インタビュー記録

1942(昭和17)年5月1日 土浦海軍航空隊に入営 志願

乙種飛行予科練習生18期手


土浦に入隊した1500名の半数が、まだ工事中の三重に移動。 乙飛の18期、岩国から来た乙飛17期、甲飛10期が集まって三重航空隊が開隊した。 乙飛は高等小学校を出ただけなので、高校から先生が来て英語や物理など普通科が重点的に教えられた。

1943(昭和18)年春


博多で赤とんぼで離着陸の訓練、峰山海軍航空隊(京都)で更に実施訓練。 結核の既往があったので戦闘機は無理だから艦上爆撃機に行けと言われる。 名古屋海軍航空隊で99式艦上爆撃機による訓練。

1944(昭和19)年 第302海軍航空隊(厚木)に 半年ぐらい


夜間戦闘機の部隊と聞き、艦爆の訓練をしたのになぜだろうと思ったが、彗星(水冷式の艦上爆撃機)を夜間戦闘機として使用していた。上に斜銃がついており、B29に下から射撃を出来る。
 

1945(昭和20)年5月 第701海軍航空隊(米子)


特攻隊に行けと命ぜられ移動、特に希望調査はなかった。急降下爆撃の訓練。 1945(昭和20)年7月 隊長(中津留大尉)と一緒に大分に移動 大分は空襲が激しくほとんどが待機で、飛行作業も1回のみだった。 山の中の防空壕に寝台を並べてそこに分宿した。

1945(昭和20)年8月15日 出撃


午前中壕で横になっていると搭乗員は飛行場に集まれと伝令が来た。「敵の機動部隊が東シナ海を北上中、これに反復攻撃を加える」との命令。出撃を待っている間、他の兵科の兵隊は重大放送があるからと広場に集められているのを見た。昼食に缶詰の赤飯を食べ、横になって待っていた。 3時過ぎに宇垣第5航空艦隊司令長官以下幕僚を乗せた車が3台着いた。  11機、22名(各操縦者と偵察員)が整列すると、宇垣中将は中津留大尉に「3機だけ用意しろと言ったのに何でこんなにようけ連れてきてるんだ」と言った。中津留大尉は「長官が出撃されるのに3機だけとはいきませんから私の部下は全員連れて行きます」(注:これについては3機ではなく5機と書かれた資料も多い。)  宇垣中将は「どうせ皆死ぬんだ。沖縄は近いから操縦者だけで良い、偵察員は降ろせ」と言ったが、偵察員の一人が「3~4年も一緒にやって来て我々だけ残るわけにはいきません」と答え、「そこまで言うんだったら君たちの命は私に預けてくれ」となった。 宇垣中将は「私は成功しようがしまいがこの短刀(山本五十六からの遺贈)で腹を切って死ぬ」と演説した。 中将はじめ幕僚から搭乗員に酒が注がれた。お酒はまったく飲めなかったので、口だけつけて偵察員の日高にホイと渡した。日高は酒が好きだったので、自分の分と二人分飲み干した。それで少し酔って、整備兵がエンジンをかけている飛行機の下に大の字になって寝よる。「日高、乗らんか、出発するぞ」「おう、いい気持ちや」 電短に捕まらないよう、編隊を組まず単機で行動するよう命令されており、1機ずつ飛び立った。 同じく7500m以上で飛ぶようにという命令も出ていたが、酸素マスクをつけるのが面倒なので、「6500~7000ぐらいで行くぞ」と日高には声をかけた。 自分の飛行機は順番がかなり後の方で、離陸は5時半を過ぎていたと思う。 750キロの爆弾を積んでいたが、胴体からはみ出る大きさで、ワイヤーで吊るし爆発でワイヤーを切って落とすようになっていた。重いのでオーバーブーストをさせて離陸。  小型機を1機見つけたが近づくと一緒に発った友機で、偵察員の予備学生が黒板に「近寄るな」と書いて見せていた。  どこまで行っても眼下に爆撃の煙も炎も見えない。高度を3000mまで下げる、沖縄なのに灯が見えない。  もう燃料がないぞ、1500mまで下げる、地図を確認して沖縄に間違いない。爆弾を海中に落とし戻ることにした。

