インタビュー記録

鳳凰開拓団について


竹原村と中原村が1938年経済更生計画村の指定を受け、県下では最初の分村を満州に作ることになった。 1940年、竹原村村議会議員を団長に入植開始。 位置 満州国北安省徳都県南和村(現黒竜江省)、北安街から北に20キロ地点。 敗戦時 大人の男性68名、女性60名、子供男性72名、女74名 計274名。60世帯。 鳳凰開拓団での自決死亡者 206名 濃飛開拓団での自決死亡者 9名 引き上げ中に病死 9名 ソ連に抑留中に死亡 5名 行方不明 2名 引き上げ帰還者 48名

1942(昭和17)年3月 一家で鳳凰開拓団に入植


村の人々や子供たちが皆で日の丸を振って駅で送ってくれた。当時地域には2つの小学校があり400人近い子供たちがいた。 同じときに行ったのは4~5家族、40人ぐらい。 満州にはあこがれを抱いていたし、当時は地図の朝鮮も台湾も赤く塗ってあったから、満州に行くことは今の北海道や九州に行くような感覚だった。 ○父母と8人兄弟で渡満し(慎一さんは第2子の長男)向こうで一番下の坊やが生まれた。 祖母は寒い所は嫌だと名古屋の娘の所に行ったが、娘が結核で亡くなったため、1944年にあとから入植した。死にに行ったようなもの。 父は敗戦時42歳。 私は入植時国民学校高等科の1年を終えたところで、開拓団であと1年学校に行った。 ○開拓団は米は配給があり(複数の開拓団を束ねる農協のような組織があり、そこから配給された)、鶏は各家で100羽近く飼っていて、やがて乳牛なども飼うようになり食糧に困ることはなかった。

1945(昭和20)年8月11日


開拓団はそれまで二つの部落に分かれて暮らしていたが、ソ連参戦を受けて私たち第1部落は、団長ほか幹部の多くいた第2部落に引っ越しになった。この結果6キロほど更に奥地に入ることになって仕舞った。

同年8月13日 現地召集


父親をはじめ残っていた団員に召集が来て出かけた。 彼らはその後、結局敗戦と言う事で帰された。

同年8月15日 敗戦


敗戦は団長から聞いた。県から電話があったのだと思う。学校ではラジオでも聞いたらしい。武器は家畜が野生動物に襲われるため持っていた。銃があり、機関銃も団に一つあった。手榴弾も持っていた。 武器を返すように県からは何度も言って来たが、県公署が遠かったし、武器は唯一の便りで従わなかった。ここで返却をしていたらあんな事にはならなかったかもしれない。

同年8月23日 若い男女2人が開拓団に逃げ込んで来た


それまでも今後のことで議論は続いていたが、この2人がソ連軍が女性を襲い暴力を振るっている様子を伝えたので、皆死ぬ気になって仕舞った。 18歳だった姉はそんな事なら自決した方が良いと言っていた。ソ連の戦車が数キロの集落まで来ていると出入りしている中国人が言っていた。実際にはそんなに近くには来ていなかった。また後日実際に戦車を見たが大変大きく、集落に来るには必要な橋を渡れるはずがなかった。本当は都市部まで近い開拓団だったから、そこに行けば途中死ぬものは出ても、あんなに皆死ぬことにはならなかったと思う。幹部たちは議論を繰り返していたが、酒やこれまでに蓄えたいろいろなものを持ち出し、それをあおりながらの議論になって来た。お酒は結論が出てから飲んだのではない。 私たち青年団の者はその場にまったく居なかった訳ではないが、発言できるわけもなく、主に監視塔に上がって見張りをしていた。 晴れ着を出してきて家族に着せるものもいた。 夜、いざと言う時には飲めるように赤いセロファンにモルヒネを包んで配られた。 毒薬があるならまだいいが、モルヒネではすぐに死ねるわけではなく苦しむだけ。家族ごとに遺髪を集め、開拓団で日章旗を掲揚していたポールの足元に置いた。母は「死にたくない」と言っていた。 祖母も自分は年だから良いが幼い孫たちは可哀相だと泣いていた。 3番目の弟が警察の通信の勉強のため旅順に行っていた。 母と祖母はこの子が1人残されるのは可哀相だから、私と父だけは何としても生き延びる ように言って、リュクを作りそこに食料などを詰め込んでいた。父はI校長やほか数名と生き残り逃げる打ち合わせをしていたらしい。 姉が成田山のお守りにお守り袋を作ってくれて、首にかけてくれた。(現在も車にこのお守りをかけている。) また親しい軍人から貰った夜光時計をくれた。これはのちの逃避行でとても役立った。

