インタビュー記録


1940(昭和15)年3月 南満州鉄道に就職

  • 旧制中学校を卒業後、奉天鉄道技術員養成所入所。満鉄青年隊員となる。
  • 養成所卒業後、錦州鉄道局葉柏寿電気区に配属となる。

 大陸に憧れ、馬賊に投ずるぐらいの気持ちだったが、それでは親が共感しないので満鉄へ就職した。養成所に行くのは予定が違った感じだったが、拒否すれば帰国するしかないので入所。子飼いの技術者は大事にされ、初任給80円、高等師範出の初任給が85円、一般師範学校出で45円。寮も安価だし使い手がない。だから女性と遊んで身を持ち崩す者もいた。
 次席技術員で錦州へ、10代で何の経験も無いのに、助役、技術員につぐNo3の立場。北京大学や鉄路学院(満鉄が現地の技術者を養成するための学校)の卒業者が下にいて日本の国鉄から庶務助役が来ていて威張る。当時は軍国青年だったがやや正義感で現地人蔑視に抵抗したので中国人からは慕われた。
 共産匪”(八路軍)の地域だったので駅が襲われる事はあり、日本兵がゲリラに襲われることもあった。

1942(昭和17)年12月15日 現役

  • 砲兵第29連隊(奉天省海城県海城)

 満州にいる人間は菊地さんの年から帰国せずに満州で兵隊検査を受ける事が出来た
 ふんどしも付けささず真っ裸でやる
 メガネをかけていたので乙種合格だが、当時柔道3段で体力の必要な山砲に
 慣れないと馬の横腹に砲身が落ちてくる、あまり締めると馬の息が付けないし、緩くすると砲が落ちて馬が死んでしまう。お前らは1銭5厘だが馬はそうじゃないんだと苛められて自殺した者もいた。

1943(昭和18)年6月1日 一等兵

  • 同年 7月10日 第一次兵科幹部候補生に採用(上等兵)

 資格のある者は否応なしに受けさせられた。採用は有資格者の半分。

  • 同年10月30日 海城陸軍病院に入院(肺結核)

 症状は何もなくて元気だったが、医務室に呼ばれ喀痰検査で陽性でかなり排菌(ガフキー5号)していると言われた。おもしろくないので「将校が足りないと志願させてこんなに元気なのに入院させるとは何事だ」、「軍医殿は産婦人科だと聞いておりますが結核が分かるのでありますか」と言ったら、上官侮辱罪だと怒られすぐに中隊長に申告しろと言われてマスクを付けさせられ、臨時入院となった。

同年11月10日 兵科甲種幹部候補生(伍長)

 白衣に伍長の階級を付けさせてくれた
 おもしろくない。症状がないので、周りが結核の患者だからこれは本当にうつるんじゃないかと、自分が病気のくせにうつされないようにマスクを付けて寝ていたが、苦しいので3日ぐらいで止める。マスクを外した朝の検温の時同室で一番重かったM一等兵が死んでいた。結核菌は死ぬ5分前に外へ出るという変な知識があった。大部屋で死んだことは軍でも責任が発生することで個室に慌てて移し格好を整えていた。

同年12月18日 兵科甲種幹部候補生を免ぜられ、同日一等兵

 少尉任官の前に病気になると一等兵に戻ってしまう。

同年12月27日 内地還送のため海城出発

 29日鮮満国境通過。30日釜山港出発~博多湾上陸。
 軍は原隊が動くと野戦病院について動かないといけないシステム。
 皆早い内地還送を求めもっと重傷の患者がいるのに、連隊長が来て10日目ぐらい異様に早い還送となった。
 悶々としていたので連隊長に激烈な嘆願書を書き指を切って血判を押した。
 偉く有名になって院長(軍医中佐)にも声をかけられる。
 第一装の白衣が持ってこられ「連隊長の面会だ」と言われビックリ、偉い事になったなと思って応接室に行くと「君の心持ちとしては納得のいかないものはあるだろう」と30分ぐらい話した最後に「君は今死に急いでいるが死ぬことだけが能じゃないんだ」と言った。「これは連隊長命令だ。生きろ、生きてやる事がある」使い古した「般若心経講義」を手渡してくれた。感動してこれが転機になった。

1944(昭和19)年1月1日 廣島陸軍病院に収容
  同日、野砲四十三連隊に転属

 同年6月12日 現役免除。同日退院。

高等師範学校を経て教諭に

(※以下映像証言には無い、ご本人が加筆した内容です)

 現役免除後故郷山形県溝延村に帰ったが、まだその頃は負けるとは思っていなかった。再び満鉄に帰る心算であった。その間学校に行く事を考えた。しかしその頃は学徒の工場勤務があって、落ち着いて勉強するところがなかった。いろいろ情報を探ったところ東京高等師範の中に傷痍軍人中等教員養成所というのがあった。いわば傷痍軍人を教壇に立て、国威宣揚を考えたわけである。しかし兵隊から帰って頭が固くなっているので入学試験で合格出来るかどうかが問題。私は国語漢文科、定員があってもないのと同じ、私たちは5人だけが合格、うち1人が退学し4人が卒業、という実態であった。
 思いもかけず敗戦となり、傷痍軍人中等教員養成所というのはまずいという事になり、存続か否かで学校関係は苦労したようです。結局特設中等教員養成所と名前を変えて、私たち1948年3月卒業を最後として終わりになっています。戦争との関わりの中で学校として貴重な歴史を語るものであります。(東京教育史にも私が資料を出して載せてあります。)
 現在、東京高師、文理科大学、教育大、筑波大の関連名簿では東京高師23年中教卒となっています。
 結局私は群馬県立高校教諭、教頭、校長と歴任、退職しました。
 この学校の存在は戦争史の一駒となります。

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