インタビュー記録
1938(昭和13)年12月 第8師団歩兵17連隊第2機関銃中隊入隊、志願
秋田県の農家で、男三人、姉一人、母は幼い頃になくなり顔を知らなかった。
時代の雰囲気も、家の状況もあり、当初は満蒙開拓青少年義勇軍に志願をした。
父が可哀想に思って役場に行って義勇軍への志願を取り消したが、それに対する反抗心があり、一方色弱で背も低かったので「どうせ合格しないだろう」とたかも括って印鑑を盗んで志願したところ甲種合格をしてしまった。
志願兵だったので仙台陸軍教導学校へ行き下士官候補生になる予定だったが、初年兵教育があまりにつらかったので逃げ出したいと戦地に行くことを希望した。
一番辛かったのは周りが20歳なのに自分だけ若く躰が出来ておらず、重量のある重機関銃の訓練について行けなかったこと。
毎日のように殴られるのも辛かった。
秋田の冬に外に裸で出されしゃもじでほほを張られる事もあった。
1939(昭和14)年6月 第108師団歩兵117連隊補充要員として北支へ
山西省での警備と討伐。
同年11月 独立混成16旅団独立歩兵84大隊へ 保和村の警備
最初は激しい戦闘にただただ逃げ回っていた。
ある時死んだ戦友の死体を火葬するよう命じられた。見よう見まねで薪を集め腹を下にして焼くと(内蔵の多いお腹が焼けるようこうする)手から御遺骨は取れたが全体は焼けないうちに攻撃が来て戦闘に出なければならなくなった。
半日ほど戦って元の場所に戻って来られたが燃え残った部分を野犬が引きずり廻していた。戦後この御遺族には会わなかった。
1940(昭和15)年 下士官候補生に、卒業後原隊復帰
下士官候補が嫌で戦地に来たが、当初の話が付いて廻っていた様で、結局、下士官志願。
1941(昭和16)年 中原会戦
黄河唯一の渡河点の占領を命じられるが猛反攻で多数の死者を出す。
1941(昭和16)年~1942(昭和17)年
分遣隊長として七洞村、普洞村、上梁村などの治安・警備。
回帰熱に罹患。
山西省は閻錫山(軍閥)との間に話が付き日本軍が行っていた同蒲鉄道の警備を山西軍に譲っていたが、途中でこれが裏切られ激しい戦闘となった。
元来日本軍が作ったトーチカの周囲に山西軍が壕を掘ったところを攻めなければいけない。
壕を埋め尽くす中国兵の死体の上を通って攻め込むような戦闘だった。
常に接近戦が続き、相手も共産党軍、国民党軍、山西軍と様々、慣れてくると戦い方でどの軍だか分かってくる。
夜の間にトーチカに登られ、朝首を出したら撃たれそうになった事もあった。
一番強かったのは共産党軍で、共産党軍の最前線は撤退する事を許されない(撤退すると後ろから撃たれる)ため死に物狂いで戦わざるを得ず結果強かった。
1小隊が使っているつもりの中国人に毒を盛られ全員死ぬような事もあった。そう言う時は歩哨も中国人が日本人の軍服を着て立っている。
掃討作戦のおり、抜き身の軍刀片手に人気のない家の戸(観音開き)を開けたとたんに、銃口が突きつけられていた。仕舞ったと思って銃身を軍刀で叩き上げた。そんなふうで、軍刀はどんどん刃が欠けていった。
怖くなかった訳ではないがどうせ死ぬつもりだったし、それが常態化すると感覚が鈍ってくる。今にして思えばマインドコントロールだろうが、何が何でも、ぶっ殺しても勝たなければならないと思っていた。
中原会戦も黄河が中国人の死体で埋まるような戦闘だった。
この時は本隊を離れ1小隊だけで他の大隊と組んで唯一の渡河点を占拠し退路を断つよう命令された。こういう他の部隊に行く時は、よそ者の部隊に一番危険な任務が廻ってきて、たいがい危ない。何処も自分の部隊が可愛い。
この時も負傷兵を後送するため敵だらけの所を1小隊だけで4台の担架を持って移動しなければならなくなった。無我夢中でどうして生き延びたか今でも思い出せない。