同年8月24日


開拓団は周りを土塀で囲んで作っていたが、外には現地の人たちが真っ黒に取り囲んでいた。 青少年団が集められ校長から「ソ連と戦闘になった時は自決用に最後の1発は残しておくように。銃口を喉にあてて足の指で引き金を引くので軍足の親指を切り抜いておくように」と指示された。 モルヒネを飲む時には団長の指示で私が半鐘を鳴らす事になっていた。 監視塔の上にいると半鐘を早く鳴らせと下に集まって来る人もいたが、団長の指示は未だだからと頑張っていた。 鐘を鳴らさないうちにある人が自分の家の火鉢に手榴弾を投げ込み、火が出て藁ぶきの屋根に燃え移って仕舞った。 手榴弾では死にきれず弟の同級生が飛び出してきたが、父親のYさんは青年団の私の先輩に撃つように頼んだ。先輩は酒の強い人で、随分飲んでいた勢いもあったのかすぐに頭を撃ってしまった。Yさんは息子の遺体を燃える家の中に放り込んだ。 団長が自決を決意、合図の鐘を鳴らしモルヒネを飲み始めたが嘔吐するばかり。 見かねて団員は次々に手榴弾を自分の家に放り込み、あちらでもこちらでも火の手が上がった。 死にきれず飛び出してくる子供などがどの家もいたが、他の家の団員が殺した。 ○先の先輩は飛び出してきた弟も銃殺した。弟の方も覚悟を決め合掌をし、先輩は「俺もすぐに行くから笑って死ね」と言って撃った。 私の家でも他の団員が手榴弾を投げ込み、3男と4男が飛び出して仕舞ったらしい。父は自分では撃てず他の団員に殺してもらった。私が見たときは家は激しく燃え上がり、家族の遺体は見ていない。 家族の自決が終わってもすぐに団員の自決は起こらなかった。 ○父と校長たちはこっそりと抜け出した。 私は前日まったく寝ていなかったので本部で眠り込み寝ぼけて仕舞ったらしい。父は私を起こし後ろに付いてきていると思っていたが、私はまた本部に戻って寝てしまった。父は隣の濃飛開拓団まで行って私がいないことに気づき、来るように電話をしてきた。Yさんは激怒して「お前の父親は死ぬのが怖い臆病者だ」と私を怒鳴りつけたのが忘れられない。 しかし団長は「桂川と一緒に行きたい者は行けば良い」と言い、更に何人かが一緒に行くことになった。団長はまた「ここに団のお金が5000円あるから持って行け」と言ったが、お金の事なんかを考えるような感じではなく大金だが貰わなかった。 1か月ほどして開拓団の集落のあったところに戻る あてもなく西へ向かったが途中で中国人に襲撃される事を繰り返し、これぐらいなら家族が死んだところで死のうとなって戻ってきた。開拓団のあったところはすっかり焼け野原になっていた。 けれど死にそこなった人間は結局死ねない。あまりに悲惨な光景を見ると逆に本気で死ねなくなってしまう。 そこにいると、開拓団にいた“唖”の人がどこからか出て来た。彼は家族の集団自決の時に銃殺されたと思われていたが、弾は肩の肉をえぐったものの命は助かり、どこかに隠れていたらしい。その後自分の兄弟たちもどこかで生きているのではないかと時々思うようになった。 女性でも一人、負ぶっている年齢の子供と生き残っている人がいて、出てきた。私もソ連と戦うから連れて行ってくれと言われたら断ることはできない。そもそもこちらも死に損なった人間だし。 開拓団の集落の前にいて関係の良かった中国人のリーダーが、「お前たちは家族を殺してしまうとは何をしているのだ。とにかく北安街に出ろ。中国人の恰好をすると良い」とアドバイスしてくれた。 残っていたお金やもので中国人の洋服をそろえて貰い武器は彼らに渡した。姉の夜光時計を中国人のリーダーに渡したら大変喜ばれた。 北安街に出てそこから列車で新京へ 日本人がいなくなった寮に入った。 父は一番お金を持っていた菓子職人だった人と組んで、空き家になった家を借りてきた。のちに寮ではチフスが流行ったので、寮に居たら帰れなかったかもしれない。 菓子職人が菓子を作って父と私で売って歩いたが、売り先は日本人だけでやがて行き詰った。 居留民会が名簿を作り帰国を進めていった。

1946(昭和20)年8月7日 白竜丸で博多に帰国


コレラが出て乗船が2週ほど遅れた。 私の家は叔父の意見で土地を残して行ったので良かった。他の家は土地も家も全部売って出かけていたから更に大変だったと思う。暫くは生活することで懸命。 やがて開拓団から召集され、シベリア抑留をされた人たちが帰国してきた。開拓団では彼らの出征の時、家族のことは心配するなと日の丸で送り出していた。何も知らず帰国したら家族が殺されていたのだから反目は激しかった。私は敗戦時子供だったからそんなでもなかったけれど、父は相当きつかったと思う。



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