インタビュー記録
1945(昭和20)年 1月19日 会津若松の連隊に入営、現役
日本には兵隊が足りなくなって、普通20歳で徴兵検査なのに、私たちは19歳だった。 朝鮮・羅南で戦闘教育を受けて、すぐに慶源に配属、ここはソ連と北朝鮮と満州の境で、陣地構築に入った。
1945(昭和20)年8月9日 ソ連参戦
豆満江(とまんこう)の近く、ソ連軍と馬乳山(ばにゅうざん)で陣取った。 3、4、5中隊が陣地をひいていた。だいたい1000人くらい。 川を境にして向こうはソ連。私たちは国境警備だから、ソ連軍は戦争が始めれば攻めてくると思っていた。 戦争始まったという命令が来たのは8月10日かな。 最初はソ連軍の飛行機が上空をまわっていた。陣地の上を飛行機が飛んでいるから変だなと思っていた。あれはソ連軍だと気付いて、命令もきた。 関東軍でも私たちが激戦だと思う。4中隊が全滅、私は5中隊。援軍に行けと言われた。向こうは大部隊で機械化部隊。たちまちやられた。交戦したのはわずか20-30分くらい。それでばたばた死んだ。遠藤一という戦友がたまたま生き残って、病院で遭遇して、全滅したと初めて知った。 援軍に行って、敵陣に入った。入って様子を伺っていると後ろから攻められた。少し敵陣に入りすぎたんだね。低地を進んでいたら、敵は山の上から見ていた。すぐ目の前にきた時に、一斉攻撃をしかけてきた。 ソ連は狙撃兵と自動小銃の兵隊がいる。それに戦車も応援してくれる。われわれは、何にもない。歩兵を守ってくれる重火器がない。山砲も敵の戦車まで届かない。向こうは重火器を殺してから、歩兵を攻める。 私は何で生きていられるかというと、蛸壺で待機していたとき、小隊長が撃つなって言う。撃ったら全滅だった。そのお陰で小隊は無事だった。そこでの激戦というのは20-30分なんだけど、みんなばたばた死んでいくの。
1945(昭和20)年8月17日 停戦命令が届く
私たちは陣地に残って、部隊本部から停戦という命令がきた。終戦じゃないんだな。 武器は持っていた、弾薬もあった。停戦ということは戦うのをやめろということ。 終戦して、8月17日の夕方まで戦った。19日に遠藤一君に会って全滅したことが分かった。20歳くらいだよみんな。気の毒なんだ。終戦の命令がもっとスムーズに届いていれば、8月17日に戦死したんだから、死ななくてよかったんだ。気の毒だよ。国のためにと戦って兵隊に送られて、その当時の教育が軍事教育だから、国のため一人残らず、なんだかんだ兵隊に行かないといけなんだから。 山を降りると、ソ連軍がいて、手を上げろ。図們(ともん)に集結するように。橋を渡って、武装解除を受けた。 延吉の収容所を経てソ連領へ 本来ならそこで帰れるはず。ソ連兵が言うわけ「お前たちを日本に返すから」それを信用して、後についていった。 満州の延吉に収容された。そこが最初の収容所。 輸送機関がないから、歩いて日本海まで行けと。 ソ連領のポシェット湾まで歩いて、そこからソ連軍の汽車に乗せられた。日本に帰れるんだ、と。そこまでたどり着くに大変だった。食料が手に入らない。仕方なく、延吉からポシェットまで8日間歩いた。その間、道路に脇の中国人の作物をかっぱらって生き延びた。そこで初めてソ連軍が高粱が配給された。その食料を貰ってまもなく貨車に載せられた。なんで船がこないんだ、と聞くと。ウラジオから行くんだと。騙されたんだよ。 ずっと北にいく。ハバロフスクに止まったんだよ。駅もなにもないところに時々止まるんだけどね。食料はくれない。貨車の中でみんな腹減らして、動物のヤギや牛でも輸送するように。 ハバロフスクで黒パンが配給された。そのとき初めて黒パンを食べた。ハバロフスクで一昼夜と待って、ウラジオストクに行くと言っているが、列車はどんどん北に行く。コムソモリスクに着いた。シベリヤ鉄道の支線でね。終点なんだね。
1945(昭和20)年10月 コムソモリスクの収容所に抑留
もう10月のはじめで雪で真っ白だった。もう絶対帰れない。ここでこき使われて、働けなくなったら銃殺されるんだと話をしていた。収容所に入れられた。みんな帰れないと、ソ連という国は何をするかわからない、もう出られないと思っていた。絶望感でいた。 でも、とにかく生きて帰りたいとは張り裂けそうに思っているわけ。とにかくやつらのいうことを聞くことにした。 秘密都市で軍事産業を街がやっている。当時は5万くらい。今は30万くらいかな。住人はほとんど囚人。ソ連という国は、共産体制に反するものは、シベリヤに送られていた。その人たちが、われわれの先に収容所にいた。囚人たちは、ドイツとソ連の激戦があって、全部ソ連の第一線に立たされた。だから囚人がいなくて、われわれが入った。 私たちは何にも悪いことしたわけじゃないんだよ。国のために戦ったわけ。それなのに、囚人扱いでノルマを与えられて、重労働をさせられる。毎日強制労働してたわけ。それもね、食べるものが十分あればええ、あったかいものを与えられて働くならええ、陣地から着てきたものだけでやったわけ。全部死んだ。弱いものは環境についていけなくて。 寒さはとても、北朝鮮も寒いけど、そんなものじゃない。空気が凍っているんだよ。動くと痛いんだよ。食料がまずない。貧乏だから、食料が底ついているわけ。