インタビュー記録

1944(昭和19)年12月1日 東部6部隊入隊

 1週間後に出発。品川に集合し、北支新郷出に到着。

1945(昭和20)年3月まで 初年兵教育

 第117師団独立歩兵第204大隊(弘1468)に配属。

1945(昭和20)年4月~6月 南陽作戦に参加

 70名の初年兵教育 その中から2名が南洋作戦に参加。20年4月から6月まで参加。6月に新郷に戻ってきた。
 新郷飛行場は、飛行機は一機しかいなかった。すぐに落とされて飛行場にベニヤ板の飛行機を置いて、飛行機があるようにカモフラージュした。南陽作戦中は、毎日背嚢をしょって銃を持って40K行軍。合っていない靴を履かされていたので今も足が変形している。当時の上官が「自分の足を靴にあわせろ」といわれた。
 南陽作戦中は銃の手入れ、馬の手入れ、上官の洗濯、食材の調達等で多忙でした。交戦もしたが、戦争の厳しさと恐ろしさを知らされた。

1945(昭和20)年7月 満州に転戦(白城子~大賚)

 関東軍が内地に異動したため、加藤さんの部隊は北上、満州白城子へ。
 8月ソ連と戦闘。陣地構築。戦車で明日攻めてくるので、蛸壺を掘って待機しろ。戦車が来襲してきたら、爆薬をもって飛び込めと命令があった。一晩蛸壺に待機。たまたま敵戦車がくる前に撤退命令(転進命令)が出て、命びろいをした。

1945(昭和20)年8月17日 終戦2日後大来にて終戦を知らされた

 新京へ移動して武装解除。ソ連の兵隊がトラックできて、日本の女性をどんどん連れて行ってしまう。
 武装解除後のため、武器は持っていなかったが、兵士の格好なので、トラックに載せられた女性が「兵隊さん助けて」というが、武器もなくて助けることもできなくて、敗戦の悔しさと惨めさを強く感じた。

1945(昭和20)年9月 シベリア・チタ州カダラ地区ハラグンへ抑留
            その後 ハラグン~バレスキー~デムカ

 9月8日、新しい部隊編成。515労働大隊、1500名。
 シベリヤに移動。ハラグンへ。
 着いた時には雪が降っていた。建物がない原野に連れて行かれて、「ここで生活しろ」
 一晩は戦友同士で抱き合って雪が降る中寝た。
 半分の兵士は山へ伐採。半分は兵舎づくり。ソ連では、伐採という仕事は一番重労働。
 帰国するまでずっと伐採と伐採した木材の貨車積みの仕事をした。

1946(昭和21)年5月まで

 雪が解け始めるまでの9ヶ月間は食べ物もなくて、地獄のような生活。
 朝200グラムの黒パン。岩塩を少し入れたスープ、飯盒に四分の一。お昼は麦のおかゆで飯盒に四分の一。夜は大豆の粉のおかゆ、飯盒に四分の一と、大豆のゆでたものが20粒。これが9ヶ月間の毎日の食事。
 1500名の3分の一が栄養失調で死んだ。死ぬ前夜何でもよいから腹一杯食べたいなぁと話した戦友が朝、飯盒を抱えて死んでいた。哀れな死に姿なのに、しばらく忘れることができなかった。
 空腹の為、戦友の足を食べた、自分の排泄物を川で洗い、また煮て食べた話も何回か聞いている。悪循環。初年兵と補充兵の死亡が多かった。
 バレスキー、デムカ4、5箇所作業の場所が変わった。

1948(昭和23)年12月 東ヨーロッパデムカよりナホトカ経由にて帰国

 帰国はナホトカまで貨車で23日間。そのときの戦友は特別な間柄。
 舞鶴上陸 復員。

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