インタビュー記録
肺結核のため1938年、1939年と徴兵検査延期
1940(昭和15)年2月 丁種で兵役免除となる
友人が皆兵役についているのに自分だけ参加できないのが残念で仕方ない。
徳島県立商業学校時代の配属将校に相談し陸軍燃料廠を紹介される。
1942(昭和17)年5月2日 陸軍南方燃料廠経理部員に任官(判任文官)
同年7月 シンガポールに。
シンガポールへの日本軍侵攻は2月、この時大量の華僑が虐殺されたと言われている。
実際に自分と同じ部署で働いていた二人の女性は二人とも父親が日本軍に連れて行かれたまま行方不明になっており、一人は妹の旦那さんもいなくなっていた。二人には敗戦まで何度も何度も父親を探せないかと言われた。
敵性華僑という言葉があり、街は日本人を恐れて人通りがなくなっていた。ただ侵攻部隊が去り駐留部隊は性格が違うという事が分かって少しずつ街に人は戻ってきた。
自分は日用品を売る酒保の担当。兵役につけなくても自分も何とか戦争に役に立つことはないかと鵜の目鷹の目で工夫をした。本来決まっている仕入れだけではなく町からものを買い付け、支廠(南北スマトラ、ジャワ、ボルネオ、ビルマ、バンドン石油研究所)にも運んだ。
燃料廠は軍人100名、軍属1400名、現地労務者3500名ぐらいの構成。軍属だから下に見られるような事はなかった。女性軍属110名(事務員)もおり銃器は倉庫にしまわれ軍人も軍刀のみ。軍隊組織の雰囲気はなく官庁のような雰囲気だった。
現地労務者は採油・製油・運油・貯油の技術者が多く、英軍に雇われていた者を中心に再雇用、現地の仕事としては賃金もかなり良い方だった。
(木村さんが当時現地で聞いた話によると、)1944年連合軍の機動部隊によるパレンバンの空襲があった。この時パイプに火が入りガソリンが白熱の液体となって作業員の体にかかり、「ぎゃー」という叫び声があがると骨ひとつ残さず体が消えてしまった。
(木村さんが当時現地で聞いた話によると、)またパレンバンの井戸が火災を起こしたことがあり、この時は2か月かけて爆風による消火を行った。
新しい油田の開発も燃料廠の仕事。
1943年地質学者の博士(軍属)がパカンバルア(スマトラ島中部)付近で新しい油田を見つけた。ここの油は空気に触れるとすぐに硬化する性格があり、固体で運ぶことが出来た。そのため経理部は籐製の籠を2万個調達したが部内には大変な高揚があった。
燃料の配分は燃料廠の権限で飛行機や軍の自動車が優先されたが、一部は民間用にも市中に出されていた。
陸軍の油田(スマトラ島、ボルネオ・ミリ、ビルマ・エナンジョンなど)と海軍の油田(タラカン島)は本来分かれていた。海軍に対してもセレタ軍港などには供給していたが、そのために海軍による陸軍燃料廠への働きかけが行われていた。帝国石油、丸善石油などによる働きかけもあった。
1945(昭和20)年3月
戦局が悪化しシンガポールの高地に陣地構築が行われた
この陣地構築用の食料の貯蔵が必要となり砂糖の確保に行った。軍司令部への接待を行いジャワには山積みになっていた砂糖を700トン燃料廠に回すという決裁をもらう。0.5~150トンのジャンク何隻にも分積させてこの砂糖をシンガポールへ移送した。
一番大きい船に乗り船団を連れたこの姿を両親に見てもらいたいと思った。
700トンの砂糖のうち210トンは民間用に市中に出回った。残りは倉庫に収納したがすぐに敗戦となったから英軍に渡ってしまった。
同年8月15日 敗戦
市中の人たちは大喜びで日本人はしゅんとしていた。
シンガポールにいるとなぜ敗戦になるのかはピンと来ない出来事だった。
同年8月31日 マレーへ移動命令が出るが木村さんはジュロンに残留となった
その後ケッペル収容所へ。
英印軍の銃で狙われながらの労役が始まる。
ぐずぐずしているちムチが飛ぶ。もともと結核の身体だったのでこれは生きて帰れないだろうなと思った。
しかしその後次第に英印軍の態度も変わってきた。こちらも痩せこけていても無理をしてでも笑顔を作るようにした。捕虜なら捕虜でプロの捕虜になろうと思っていた。
一番情けなかったのは、一度一人だけ捕虜を貸せということで、英軍がトランプをしている所に呼ばれた。敗戦前ビールを飲みに来たなじみの場所だった。
英兵たちの大便が便器に山積みになっており、水が流れないのでこれを掃除しろと言われた。渡されたのはバケツだけで道具一つくれないで英兵はこっちの様子を伺っている。Hurry up! と言う。
手ですくって移した、便器の白い部分が見えてくるまで3時間ほどかかった。英兵はThank you Thank youと2回言ってタバコをひと箱くれた。
この時の出来事は本当に強烈で、その前の砂糖船の事などすべて遥かかなたに押しやった。
ジェントルマンの国と言いながらそういう事をする英国人への憎しみがずっとあったけれども、その後30年ぐらいしてあれがなければ自分はイヤな人間になっていただろうと思うようになった