インタビュー記録
1943(昭和18)年4月1日 佐世保相の浦海兵団入団、志願
鹿児島-那覇間の商船の輸送船団の警備につく。
南方に行く船だろうが受け持ちは那覇まで。1艘で10艘ぐらいを送るので、船団としては熊野が真ん中に入り商船に守られているような隊形になる。
台風で7~8隻が避難した砂浜に乗り上げ赤腹を見せているのを掘り出したこともある。
やはり台風で、鹿児島港で伝馬船で物資や人の運搬もしたが、自分は山出しの人間で大変。
一度伝馬船を漕いでいるとき忘れられて、熊野が出航してしまい随分離されてしまった。見張りが海上にいる事に気づいてくれて止まってくれたが、とても心細かった。
同年7月 佐世保防備隊 海防艦熊野乗組
同年9月 横須賀砲術学校普通科
博多から横須賀航空隊司令部の将校のお母さんの付き添いを頼まれた。横須賀で迎えの司令について一等車に乗ると全部将校、ぴらぴらを下げているから「お前、降りろ」と言われたが中佐が来て「俺の客だから待て」と乗せてくれた。中佐の勧めで一晩泊まったため、半日到着が遅れた。中佐は電話をかけてくれていたが、分隊士が聞いていなかったので大層怒られた。
父親から暫く手紙が来ていないがどうしたんだと手紙が来た。父親は達筆で自分は読みきれなかったが、分隊長が読んでくれて手紙を出せと怒られた。
1944(昭和19)年1月~4月 高等科予備
同年5月 呉で戦艦武蔵に便乗、シンガポール・セレタ軍港へ
便乗者が3000人ぐらいいた。便乗でも甲板掃除などはあった。
同年5月末頃 妙高に乗組
同年6月 渾作戦
シンガポール→ブルネイ→セレベス方面。どういう作戦か分からないうちに予定が変わった。
高射機担当になる。高角砲の射撃版、7~8人で2mぐらいのドームに入り敵機を見ながら追尾していく。
同年6月(※19日、20日) マリアナ沖作戦(あ号作戦)
- ミンダナオ・ダバオ→サイパン・テニアン→マリアナ沖海戦
- サイパンに行く前に、空母・大鳳がやられたと言って、10キロぐらい離れていたが燃えているのが見えた。隣を走っていた空母・翔鶴も沈んだ。 飛び立つときは全部で250機ぐらい、甲板から手を振って送ったが、サイパン・テニアン上空で敵が待っていて、殆どやられているから帰ってくる飛行機は少ない。帰ってきても、航空母艦が甲板をやられているし、沈んだ艦もある。(飛行機は)目の前で海の中に入って、すぐには沈まない。5~6分か10分ぐらい、その間に拾う人は拾って助けるけど、がぼっと沈む人もいる。帰っても航空母艦がないから可哀相。命令を先にすればいいのだけれど、陸上の飛行場もやられている所が多かったらしいし、無線のない飛行機もあったらしい。そこまで帰っていたのにやられて可哀相。
- 一度呉に戻り、その後リンガ泊地で停泊、更にブルネイに寄り燃料補給。
- 同年10月23日~25日 レイテ沖海戦(捷1号作戦)。 愛宕、摩耶が沈没。こちらもジグザグ運転をしているので、右を向いたときにやられたと思って、左にかえしもう一度右に来たときはもうなかったり尻が見えたりだけ。どちらか覚えていないが。1~2分。他の巡洋艦だか駆逐艦のときだと思うが、真ん中をやられて次に見たときは真っ二つに折れて折れ目から沈んでいく。巡洋艦は腹のところに両舷に魚雷を持っているので、そこに火がついたらドン。前に1回あたり後ろに1回あたり水が入ると真っ二つで折れ目があがって沈んでいく。沈み方がそれぞれ違う。
- 同年10月24日 フィリピン・ミンドロ島東海上で米艦載機により被弾。 右舷の高射機のところで見張りをしていると、30~40機というが50機ぐらいに見えた、戦闘爆撃機がば~っと来て、空中魚雷でやられた。右舷をやられ左に15度傾いてつかまらないと駄目なぐらい、4ノットぐらいしか出ないのくるくる廻っている。
広角砲も主砲も傾いた状態で撃った。広角砲は自爆用に一発を残し、全部撃った。砲身が真っ赤にただれて青いペンキがはげて中の赤いさび止めが出て来てしまっている。4秒正射ってやるんだけど、4秒も入れていたら砲身が熱くて爆発するといけないから3秒にしてどんどん出すから、尚更赤くなる。300か400かが一発を残して撃つ弾がなくなった。
シンガポール軍港へ引き返す。左に水が入り傾いていたので右にも水を入れて帰る。帰りながら見ていると本隊がものすごくやられていた。武蔵が集中的に狙われていたのは後で知った。弾幕を張っていても敵も急降下をしてくる。
- 同年10月26日頃 戦艦武蔵沈没後の負傷兵の収容にあたる。 傾いたままの帰り道だったが、駆逐艦が武蔵野負傷兵を連れてきて何百人か乗せた。手がない、首は包帯、足がないとか、唸りながらみんな乗せて手当てしながら帰った。手当てと言っても衛生兵で、軍医は1人か2人しか乗っていなかった。溺れた人は見ていない。
