インタビュー記録

1931(昭和6)年 満州事変

 当時小学校5年生 9月9日の朝暗いときに突然電話がかかり、電話に出た父は。「そうか、やったか、しめた」と父は叫んだ。
 哲学科を希望した。先生から「哲学をやっても食えないよ」と言われた。それでもあと数年で兵隊にとられて、死ぬんだからいいと思っていた。

1942(昭和17)年10月文学部に転籍

1943(昭和18)年学生兵役免除がなくなる

 兵役検査、甲種合格。
 卒業したら軍隊と覚悟していた。学生時代からこの戦争は勝てるはずはないと思っていた。

 現役の陸軍中佐(姉の夫)との会話。
「日本がアメリカが勝つにはアメリカに上陸しないといけない」
「そうだな」
「できるんですか?」
「いや、できない」

 学徒出陣にも参加。本物の銃はかつがなかった。

1943(昭和18)年12月10日 武山海軍団入団。

 二等水兵、基礎訓練中、しょっちゅう駆け足をさせられた。ひどいところに来たもんだと思った。カッター訓練、モールス信号、縄結び(結索)をさせられた。
 ある日身体検査、目が両方2.0だった。予備学生採用の身体検査だったらしい。

1944(昭和19)年2月 対潜学校第四期予備学生へ(久里浜)

 士官としての基礎訓練。水中探信機、聴音器で水測士 速成なので「貴様たち娑婆気をすっかり抜いてしんぜよう」と教官から言われて、ばかばかぶん殴られた。

1944(昭和19)年10月

 戦況が非常に厳しい、これを挽回するために「特殊」兵器乗員の募集あり。応募するものは届け出よ。
 「これはなにかあぶない。命がなくなるのか」
 「どうせ死ぬんだし、学校も出られるし、応募しよう」
 長崎県川棚「臨時魚雷訓練所」に行くと、実弟が偶然いた。どうやら「震洋」の特攻兵器乗員訓練らしい。

11月下旬、山口県光基地に赴任

 人間魚雷「回天」の搭乗員訓練。舵のききが非常に悪い兵器。
 訓練で風邪を引いた。軍医から「結核」と診断。回天部隊から外され、呉の潜水艦部隊に行けと命令。(1945(昭和20)年春 呉潜水艦基地に赴任)。
 そこで再度身体検査。健康であることが判明。

1945(昭和20)年6月 「伏竜」部隊へ

 横須賀鎮守府へ行け、「伏竜」部隊に行けと言われる。
 上陸用舟艇を機雷のつけた棒で下から突く作戦と判明。
 実際にやるとこれは不可能。潜水服が重たいので、前傾姿勢を取らざるを得ない。数メートル先の海底しか見えない。これでは、海面が見えない。無理だとわかったが、命令でやらざるを得なかった。
 酸素ボンベを背負って呼吸。息は口ではいて、苛性ソーダが入っている清浄缶に回す。浸水すると苛性ソーダー溶液が逆流してきて、ただれてしまう。訓練で死んでしまう人がたくさんいた。自分の時は酸素ボンベではなく通常の圧縮空気ボンベだったらしく酸素欠乏で事故がおきた。

1945(昭和20)年8月下旬 解員



当時を振り返って

 抵抗したくてもできない。間違っていると思っても口にすることはできない。大勢にのまれてしまう。誰が抵抗できるだろうか?いや難しい。でも罪は自分自身にもあった。大勢の中に身を投じて、手伝ったのだから。

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