インタビュー記録


1940(昭和15)年2月14日 現役


  • 工兵第23連隊(満州第197部隊、斎藤勇部隊)渡満してハイラルへ。
  • ハルピンの大庭部隊に配属。
  • 下士官候補生に志願 チチハル陸軍工兵学校で教育。
  • 実際には志願ではなく学校に行くように命令された。
  • 取り消して欲しいと言うと激怒されものさしが折れるまで頭を叩かれた。
  • その後原隊復帰。
  •  衛兵司令に就いていた時、見回りに来た週番士官の中隊長から、寒いので銃から滴がたれている、何故手入れをさせないのかと注意をされた。銃の手入れをしていると仮眠時間が無くなるので明日朝させますと答えた。これだけなら良かったのだろうが、城さんが衛兵にすぐ交代にいけと怒鳴ったので中隊長が自分が居るのに指揮権を越権していると腹を立て「貴様」と殴りかかった。反射的によけて仕舞ったら「逆らうのか」となった。
     翌日衛兵から戻ると松花江の架橋資材の監視を命じられた。2昼夜続けての勤務は内規で禁止されていた。そこで“ちゃんちゅう”を買って現場に行き部下に飲ませて寝た。翌朝目が覚めたら銃が6丁無くなっていた。撃針が折れても営倉に入らないといけない時代。陸軍刑務所行きを覚悟する。 当時、関特演で兵隊が増えており、千人ほどが完全軍装でやって来た。次いで憲兵隊がやって来て一列縦隊でコーリャン畑を捜索。松花江で錨を降ろしての捜索。千人が3昼夜ほど近隣の現地民の家の床下や屋根裏まで調べたが出てこなかった。
     憲兵の取り調べ、部下が事実を話してしまっており、「折角伍長までなったが2等兵からやり直しだな」と言われる。ところが4~5日後中隊長から呼ばれ、重謹慎(部屋内での1週間の監禁)を申しつけられただけだった。二昼夜勤務が違反だったので、城さんを処罰すると中隊長も処分対象になり、大隊長が憲兵隊に取りなしたらしかった。
     しかし前科者のように部隊で形見が狭くなり、逃げ場を求めて機動部隊の募集に応募した。

    1941(昭和16)年秋 機動部隊に応募


  • 募集は機動部隊となっており落下傘部隊であることは知らなかった。
  • ハルピンでの試験後、適性検査で内地に帰還。
  • 所沢陸軍航空整備学校で地上訓練、多摩川の訓練塔から降下訓練。
  • 訓練は周囲に隠され、軍服でなく大学生の私服・帽子などが用意された。
  • 巡査に職務質問された時は「憲兵隊に問い合わせてくれ」と答えるように言われていた。
  • 12月8日、宮崎へ異動する列車で太平洋戦争開戦を知る。
  • 宮崎県唐瀬原(からせばる)で飛行機を使っての落下訓練。

  • 挺進第2連隊編成 三谷隊(=第4中隊)大木小隊

     1942(昭和17)年1月15日 門司出航→台湾・高尾→カムラン湾→仏印・プノンペン→マレー半島・スンゲイパタニ→カハン飛行場へ。

    1942(昭和17)年2月14日

     第1挺団としてカハン飛行場を出発、シンガポール陥落前日で眼下のシンガポールは延々と燃えていた。機内は比較的リラックスしたムードで編隊の横の機や、海上の駆逐艦に手を振ったりした。乗るときにお寿司を貰ったが、さすがに食べるものはいなかった。
     大城小隊は飛行場の南の草原の中、良い場所に降下できた。そこからジャングルを抜け、ジャンピー街道に出ようとするとオランダ軍の装甲車に行き当たり、前の2人は撃たれた。腹這いになると装甲車から流れてきたらしい重油が胸を濡らしこれで死ぬのは嫌だなと思った。銃を撃つと装甲車に跳ね返る凄い音が響く。軽機が横に来て撃ったので、オランダ兵は装甲車を棄て街道の向こうの土手の方に一斉に逃げた。一人逃げ遅れた兵が悲しそうな目をして振り返ったが銃剣で貫かれた。装甲車の近くに一人そこに降下して仕舞ったらしいK軍曹の遺体があった。ハンサムな男だったが、金の襟章と真っ白な顔が対照的で目から離れない。
     城さんは少し前に出過ぎて仕舞った。街道の向こうのゴム林から30人ほどのオランダ兵が横一列に並んで近づいてくる。こちらから一人で撃つと身をかがめ、止めると立って近づく。間が詰まるので「軽機前へ、軽機前へ」と言うが援護は一瞬、30発の弾は切れかけている。負傷兵のところに戻って弾をとり撃ち続ける。街道を渡って戻れと言う命令、手榴弾を列の中に投げ込み駆け戻る。街道の真ん中に仁王立ちになって射的のように銃を向けてきたオランダ兵をゆっくり狙って銃殺、彼を助けに来た兵を狙うがこちらは当たらず彼は遺体を置いて逃げた。
     散発的な撃ち合いがありながら飛行場を目指す。飛行場の奥の宿舎から白旗を付けた数人が出てき、こちらも白旗を揚げて話し合いの人を出したが、帰ってくると「こちらの方が人数が多いから降伏しろ」と言ってるという。話しにならないと一斉射撃を開始するととたんにトラックが宿舎から発進し街道へ逃げ去った。