小学校しか出ていなかったので、命令受領を正確に聞き書きし伝えることには苦労した。少し間違えれば相撃ちをして仕舞う。事実そう言う例は幾らもあった。
重機関銃は砲手、照準、分隊長と各パートをやった。馬が死んで自分たちで運んだことも。これも撃つ方向を指示するための計算が得意ではなく苦労した。
苦力にはアヘン中毒の者がいたが、ケシの茎を切って出る汁をたばこに染み込ませて吸わせるとしゃんとした。
自分が兵隊の時辛かったので下士官になったのち兵隊は可愛がろうと思っていた。
兵隊を可愛がることは生きること、可愛がっておけば命がけで自分を助けてくれる。
学歴があり見習い士官から将校に短期間でなった者の中には位を笠に着て兵隊をいじめる者もいたが、実戦経験は自分の方が勝っているので「何処からの攻撃、どれぐらいの相手」とすぐ分かる。ある時あまりひどい将校を裏で呼び出し軍刀を抜いて「兵隊いじめを続けるなら叩き切るぞ」と脅したら慌てて謝った。戦後その将校を夫婦で訪れその時の事は詫びた。
員数外の銃器も作っていたので、銃器を破損した兵隊に渡してやったのを自分は忘れて覚えていなかったが、戦後随分と感謝された(←感謝のお手紙を見せて頂きました)。
現場の判断で勝手に命令を出したと見習い士官から中隊長に報告された事もあったが、その時はかえって士官が怒られた。
軍隊は融通が利かず、-20度の所に兵隊を出すのに外套一つ着させるにも士官の命令が無いと出来ない。この手の事には後で責任は自分が取るからと勝手に命令を出していた。
1942(昭和17)年 初年兵受領のため一時帰国
初年兵教育の時苛められた古参兵が再応召で、兵舎内で会った。
「おう金田じゃないか」と言われたが自分の方が位が上になっている。
「何だ、帝国陸軍は上官を呼び捨てにするのか」と言ったら相手は敬礼せずにはいられない。笑い話だがスカッとした。
1944(昭和19)年 万泉方面に移駐、爆破撤退
1945(昭和20)年春 中支江蘇省の守備に移駐
上海から米軍が上陸してくるのではないかとの噂があった。
艦砲射撃に備え壕堀りが命じられ、米軍上陸後手榴弾で司令部を攻撃するよう言われていた。中国のお墓(土まんじゅう)の中を掘り返しそこを壕として使う部隊もあった。
同年8月15日 敗戦
1週間ほど前に暗号班の知り合いから「ソ連に平和条約の締結仲介を頼んでいるからもう駄目だよ」と聞いていた。中国でも制空権は殆どなくなり駄目だろうなとは思っていたので金田さんは玉音放送は意外ではなかったが、全体的には「頑張れと言ってる」と聞いたのが多数派で敗戦が伝わるには2日ほどかかった。
自分にしても一方で神の国だから神風が吹くのではと思っていたりもした。
同年12月 復員
現地で軍籍を離れ一般人として上海より第1回目の引き揚げ船で帰国。
生かされるか殺されるか分からないので、とにかく捕虜にはなりたくなかった。直談判して隊長の証明を貰い戦友と2人軍籍を離れ上海の知人を頼った。軍人は最初の引き揚げ船に乗ることが出来た。軍刀はクリークに捨てた。
部隊が帰ってきたのは1年後だったので、故郷に帰ると近隣の人たちが自分の親族の安否を聞きに押し寄せた。そのため身を隠さなければならなくなった。
死ぬときに天皇陛下万歳というのは聞いたことがない。皆お母さんを呼ぶ。お父さんは出てこない。
靖国で会いましょうとは言ったことも言われた事もない。弟が戦死して遺骨も帰ってこないのに靖国にいるとは思わないが参拝はしている。
展示がもっとバランス良く、A級戦犯も合祀せず、皆に参って貰える施設なら良いのにと思っている。
東条が自殺しそこなった事については戦友会では随分悪口が出た。いろいろ言い分はあろうが、常に自決用に手榴弾を持たされていた兵隊の身からすれば自分が戦陣訓を作っておいて何だという事になる。
敵に囲まれて手榴弾で自決した兵の遺体を探したら裸で投げ出されていた事もあった。