インタビュー記録

1943(昭和18)年10月 陸軍軍医学校幹部候補生隊卒業

 卒業時の希望調査で隣の人が「歩兵1線」と書いていたので、「航空1線と書いた。呼ばれて本当に良いのかと確認された。あとで気付くと内地の陸軍病院を希望している者も多かった。

1943(昭和18)年11月 第4航空軍軍医部付

 15日、病院船ぶえのすあいれす丸に便乗して神戸出航、ラバウルへ向かう。パラオまで便乗してニューギニアを目指す予定だったが、27日、B24の攻撃を受け撃沈。ボートで海上を1週間漂流し、無人島へ漂着。通りかかった艦船に救助されニューアイルランド島北端のカビエン基地に着く。

1943(昭和18)年12月 ニューギニア・ウエワク着任

 カビエン基地から小さな駆潜艇でラバウルへ。出港時グラマンの襲撃を受けまたも駄目かと覚悟したが50mほど後ろの別な船にそれた。
 12月31日、ラバウルからは飛行機でウエワクへ着いた。地の果てに来たという感じがした。
 ウエワクの空港に着くと止まっている飛行機は2、3機のみ。敵の百機を越す編隊を何度も見ていたのでそれを見て戦争は負けたと思った。
 敵機が来ても勝ち目はないので後方の空港に飛行機を待避させるだけ。現地の参謀と話す機会があったが大本営の参謀はここに来て現実を見ろと怒っていた。

1944(昭和19)年2月 パラオ島・第4航空軍出張所へ移動命令

 パラオからニューギニアへ来る兵士たちが皆マラリアにかかるので、パラオで予防薬の投与を教育するため派遣が決まった。(片岡さんは軍医学校卒業時の成績が良かったため部隊付きではなく軍医部付きになっていた。そのためこのような命令が出た。)
 軍医部長(少将)に移動報告をするが蚊帳の中から聞いて出てこない。いつも蚊帳の中にいて何という人だろうと思った。この少将は後に更迭された。
 同様に移動報告をした軍司令官(中将)は雲の上の人なのに、しっかりやってきてくれと言われて人情味があった。
 パラオにいた半年は軍隊の中で一番穏やかだった時期。

1944(昭和19)年9月 第7輸送飛行隊 マニラへ移動命令

 前任者は甲種学生課程(将まであがることが出来る)を希望して内地に帰ることになった。その帰還命令が出ないかしきりに司令部に見に来るので、こんな戦局の悪い時期に何が内地で勉強だと思って見ていた。
 輸送飛行隊の飛行士で年齢も高い者の中には負け戦も分かっているし、いつやられるか分からないしと、鬱になったり仮病に近い者もいた。
 10月空襲で全機が破壊され部隊は岐阜県各務原に帰還となるが一人だけ残される。貧乏くじかなと思う。

1944(昭和19)年11月 クラーク北飛行場・第150飛行場大隊付

 天山(艦上攻撃機)で若い飛行兵達が飛び立つのを見た。性能の割に魚雷が重くやっと飛び立っていたが、艦艇を見つけられず帰ってくると怒鳴りつけられていた。

1945(昭和20)年1月 米軍ルソン島上陸

 1月下旬より地区の攻撃が始まる。
 落下傘兵(鸞部隊)が山腹に横穴を掘っていたが、そこに、どんどろど~ん、どんどろど~ん、どんどろど~んと砲弾が8時間に渡って全く音の切れ目無く打ち続けられる。観測機がいて抜けのないようにチェックをしながら1m四方に一つは砲弾が落ちるという具合。
 ただ穴がかなり深く死者は少なかった。

 2月1日、激しい爆撃。
 飛行場の裏山の山腹に横穴を掘って隠れていたが飛行機は飛行場側ではなく裏側からやってきて部隊長以下部隊の1/3がやられる。

 麻酔無しで足を切断するために駆血帯を結ぶと切っている足ではなく締めた駆血帯が痛いので外してほしいと言われる。胸から血がぴゅっぴゅっと吹き出していても絆創膏を貼って終わり。臀部を痛いと言って骨がむき出しになっているがオキシドールをかける程度。
 60人も患者が運ばれてきて薬も道具も何も無いのにどうしようもない。
 しばらくして殆どの人がなくなり、後方に一緒に下がれたのは5~6名だった。

クラーク西方山中へ後退を続ける

 いぐち支隊(註:漢字要確認)はとにかく動かずに何でも食べて生きていこうという方針。
 海軍は比較的早くから物資を集めてものを持っており、西海岸からいかだで台湾に脱出を図ろうとしたり、平原突破をして北部の部隊と合流を図ったりしたが、いずれも上手く行かずかえって損耗が激しかった。
 結果的には動かずにこもったいぐち支隊が4000人中800人と一番生き残った(この地区全体で生き残ったのは1250人)。

 黒い種ばかりのモンキーバナナ、南方春菊、芋のツルなど食べた。
 7月、山中を歩いていても誰にも会わず全て夢の中の出来事のようで日本がどうなっているか、戦争がどうなっているかどころか、外界のことは何も分からないが身体をつねってみると痛い。
 水を飲みに小川に行くとあそこにも骸骨、ここにも骸骨、それを何とも感じない。

 山中を降りると敵前逃亡と見なされる。
 もう食べるものがないから降りますというとそこで叩き切られた兵隊もいた。軍医は指揮権はないが位は中尉だったので、上官に許可を得たことにするため自分に山中を降りると言いにきた者もいた。

1945(昭和20)年8月16~18日頃、敗戦のビラを拾う

 こんなに皆死んでいるし、もう山中でも誰にも会わなくなってきていたので本当だろうとすぐに思った。

174兵站病院

 院長と副院長が米軍で、あとは日本人軍医が運営していた。
 病院にたどり着いてから死んだ8000人の日本人の兵隊の十字架がずらっと並んでいた。何故ポツダム宣言をもっと早く受諾しなかったのか。

1946(昭和21)年10月 復員

Copyright(c) 2012 JVVAP. All Rights Reserved.