     1942(昭和17)年2月15日~

     大城小隊以外は降りた場所が悪く、戦闘が終わった翌日になって飛行場に集まってきた。久米団長はゴム林に降り一晩ジャングルを歩き回って翌日昼頃飛行場に到着した。
     どこに降りたかは運。降下2日後遺体回収に行くとゴム林の木に落下傘が引っかかりそのままオランダ兵に撃たれてウジの湧いた遺体もあった。

    1942(昭和17)年3月半ば頃 内地への帰路につく

     成果を上げた部隊という事でシンガポールの浜辺の豪華なホテルに個室で泊めて貰う。そんな所に泊まりながら、毎日夕方には街に出てかっぱらいをしている兵隊もいた。ワニ皮のクツを取ってきてスリッパに切って履いていた。
     タイのバンコクではトラックに分乗して軍歌を歌いながら手を振る、街の人は何事かと思って見上げている。
     城さんは嫌気がさしてその頃から落下傘部隊から逃げ出したくなってきた。
     宮崎に帰国すると、落下傘を切ってワイシャツを作る者も。任務を終えやることが無いのでそんな感じになる。当時落下傘兵は大変持て女性関係もさかんだった。

    同年9月 飛行兵の募集に応募し満州へ 戦技兵に

     満州嫩江(のんこう・ハイラルの奥地)で97式爆撃機で訓練。
     敦化に異動して99式襲撃機で訓練。
     各務原に集結後南方へ。

    同年12月~1943(昭和18)年1月 トッラック島に滞在

     飛行場の拡張工事に受刑者や朝鮮人が連れてこられていた。彼らが暮らす山には慰安婦が住む小屋もあった。飛行場を飛び立つとき囚人達や朝鮮人がスコップを振って送った。それを見ながら大変な生活でも彼らが死ぬことはないんだなと羨ましい感じがした。

    1943(昭和18)年1月 ニューブリテン島ココポ飛行場に 洋9603部隊

     ガダルカナルの夜間爆撃、スタンレー山脈への物資投下に当たる。
     城さんの乗った機は少飛1機のいざわ少尉が操縦、非常に操縦が上手くおかげで危ない事がなかった。

     少年飛行兵の和田伍長は17歳でとても可愛らしかった。何時も攻撃に加えられないことを悔しがって泣いていて皆が慰めていた。中隊長があまりに若くて可哀想だと考えていたのだと思う。中隊長がニューギニアで戦死して交代すると、和田伍長にも出撃命令が出た。
     残った5機とマニラから持ってきた15機ほどを全部使って最後の攻撃で昼間に行った。城さんはこの日マラリアでもう一人のT伍長と残った。和田伍長は同期の整備の少年兵に腕時計を渡そうとしていた。それを見て「馬鹿な事は止めろ」と怒ったが、彼は「いいですよ」とにこっと笑って時計を渡した。これが彼の最初で最後の出撃になった。
     T伍長と機が帰ってくるのを待っていたが夜になっても1機も戻らなかった。「帰って来ませんね~」と言いながら2人で夜を明かした。約20機×4名が1人も帰ってこなかった。1週間ほどして1機だけが海岸伝いに歩いて帰ってきた。
     飛行機が無くなったので内地に引き揚げることに。その晩、それまで一度も見たことがなかったのに道一杯の蛍の乱舞を見た。

    水戸陸軍病院、柏陸軍病院を経て
      1944(昭和19)年4月 柏陸軍飛行学校へ

     学徒兵はこれまで見たことがないほど一生懸命な兵隊達だった。なったばかり、まだ勝つと思って張り切っているのか、軍の教育で身につけたのかは分からない。
     城さんは緒戦からずっと戦い、航空隊としてあちらこちらも見ていたので手に取るように負けると分かっていたから、その一生懸命さがたまらなかった。

    同年6月 軍を脱走

     5月、特殊任務に就くことになると聞いた。特攻隊らしい。折角ここまで何度も死線を越えてきたのに、ここで殺されてなるものかと思った。
     学徒兵を大刀洗に送り届ける任務があったので、逃げるなら今だと思った。その帰り道にそのまま脱走して母親が一人で疎開していた母親の実家に戻った。
     この家は大変な田舎にあり、千数百mの山の麓の一番山側、集落は5~6件だけで、隣の家は100mぐらい先、他に家は500m以上離れていた。
     2カ月後ぐらいに朝憲兵が来るのが見えたので裏の山の山中に入り、翌日の夜まで戻らなかった。母親は逃がしたのだろうと言われ口答えをしたら憲兵にビンタを取られたらしい。しかし憲兵が来たのはその1回だけだった。その後弟も疎開してきたが、家族の協力もあり敗戦までここで暮らした。

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