満州から食料を運んできたわけ。それだってそんなに長持ちしない。ソ連人が食うものないんだから、食べるもの渡らないんだ。とにかく、2万人の日本人から一割以上、コムソモリスクだけで3000人のうち、450人くらい、かなり死んでいる。毎日毎日死んでいく。 使役させられる。死体運びとか。冬だからかちんこちんなの。冷凍まぐろと人間が一緒。病院の後ろに機材倉庫があって、そこを死体倉庫にした。とにかく、死体を山積みにしないと、掘って埋めるのが間に合わない。掘って埋めるといっても1メートル以上は掘れない。そこに大きな5メートルくらいの大きな穴を掘るんだな。掘るのに何日もかかるの。掘ってそこに20-30人まとめて埋めるの。土をかぶせても、春になると解ける。遺体が露出するの。それを春になるとまた埋めるんだけど。彼らはかわいそうだよ。 とにかく要領がええものが生き延びた。まじめなもの、弱いものが死んだ。要領がええものは炊事場に潜り込んだ、病院の雑役に潜り込んだ。収容所にもええ仕事があるの。人数は限られているけど。私たちはそういうこと出来なくて、これだけの食料だけと言われても頑張った。作業所行くとき、空腹に耐えられない。ロシア人が捨てたゴミをわれ先にあさる。ジャガイモの皮とか食う。そういう動物、野良犬と同じ行動をしてきたの。作業場にいけば、ロシア人は大きいパンを食べているわけ。ロシア人独特のカーシャーを食べる。私たちは何もない。お昼は絶食。100グラムに足らないパンを朝渡されるが、それを食わざるをえない。働けないから。お昼はロシア人にたかるしかないの。 こういうことをね、他の人は言わないと思う。自分を傷つけるだけだから。だけど事実なんだ。自分はいいけど、シベリアで死んだ人が忘れられてしまう。それだけ、強く言い残しておきたい。まあ、喋りたいことは一杯あるけど。 シベリアでの作業は、建築、水道工事、穴掘り、砕石とか。砕石をしばらくやった。アムール川の砂取りもしたよ。これも冬でないと出来ない。砂取りで凍った砂をとる。後は採石場で、爆薬で破壊した石が飛んできて、頭に当たったこともある。 伐採を一年、ナホトカまで来て、また山奥連れて行かれて1年半やった。それで、伐採終って帰れるというところで、船がなくて、一ヶ月くらい使役。そのときは5度目の冬ですよ。5度目の冬を越す前に帰ってきました。 今の話は兵隊の話。将校クラスはみんな守られてた。国際条約でそう決まっているの。兵隊は守られていない。私たちは棄民なんだ。その区別をして欲しい。なぜかというと、私たちは休まず仕事をしてきたわけ。その労働の償いは何もない。ある場所では賃金を貰った人もいるそうだが、私たちには何もない。労働をしてきたことを認めて欲しい。アメリカ軍、イギリス軍に捕虜になった人はみんな日本政府が保証しているんだね。南方行った兵隊は貰うのに、シベリアの兵隊は貰えない。賃金が欲しいからじゃなくて、労働をしたことを認めて欲しいんだよ。
【ご本人手紙】
後世に残すには、まだまだ言い足りない。一番大切な部分が抜けている。それは、仲間を傷つけたくないからです。自宅で取材されたときには言えなかった。彼らの人格を尊重するために。でも、私が死ねば、永久に社会は知らない。実名を伏せて仮名で言おう。 その一つは、ゴミ漁りをした頃だった。 作業の帰途夕方のこと、収容所の堀の外側の住民の自活畑にジャガイモの掘った後の堀残しを、宝探しの様に両手でかき回して、一個、二個でも拾えたときは、声を叫んで喜んだ。作業帰りの列から数人飛び出して、夢中でかき回すが、毎日のことで取り残して一人の男が隣の畑に入ろうと、柵に片足を乗せた瞬間、収容所のやぐらから見張り兵が射殺した。たった一発の銃弾で即死でした。担ぎ込んだ病院で「腹部盲貫銃剣」(収容所の内の)でした。 会津出身で、私と一緒に入隊、北朝鮮羅南部隊に送られた戦友でした。このいきさつを故郷会津では、誰も知らないのです。ただの病死と。 もう一つは、別の収容所にいた、やはり私と一緒に入隊して終戦間際にシベリアに連行され、やはり空腹に耐えていた。たまたま河魚の塩漬けの運搬作業で、秘密に取得した食料をソ連の警備兵に略奪され、腹立ちまぎれにその警備兵の銃をひったくり、銃殺してしまった。 さあ、吾に返り、ことの重大さに驚き、その銃で自殺したのです。この件のいきさつは、彼と一緒に作業した井川貞男 戦友から戦友会で発表されてはじめて知らされた事件です。ですから、戦友会員以外は、事件を知りません。ただの病死です。 しかし、この二件ともソ連側の死亡者名簿には記載ありません。不都合な死者は、抹消しているからです。彼らは、死んでも浮かばれないです。私は悔しくて今も涙で書いています。 この2件の事件をぜひ、加えてください。シベリア抑留の件を明白にして死にたい。 昨年も、墓参りにいってきました。集団で体験者は私一人でした。戦友会も消滅して、健常者は一人か二人です。私はずっと抑留に関する文章作成や講演、談話会などで今日に至っています。命のある限り、誰がなんと言おうとも真実を語って世に知らしめて死にたいと思っています。 小学校高学年に市内とか私の出身地福島県とかでやりましたが、一度や二度では話せません。高年齢で血の巡りが悪く、思考力や動作が鈍くなっています。保存会の皆様にすべてを一任します。