インタビュー記録

1944(昭和19)年11月5日 現役

高射第2師団機関砲第12大隊


 京大文学部に入学した年に入隊。家族に「私は国のためには死にたくないが、家族のためなら死んでも良い」と言って家を出た。男は5人兄弟で4名が兵隊に、うち1名は南方で戦死、1名も帰国後すぐに死んだ。戦争には負けると思っていたし、戦死した新聞記者の兄からもダメだと聞いていた。一方で軍隊は人間の正義が通じるところだと期待していたが、世間の集まりだとすぐに分かって失望した。一緒に入った現役兵の多くはそのうちに軍隊そのものになり、服従に一生懸命になった人が多い。つまりは適応した。  中隊長の方針で「脱走されたら困るので」という事であまり叩かれなかった。入営の中で大学生は1名だけだったので扱いに困ったのではないかと思う。

1945(昭和20)年 1期検閲後気象隊へ 


 高射砲の修正をするため、2mぐらいの風船に水素を詰め下に発信器を付けて飛ばし、レーダーで追いかけ風速や風向を知る。計算は苦でもなかったが、古参兵は嫌がり一時は一人でやっていた。  気象隊は高射第2師団全体からの寄せ集めで20人程度、金村さんの大隊からは1名だけ。持て余しの兵隊ばかりで初年兵は2~3人、目も付けられ、初年兵教育の時期よりいじめられた。同年兵に「この戦争は負けるよ」と言ったのが知られ、5~6年兵5、6人がとぐろを巻いているのに呼び出され「おい金村、お前戦争に負けると言ったそうだが言ってみろ」と言われ殺されると思った。他の中隊で棒で殴り殺されるという噂があった。仕方がないので「日本は負けます。サイパンを取られ海上を切られ補給を取られ負けるに決まっています」と言ったら、喜んじゃった。「ありがたい、俺たちは満期で家に帰れる」と。そういう状況だった。命が助かったような気がした。軍隊は『真空地帯』というより『世間そのもの』だと感じている。  ジフテリアで名古屋陸軍病院に入院、伝染病の隔離病棟へ。ハンセン病の人が1名いた。名古屋の大空襲(45年3月19日)があり、名古屋城の背丈の倍ぐらいの火炎が立ち上がり、翌日には家が全部焼け、見えるのは瓦と金庫と白い便器ばかりになっていた。私は防空壕で恐怖のあまりげらげら笑って笑いが止まらなくなっていたらしい。  やがて発信器も水素も乏しくなり隊が小さくなって中隊に帰される。 農耕隊へ 荒れ地を開墾

同年4月頃 中隊本部付きに


大隊本部に伝令として毎日命令を取りに行く。余計もののように暮らしていた。
 

同年7月24or25日戦


陣地がねらい撃ちに爆撃され、機関銃のように連続して音が聞こえる、さらに「ばしっ!」と稲妻の様に青い光が見える。隊には2式多連20粍機関砲という自動的に揃えて撃てる最新式の機関砲があった。陣地は分散して掘ってあったが、直撃を受けたところは全員死んだ。即死11名、重傷者も同じぐらい。金村さんも重傷を負った。直撃を受けた分隊長は仲が良く、2~3日前「こんなつまらないことしているのは嫌だから松根油を掘りに行こうや」と言ってたが死んだ。  本部要員で戦砲隊ではないので防空壕にいた。耳と目を覆って口を開け爆弾の気圧に供え伏せていたが、至近弾が落ち、目の前が真っ赤になり、痛い痛いと言ってる間に気が遠くなる。防空壕の土砂がざあ~っと降って足だけ出して気絶していた。引っ張り出して貰って、半日以上死んでいたらしいが、気が付くとテントの下にいる。軍医が来て「こいつは脈がしっかりしているから大丈夫だろう」と言ったので急に元気になった。隣の同年兵は顔が青く死にかけている。戦友が付いて懸命に人工呼吸をしているが、軍医は「こいつはダメだから人工呼吸はやめておけ。明日火葬するから」と言うので、ちょっとの差でこう違うのかと思った。 担架のままトラックに乗せられるが、トラックが揺れると背中に当たり痛くて仕方ない。痰が詰まって苦しいと思い、吐くと痰ではなく血のかたまりだった。下呂の病院(名古屋陸軍病院が疎開していた)の小坂分院の民家の2階に運ばれる、足のない人や手のない人が沢山いた。空襲の被害者達だった。軽くなると毎日土手に行きみみずを掘って煎じ患者達に飲ませていた。薬はあるが、あっても出さない。米やバターも同じ。

同年8月15日 敗戦


入院中に敗戦。病室のラジオで玉音放送の声は聞き取れなかったが、すぐに負けたんだと分かった。大腿部から先を無くした兵隊が「足を返してくれ」と大きな声で言った。私自身は嬉しいばっかり、これで家に帰れる。  すぐに病院を出て行けとなり、バターや米や衣類をくれて重くて持てないほどの荷物になった。病院の方で切符は作ってくれた。  家(長野の疎開先)に帰り熱も出して数日寝ていたら、中隊から「過去は咎めず、すぐ帰れ」という電報が来たが、帰ったばかりで身体は動けないし、負けたことだしとそのまま放っておいた。家には8月中に帰ったと思う。

同年9月12日 除隊(この日付は書類処理上)


 米軍の占領は思ったより良かった。日本が中国でしたことは噂に聞いて知っていたので、そのようになると思っていた。1945年秋、京都駅で、米兵がトラックに分散して体格も血色も良く威勢良く乗っているのを見て、初めて負けたんだと言うことを実感した。 天皇は観念的で、将校も雲の上、偉いのは上官であり軍曹。

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