鹿児島沖に不時着


夜間飛行には慣れていた。種子島まで飛び、九州まで飛べる燃料が残っていた。鹿児島を目指したが、鹿児島まで来ると欲が出て原隊を目指すことにした。 しかし早々に燃料切れを起こし不時着することに。海岸線は砂浜が見当たらず、仕方なく海面に着水した。日高は火災にならないようバッテリーのスイッチを切ろうとしたのだと思う。それと着水の瞬間が重なってしまった。  私は操縦桿を握って踏ん張ったが操縦桿で歯を2本折り気絶した。水のブクブクという音で気が付き脱出しようとすると、風防が開かない。突き破ってそこから体を出し、後ろに回って日高に声をかけたが、彼はスイッチを握り電子機器に顔を突っ込み顔が二か所裂けていた。 海に飛び込み海岸まで泳ぐと、半鐘が鳴って、陸軍の警備隊が船を出しているが着剣している。マフラーを振って友軍だと叫んだ。「飛行機に1人残っている」と言ったが「夜で探せない、明日の朝船を出します」となった。  遺体は翌日引き上げられ、戸板に乗せて、魚を運ぶトラックで鹿児島航空隊に運んだ。医官が診てくれて、即死だったと告げた。 焼き場は燃料不足で、外に民間人の遺体が数体置いたままになっていたが、すぐに焼いてくれた。

原隊に帰隊


骨箱を持って列車で大分の原隊に帰り、中津留大尉の後任の若い隊長に経過を報告すると、「ご苦労」とだけ言われた。 部隊の者から「生きとったのか、戦争は終わったぞ」と聞いた。  特攻隊は国分(鹿児島)に集結することになっているから、そちらに遺骨を預かって移動しろと言われ、偵察機に便乗したが離陸前から音がおかしい。案の定上がるとすぐにエンジンが止まり宮崎空港に不時着。日高の遺骨を持っているし、自分だけ生き残って日高が寂しがって迎えに来たかなと思ったが、無事降りられた、そこから列車で国分へ。

国分(鹿児島)に集結後、復員


国分では人だかりがしていて何かと思ったらお金が配られていた。 お前の部隊の名簿は山の上の方にあるからそちらに行けと言われたが、面倒なのでもういいと思ったら、それでは帰れないだろうからと皆が数円ずつくれて20円ぐらいになった。 帰って良い、飛行機があるものは乗って帰省先の近くの飛行場で処分して良いとなったが、飛行機は皆誰かが乗っている。輸送機に便乗し、呉、米子と人を降ろして徳島に戻った。 同郷のOとTが整備不良の飛行機で帰ると言う。「危ないぞ」と言ったが、九州から四国だから大丈夫だと。Oのお姉さんに会ったので「明日ぐらい帰ってくるぞ」と伝えたが「帰ってこない」と言ってきた。調べたら高知の海岸にTの名前の入った飛行靴を履いた遺体が上がったと分かった。

1945(昭和20)年8月23日 自宅に戻る


敗戦は正式に言い渡される事はなく出撃した。 搭乗員だけ離れたところにいる環境だったので玉音放送も知らなかった。 一方で長官が「成功しようがしまいが腹を切って死ぬ」と言うのだから、最後の特攻なのだろうという感じはあった。 敗戦とはっきり聞いたのは原隊に戻って部隊の仲間からが最初。 訓練中毎日のように格納庫でお通夜があり、訓練そのものが命がけだった。 死ぬのはなんでもなかった。 長官にお供しますと中津留大尉に言われて「ハイハイ」と付いていくだけ。 注:残る10機は8機が未帰還、2機が遠くに行けずに不時着をした。

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