インタビュー記録

1944(昭和19)年1月 渡満、興安省に

・武蔵小山商店街から満州興安省に入植した280世帯、約千名の、第2次先遣隊

 軍人になるのは嫌で高等商船を受けるが受験に失敗し浪人していた。
 武蔵小山商店街の友人のお父さんが区会議員をやっていて、「帰農開拓団」を提唱した。品物が無くなって東京でも有数の商店街が商売が成り立たなくなっていたため、満州へ開拓団で行こうと提唱した。父が船舶関係の仕事で戦況が悪いことは知っていたが、日本に米軍が上陸したとき日本は満州に立てこもって戦うのではないかという発想があって単身参加した。

同年 現地で徴兵検査

1945(昭和20)年5月17日 現役

 123師団工兵第123連隊(満州206部隊、孫呉)に現地入隊

同年8月9日 ソ連侵攻

 山間部の北孫呉にトーチカがありここを陣地に引き揚げていた。毎日ソビエトの飛行機が南孫呉の町や野戦貨物廠を狙って爆撃していた。山に1mぐらいの蛸壺を掘って潜り、爆雷を持って戦車に体当たりをする、手を伸ばすと身体に結んだ信管が作動して爆発する仕組みだったが、手が巧く伸びないと爆発は起こらず戦車に踏みつぶされて仕舞うだけ。
 南北孫呉を分ける孫平川(そんぺいがわ)にかかる清龍橋を爆破する命令が出て12名で爆破に行った。橋げたの下に野営していた。10~20m程度の木の橋にコンクリート舗装しているものだが、それを爆破するだけの爆薬も工兵隊に無い。仕方ないので鶴嘴でコンクリートをはがし、丸太の橋げたをえっちらおっちらのこぎりで切り、そこに薪を積んで焼き落とす準備をしていた。
 毎日9時~4時まで町に爆撃があったが、それが終わって帰る爆撃機に見つかりど~んと凄い音橋げたが落ちてくるかと見上げたが落ちてこないので、鉄砲を持って土手の草むらに隠れたらもの凄い雨。雨ではなく爆弾が橋げたをかすめて川の中に落ちて水を噴き上げたもの。爆風で夕飯のしたくをしていた所は吹っ飛んでいた。そうこうしている間に敗戦。戦車が山に上がって来るか、あと数日敗戦が延びたら戦車に飛び込んで死んでいただろう。
 自分のいた興安の開拓団は、若い男性は兵士に取られ、現地民が暴動を落として略奪にきたりして、700人ぐらい死んでしまった。

同年8月16日 原隊に合流、武装解除

同年9月初め ライチハ・第19収容所へ

 4列縦隊で行軍が始まる、ダモイ東京だと言われて、そのうち10日頃黒龍江を渡り、煙をあげているのが見えてシベリア鉄道だこれで帰れると歓声をあげたら炭鉱の露天堀りだった。13日頃雪が降る。2週間ぐらい全行程を歩いてライチハの収容所へ。先に移動した者が近くの収容所からどんどん入り、後から移動した者がシベリア地区など遠方へ送られた。三波春夫がいた収容所。
 炭鉱の露天掘りを貨車に積み込む。2年目からは-30度以下になると作業中止になったが1年目は零下50度ぐらいあっても働かされた。水蒸気がチリチリチリチリ凍ってしまうので快晴の日がない。 食事は収容所8~9000名全体で作られ、飯(コーリャンや雑穀)、スープ、ニシンなど、3時頃から飯あげが始まる。
 一緒の班の18名は、班長に古年兵2名、上等兵2名、義勇軍7名、初年兵6名で、作業でも古年兵は石炭の火にあたり「初年候働け」、食事になると班長は2、古年兵1.5、身体の出来ていない義勇軍は5名が死んでしまった。日本人が日本人を助けなかった。
 義勇軍の人がおかしくなったのか脱走した事があったが、ソ連兵がそりで出て行き銃声が聞こえてそりに乗せられ死んで帰ってきた。次第に日本軍も団体交渉がで出来るようになり改善、脱走も無くなった。
 現地の人は農民や流刑民で政府を好きではない。やがて帰れるよと励ましてくれた。

1946(昭和21)年4月~9月 コルホーズ・ソホーズ(ゼブリンスキー)

1946(昭和21)年9月~1947(昭和22)年3月 ギルダー炭鉱

 炭鉱の縦坑に入る、ここは二交代制だが、交代後も働かされるので24時間休めない。

1947(昭和22)年10月 復員

 3月16日に引き揚げの予定だったが、吹雪で列車がナホトカに着くのが遅れ、船(信用丸)に乗れなかった。近くにあった労働大隊に入れられ、三日に一度出て行く船を見ながら、半年働く事になって仕舞った。

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