インタビュー記録
※以下の証言概要は、証言映像の内容に加え、軍歴を中心に御本人が加筆をしています
1939(昭和14)年1月10日 現役
歩兵第43連隊補充隊(大森部隊第1機関銃中隊大隊砲班)入営。
同年5月 幹部候補生に採用されるとともに渡満、東安に
歩兵第43連隊第1大隊第1機関銃中隊大隊砲班付。
同年9月 甲種幹部候補生に採用される
ノモンハン事変で応急動員下令時は待機。
同年10月 奉天甲種幹部候補生隊(南部部隊)が創設され入隊
第1期生、予備士官学校4期生。
1940(昭和15)年7月 見習士官として内地転属
兵隊教育にあたる。
同年9月 編成改編により新設された歩兵第143連隊第2機関銃中隊付に
同年11月 陸軍少尉に任官 予備役となり同日付で応召、引き続き大隊砲教官。
1941(昭和16)年11月19日 香川託間港を出航
歩兵第143連隊第2歩兵砲小隊長
駆逐艦・戦闘機の護衛がついていた。
台湾を経て仏印サイゴンで補給、上陸も許された。
同年12月8日(太平洋戦争開戦の日) タイ南部へ上陸
7日サイゴンを出航して1~2時間は北上、中国への補充兵のように見せかけていたがその後夜半反転してタイへ。奇襲上陸か平和進駐か「新高山登ろ否か」の合言葉で二者択一前者を採り連隊は3箇所に分かれて奇襲上陸。
上陸地点は3か所あり、プラチャップキリカン飛行場奇襲に上陸。
上陸用舟艇を降ろしたが、浅い湾はその日しけが酷く、将兵は皆船酔いして、船の中で前の兵隊の背中に吐いているようなありさまだった。
第1回に小銃隊が上陸、敵の不意を付き、警戒されていなかったので敵を通り越してしまった。
次の大砲上陸で目覚めた敵、機関銃の応戦を受けたため、舟艇が引き返したく「早く降りろ」と足のつかないところで降ろされてしまった。私は息継ぎをしながら前進、兵がどんどん降りてくるので嫌でも前へ押し出されていく。幸いなことに岸に近付くほど敵の死角に入り被弾が避けられた。
その後32時間撃ちあったが、タイとの間に平和進駐の話が成立した事が伝えられた。
戦死者は多かったが平和進駐であるためこの戦死者及び戦果の詳細は発表されず、その後も十分に扱われなかった。
1942(昭和17)年1月 ビルマに侵攻
バンコク市ワーグナー女学院に宿営。
ビルマ侵攻作戦のため北部タイに移動、ピサンローク、メソードよりビルマ・タイ国境のジャングルを切り開きながら進み、馬が崖から落ちて死者も出た。数日間太陽を見ない前進もあった。
1月30日モールメン赤塔陣地の堅陣を攻略し戦死者の多くを出した。その後サルウィン河を渡河、対岸のマルタバンを挟み撃ちして占領。
同年2月
引き続きシッタン河の線に進出後、爆破された鉄橋付近で渡河。第2大隊は連隊主力と一緒にラングーンには入れず、トングー、旧都マンダレーに向け進撃
同年3月
エダッセで激しい戦闘があり、双方戦死者を出したが、この時以降は旧都マンダレー、ミートキーナへの追撃戦と掃討戦を兼ねた戦闘。
同年5月 ミートキーナ占領
連隊本部は同地に。
第2大隊は雲南に近い緬支国境近くのトウゴー作戦に主力参加するが、当面の敵は中国領に退却済みを確認したので、連隊本部の駐屯地ミートキーナに引き上げ、大隊砲は対岸のワインモーに引き返し駐留、同地の警備に就く。
同年6月 マラリアを再発
ミートキーナ野戦病院、ラングーン第6兵站病院、ジョホール南方第3陸軍病院と転送される。
同年11月 治癒して復帰、連隊本部付きに
同年12月 印緬国境に反攻進出した英印軍に応戦準備のため
部隊はペグーに移動
隊員、及び弱兵強化のため連隊訓練隊を編成、この隊長を命ぜられる。
1943(昭和18)年 ~4月 第1次アキャブ作戦(31号作戦)
この頃ペグーでの隊訓練隊を原隊に返すよう命令を受ける。
訓練中の兵隊と一緒に移動するがブチドン到着時には戦闘はほぼ終了していた。5月5日硝煙臭いブチドンだった。
戦場掃除がまだ終わっておらず地雷がたくさん埋まっていて、兵の身体がバラバラになったのを見た。移動の挨拶に来た兵隊が翌日死んだ事もあった。
1944(昭和19)年2月 第2次アキャブ作戦(ハ号作戦)
ブチドン、モントウ街道を死守せよとの師団命令で昼夜の別なき激戦、英印軍と攻防を繰り返した。
英印軍に囲まれ食べ物の補給がないまま45日間我慢させられた。食糧は最初近くの部落から強奪したがそれもすぐに無くなった。蛇、草など何でも食べながら空爆に耐えたが敵に包囲され悪戦苦闘した。
観測所から見ると英兵は鼻歌を歌いながら撃ってきている事が分かった。
ある日大隊長から大隊砲で戦車を撃てと言われたが効果がないのが分かっているので「出来ません」と言うと「叩き斬るぞ」と言われたが副官がとりなしてくれ、その場は済んだ。
その後インパール作戦が始まり“ぱ~っ”と我が当面の英印軍が引くのが分かった。5月4日、ブチドン西北ポンコリ、最後の大隊砲射撃で、ブチドンを攻略した敵重砲陣地を撃砕炎上させ、連隊長より賞詞を頂いた。翌日連隊長、副官、戦死。
同年9月 警備を第2師団と交代し、ビルマ中央地区の警備に就く
1945(昭和20)年 5月 ペグー山系に集結し7月20日シッタン平地を敵中突破
8里ほどの距離を移動するだけなのに2週間かかった。
廻って廻って夜が明けるころ同じ場所に戻ってきていた事もあった。
その道中に負傷者が点々としていた。
同年7月末 シッタン河の渡河
シッタン河を渡河せよの指示だったが、ペグー山系の竹を切り筏を作り、現地の丸太船を見つけてきてそこに大砲を乗せ、兵隊は作ったイカダにつかまって渡ろうとした。自分は泳ぎが得意で、漁師の当番兵と一緒に泳いで渡り切った。丸木舟に兵を乗せればもっと助かったのだろうが砲を優先した。しかし砲を運ぶだけの兵隊が渡河できず砲は川岸に埋めて丸腰となった。
残念な渡河戦で、河の曲がるところには遺体が山のように折り重なって打ち寄せられ無惨この上なし。また渡れなかった側の部隊対岸には集中砲爆撃があり全滅した。
同期の友人を一人残し丸木舟を返すと約束したが、夜が明けてそれが出来なかった
敗戦以降復員まで
戦犯容疑部隊副官(第3大隊副官兼務)、復員事務にあたる。