インタビュー記録
1943(昭和18)年9月 慶応大学経済学部繰り上げ卒業
仏文に行こうか迷ったが全部フランス語の原文の教科書で読むので止めた。仏映画にはまっていて3年で100本ほど見た。
寺の住職に頼み込んで、以前書生さんが住んでいた部屋に一人住まいを始めた。鐘を打ったりは手伝ったがあとは自分の好きな生活。布団の下にはロシア文学の本などを隠していた
1943(昭和18)年12月1日 現役
第3師団歩兵34連隊第1中隊に入隊。
甲種合格で陸軍の試験官から「お前はどこを希望するか」と聞かれたので、「海軍経理学校」と言ったら「馬鹿者!」と怒鳴られ、「海軍航空兵」と言うと「う~ん」と唸られ地元の陸軍になった。
1944(昭和19)年 甲種幹部候補生
この時不合格で乙種幹部候補生となった者は、その後の編成でサイパンに行き殆ど戦死した。
熊本予備仕官学校に入校。5~6カ月後霧島高原で訓練中集められ「1週間で南方に行く」と告げられる。家族が来られる者は会いに来た。
山城、扶桑、駆逐艦4隻に同乗、シンガポールからジョホールバルへ。ポートディクソンで予備仕官教育の仕上げ。同期の卒業生の6割がビルマへ。
1945(昭和20)年初頭頃 見習い士官に
49師団歩兵第106連隊(18702部隊)小隊長
防空壕を作っている。「武器はあるの」と聞いたら「新兵器が出来ましたからやってみてください」。擲弾筒を砲の上に乗せて飛ばすもので、よくて300m、どちらに飛ぶか分からない。
軍曹が「サインを頂きに来ました。(戦闘の記録を残すには将校以上のサインが必要だが)私の中隊は将校が全員やられてサインが頂けないのです。」 図面を見てこんないい加減な図面があるかと言ったら「これは敵と味方が反対です。M4戦車に廻りを全部包囲されて鉄板で皆殺された。中隊長は擲弾筒で戦車に飛びかかり撃たれて死にました(擲弾筒はM4を通過しない)。」これは帰れる訳がないなと思った。
アラカン山脈があったので、山賊になったら食うだけならやっていけるだろう、阿羅漢という名前を自分につけていた。
着いてすぐに、タトン→マルタバン→モールメンへと移動する弓兵団の30人ぐらいの兵隊が、軍服はボロボロで階級章もなく靴も履かずに歩くのを見る。シッタン河・渡河の後なのか。
マラリア・アメーバ赤痢に罹患
喉がおかしく、口が渇き、40何度の熱、斥候を命じられたが何を言ってるか分からない。下がれと言われて何も分からなくなった。炭を粉にして水に溶かしたものを飲ませて貰う。下痢は1週間ぐらい、米の籾殻が山のようになっているのでそこで下痢をしたまま雨の中眠った。朝気付いてニッパハウスに。次第に口がおかしくなってものが言えなくなる。
後方に下げられる事になるが、動けないので牛車に乗せられ、駅で降ろされ列車を待っている。半分寝ているが馬のしっぽが顔を叩いてくる。貨車が来て這っていくと、若い2名で足と手を持って次々に投げて放り込んでいく。横になる場所が無くしゃがんだ格好でずっといる、夜になったか昼になったか分からない。貨車が止まりあとは歩けと言われる、歩けない者はそこで寝たまま。死にかけて内ももが腐ってウジの湧いた兵隊、誰も助けてやれる者がいない。こういう事が本当にあることなのか。ぽつりぽつり歩いていくと、それまで水の下痢だったのに、炭の固まりが出た、それを見て助かった気がして体も楽になった。次の船に乗っけられモールメンの野戦病院へ。
本物の医者がいて、嬉しい。注射1本で凄く楽になる。
貨車でプノンペンの野戦病院へ。この頃にはかなり快復して外をぶらぶらしていた。
1945(昭和20)年8月15日 敗戦
ポカッとした感じ。
アンコールワットを見て帰りたいなと呑気な事を考えていたら、ベトナムで反乱軍の鎮圧をするから武装解除をせず英軍のグルカ兵の統率下に入れと言われる。どういう命令系統だったのかは判然としない。
1945(昭和20)年9月
バンコクの警察本部に着くが、まだ英軍も来て居らず命令系統がない。
飲み屋に入ると女性2名と奥に男性2名、フランス語と英語を混ぜて会話すると、ソ連から独立が支援されている、日本軍も応援して欲しい。住宅や女性、食事も世話するから武器を持って来てくれ、出来れば兵隊も連れて来て欲しいと誘われた。行かなかったが、車ごと武器や兵士を積んで行く者も。どうせ帰れないという気持ちが皆あったのだと思う。
私も誘いには乗らなかったが気持ちはベトナム人の方にあった。フランスのベトナムへの統治は、例えば自動車事故で殺しても遺体の靴にお金を少し入れてやるだけで罪には問われない。2人以上の団体で集まると殺されちゃう、手のひらに針金を通して繋げ、10人20人と引っ張ってサルウィン河に放り込む。右向け右、廻れ右、縦隊で動く、ような団体訓練は絶対やらせない。
ブンの独立部隊に異動、巡察。日本軍とベトナム軍の戦闘があり、撃ち抜かれて死んだ伍長も、戦後で日本には何の関係も無いことなのに。サイゴン大学の教授から娘を勧められたが、ベトナム語しか出来なく語り合えなかった。
1946(昭和21)年2or3月 武装解除
仏軍が来て武装解除。
収容所では倉庫間の荷物の運搬にあたる。お湯を沸かすのに使っていたドラム缶をフランス軍が持っていこうとするので、皆に明日から困るから何とか言ってくれと言われ残してくれと言うと二つだけ、もっとと言うと憲兵中尉に胸を突き飛ばされ銃を胸に突きつけられた。以降仏語をうっかり使うのは止めた。
ドイツ人捕虜もいて、「野バラ」を歌うと喜ばれた。独仏英語の出来る将校がいて「戦争はこれからだ、国をどうするかだ」と言う。日本の復興のため何をするかなど考えられなかったのでびっくりした。
1946(昭和21)年5月13日 鹿児島港に復員
帰路で雷撃され帰れないのではないかと疑っていたので、日の丸の上がった大きな船を見て安心する。
鹿児島の水が冷たくておいしかった。