インタビュー記録

1942(昭和17)年9月1日
  海軍特別年少兵に志願(第1期) 大竹海兵団入団

 両親には試験を受けてから報告した。故郷を離れる1ヶ月ぐらい前になってから寂しい
 離れるのが内心嫌だと思うようになったが、一言も言わないで出てきた。当時は出世の道は軍人しかないと思ったし、20歳で徴兵検査があるのだからそれまでに偉くなっていようと思っていた。
 一般の志願兵とはカリキュラムが違い、普通学(一般教養)があった。

1943(昭和18)年8月 横須賀海軍航海学校入校

 兵長で卒業。

1944(昭和19)年1月 駆逐艦「磯風」乗艦 操舵に配置

 航海科は私的制裁がなかった。舵機室(だきしつ)は一番後部にあるので危険で死なばもろとも。外は見えないし、戦闘が激しくなると騒音が激しく全然聞こえない。戦車兵の様にハッチを開けて頭を出し戦闘の状況把握をしていた。

同年6月19日 マリアナ沖海戦 
  魚雷で沈没した大鳳(空母)の乗組員の救助にあたる

 大鳳(空母)は魚雷を受けた後も3時間以上一緒に行動していたが、航空燃料を積んでいたためそれに引火して突如大爆発を起こした。一生懸命救助したが、飛行機は全部バラバラで、甲板上にあったものも投げ落とさないと延焼する。乗員もミイラのように焼けただれ、それでも横付けして戸板を渡し救助に当たった。油が出ているし足を滑らすのか戸板から落下する。落ちると千尋の谷のようなもので艦と艦に接触しとても助からない。大鳳の艦長は責任をとり足をロープでくくり艦と運命をともにした(※実際にはその後ロープが切れ意識不明で救助されている)。
 磯風の戦友会でも艦長をたてた。立派な艦長であったと、それでなくてはあれだけの戦功はあげられない。惜しむらくは温情味が欠けていた。特攻崩れの部下に一言のねぎらいも言わずいずこかに行った。

同年10月 レイテ沖海戦 栗田艦隊に参加

 護衛機が1機もこない。敵機は100機も150機も武蔵に襲いかかった。傷ついた巨象にハゲタカの様であった。これだけの艦隊(70隻余り)がレイテに突っ込むんだからと期待をこめて洋上を見渡すと、荒野に立ち上る“のろし”のように味方の軍艦が煙を上げていた。戦闘中は昇降口から海水が流れ込むのでハッチを閉めておくが、敵機が飛び去り一時静かになる。急いでハッチを開け深呼吸をした。室内は高温で息も出来ない。
 戦闘中は食事が作られないので油臭い乾パンを食べた。
 翌25日、シブャン海峡を抜け出し、大和から敵空母発見の信号旗が上がる。ど~んと、撃ったら「空母1隻命中」と信号があがり喜んでいたが、あれは正規空母ではなかった。大和に魚雷が発射されたが、大和が速力を出すと敵魚雷も追いつかない。矢矧(軽巡洋艦)はズタズタでマスト間の電線も全部垂れ下がっていた。
 栗田艦隊の反転については、下級兵士が言う立場にないが、ただいたずらに突っ込んでいれば大和も何も全滅だったのではないか。回避運動が出来なければどうしようもない。少年兵でも死は超越した気持ちだが、周りをみると寂しくなった。40隻で出て行って8隻かそこらになって、徐々に徐々に衰退していくより一気にというような複雑な気持ち。戦死した者は逆にそんな気持ちはないだろう。

同年11月 「金剛」「信濃」などの救助

 途中「金剛」の救助をして呉に戻り、「長門」の護衛をして横須賀へ。横須賀から「信濃」の護衛。信濃の兵隊は東京湾から出て6~7時間だから沈むときも疲れていない。大声を上げ助けを求めていた。レイテ沖海戦は基地を出てから2日も3日も戦闘後なので皆疲れ切っているし、重油も被っている。信濃の兵隊は助けられると甲板にべとべとで寝そべっている。われわれは懸命に甲板掃除をしているのに思わず殴ってやりたく思った。

1945(昭和20)年2月 震洋、回天の訓練の補助

 手伝ってはいたが、歴戦を戦ってきた感じから言うと、あんなおもちゃみたいなモノで目的の艦隊の前までも行けるわけがない。輸送艦自体がやられてしまう。

同年4月 大和の護衛として沖縄特攻作戦に参加

 4~5日前から可燃物は机の板まで陸にあげてしまう。カッターや内火艇も陸に上げてしまう。寝るところも床しかない。これは覚悟しないといけないなというのは分かる。最後艦内放送で艦長が特攻に参加すると言ったが、それまでに自然と漏れること。前日遺書を書けとか、それまでそういう事はなかった。
 最初の攻撃は正午頃。わずか9艦にのべ800機ぐらいが来た。日本には飛行機がなく上空に何もない。敵か味方か15~6機艦隊上空に飛来したが、すぐにいなくなった。夕方近く矢矧が沈みかけて横付けせ~と命令が来た。船が停止すれば回避運動が取れないので魚雷も爆撃もよけられなくなる、無謀なこと。泳いで来いという奴もいた。案の定爆撃を受け沈没、「雪風」に救助される。

同年5月 第1期特別幹部練習生の教員(大竹海兵団)

 8月には第1期を卒業させ、第2期を迎えるところで敗戦。
 特攻要員の養成を目的とした。特攻機はもうないので伏龍など。

  • 同年8月15日 玉音放送を聞く
  • 同年10月   復員
Copyright(c) 2012 JVVAP. All Rights Reserved.