることもないんじゃないかみたいな。今後言うべきかもしらん、聞かせておくべきかもしらん。悲惨な話みたいなのを喋らん。言っていかんわけでもないだろうけど。言っていいのかな? よく分からん。自分の人生の一部だから。言って聞かせておいたほうがいいのかな? 自分が死んだら何も残らんから生きているうちに一言二言話したほうがいいかもしらん。今日は教えて貰いました。 何かしら胸のうちをさらけ出したというか馬鹿なことを喋ってしまいましたね。子供に言えたらいいね、子供に言えたらいいけど。



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