- シンガポールの浮ドックで応急処置。 この間にB29の攻撃を受けた。他の分隊は陸に上がっているが、高角砲分隊は船内で動けない。あわててドックに水をはったが(そうしないと安定して撃てないので)、結局は船は攻撃を受けず、100ほど先の壕に逃げいて人の方に死者が出た。
- 時期の特定ができないお話 戦死した人は遺骨をとるため手首を落とし、誰か分かるよう札を付けておいて10人~20人集め、陸地が近付くと陸に持っていってまとめて焼いた。手首以外は水葬をした。重石を付けて皆敬礼をしながら落とした。同じ船に乗っていたのに悲しいよね。焼いてきた遺骨に名前をつけるのも悲しいよね。
船がやられて1ヶ月や1ヶ月半経って出したときには、居住区は油と海水が入って腐り骨だけになっている。それを一斗缶に一人ずつ入れて焼く。私たちは戦闘部隊だから扱わんけど、衛生兵や主計が処理をしている。これが誰のとも分からない。風呂場に行ったらそれが置いてあった。
機銃掃射にあうと新聞紙を頭の上に乗せたいような気持ちになる。実際には高角砲のドームには上に2~3ミリの鉄板が2枚暑くならないように上に帽子でついている。それを機銃掃射は通すから新聞紙なんて何の意味もないが怖いという気持ちがあるんだろう。撃っているときや伝令する時は分からない、ふっとそれが通り過ぎたときに怖くなる。
同年12月
大修理のため佐世保港へ移動、ポー木サイドや重油、南方の米を積んでいた。
サイゴン沖・カムラン湾で潜水艦の魚雷を被弾(※12月13日)。潜水艦が浮いてるぞって言ってたのに、僚艦かもとちょっと躊躇していた。すると航跡が来た。すぐに撃ったけど向こうも沈んでいくから。後ろ40mぐらい(5番砲台以後)とスクリュー4本が折れた。大きな穴があいて、左右に12mぐらいはあろうね。船がちぎれているので丸見え、台風で波がだぼだぼしている。最初から折れたのではないが、波でゆれてぽきっと折れてしまった。前は沈まなかったけど。
油が流れ出て火がついてしまって火の海、後部にいた人がその中を泳ぎまわる。カッターを出して拾って回って、拾ってまわるのも火がぼうぼう燃えるから危ない。それが3昼夜続いた。こんなに明るく燃えていたらもう一回潜水艦が来たらどうするか、船影が浮き上がって丸見え、動けないし。駆逐艦が守ってくれたのか幸い何もなかった。
兵隊が皆わ~わ~言って、マットとか持って行って、防御壁を作り水が入らないようにした。機材倉庫から帆柱や鉄骨を持ってきて裏をふさぎ、居住区からハンモックを巻いたまま重ねたりして、最後に運用の人が帆布とか綱をくくって仕上げる。少しぐらいきれても大きな波や外で燃えているのは入らなくなるし、それぞれハッチを閉めれば大して水は入ってこない。
航行不能なので、羽黒が来て引っ張ってくれたが、10cmのワイヤーがなんぼ引っ張っても切れてしまう。3本ぐらい切った。重みだけで切れてしまう。駆逐艦を寄せてくっつけて抱かせ、潜水艦をいっぱい浮かせてくくりつけ、その水力で、羽黒もあと1本しかワイヤーがなかったが動き出した。シンガポール・セレタ軍港に曳航。
砲台の高角砲は4機ともに一部の発電機と併せて陸揚げし、シンガポールで陸上砲台とする。主砲は重くて揚げられないので海上砲台とした。伝馬船で陸上砲台と船の間を往復した。艦長も乗せたので緊張した。
シンガポールには敵の残した油のタンクが20以上あったが、B29がそれを爆撃に来て1週間ぐらい燃えた。またジャングルの中には零戦とかが隠してあった。使えないものも、あるように見せるためか部品を取ってボディーだけが置いてあり、部品は集めてまた使える飛行機を作っていた。
B29の200機ぐらいの編隊で来て零戦があがっても編隊を崩さない。50mごとに落とし碁盤の目のようにまた50mごとに落とし漏れがない。10mぐらいの穴があく。
1945(昭和20)年8月15日 敗戦
B24が400~500mの下まで降りてきてビラをまいた。日本語の敬語が使って書いてあった。あれを撃ち落そうと言うやつもいたが、隊長が絶対に駄目だと止めて良かった。
シンガポール島警備
実弾を込めての警備。現地の人も殺気立って敗戦国だと馬鹿にしているが、海軍はそんなに悪いことをしていないイメージがあったので助かった。
同年11~12月 マレー半島・クアラルンプール近くのゴム園開墾
シンガポールから船で出るときに英軍のインド兵がチェックをして、財布や時計を全部取られた。
1946(昭和21)年1月~4月 レンパン島にて開墾
野菜作り、海草取り。ワニや野生のイノシシを捕り、草、木の葉も食べた。南なので開墾した植物が育つのは早く、最後にはタバコの生産もしていた。マラリアには95%がかかったのに自分は罹患しなかった。