インタビュー記録

1940(昭和16)年1月10日 現役

 近衛歩兵第5連隊補充隊に入隊。

同年5月29日 芝浦港出航

同年6月~ 広東省中山県西亜で現地訓練

同年12月5日 仏領印度支那に

 偶々敵がいなかったが、銃を頭の上に載せ海から上陸した。
 ミヤタの自転車を輸送船からどんどん降ろし、片っ端に乗って小隊ごとに出発した(銀輪部隊)。8日に仏印とタイの国境を越え、9日にバンコクに。ここで太平洋戦争開戦を知った。正月をバンコクで過ごす。

1942(昭和17)年1月3日

 マレー半島の中央道路をシンガポールを目指して南下。シンガポールの英軍は外海に向かって大砲があり半島側は手薄、その退路を遮断する事を目的としていた。道路は橋が爆破されて車では通れないので自転車で行けるだけ進んだ。ジャングルもあり自転車を捨てる。荷物はトラックで運び軽装でどんどん進む。
 逃げてくる敵を遮断する目的だが、英軍は車での移動なのでスピードが速い。ゴム林を夜移動して。ツタに引っかからないよう先の丸い地下足袋で、白布を鉄帽の後ろにつけ目印にするが眠くて歩きながら隣とぶつかりっこする。巻脚絆と地下足袋をしていてもヒルが入り込んでくる。このように喋ってはいるけれど、あの時のことは体験した者でないと分からない。
 連隊の大部分はバクリに行ったが、山を挟んで激しい戦闘があり、戦死者はここに集中している。敵機を味方だと思い日の丸を振ったのも事態を悪くした。
 井上さんの部隊は軍旗中隊で後ろに残っていたが、敵と鉢合わせをして仕舞った。敵は豪州兵やインド兵、英軍はシンガポールの島の中に閉じこもり前線に他の兵隊を出してくる。中隊長は手榴弾を投げようとしたところをボカーンとやられた。日本の鉄砲は5発しか出ないが、向こうは20発、機関銃は50発。左側で小隊長は抜刀して突撃したが撃たれた。私は稲穂の中を進んで立って撃ってくる敵兵を撃った。軍旗を守る事は出来た。これが初めての戦闘で光景が忘れられない。
食糧調達は給与班がトラックで行い、徴発はしなくて良かった。但し戦闘中はご飯を炊けないので飯盒を3日かけて食べた。

同年2月

 シンガポールへの1本だけの橋は英軍に爆破されていたので、上陸用舟艇で渡ることになった。最初近衛歩兵第4連隊が渡ったが、英軍が重油タンクを破壊し火を付けたので火の海に。船も燃えて仕舞い、兵隊は海に飛び込んでも重油があるので燃えてしまう。それがぽっぽぽっぽ浮いている。
 上陸のため待機場所の木の根元に救命胴衣を置いてあり皆それを取りに行ったが、その木に砲弾が当たった。45度に砲は開くので井上さんは近すぎて却って助かったが気絶、後ろに引っ張られビンタをされて意識を取り戻した。
 陽動作戦のためウビン島に1大隊が上陸。空の車を行ったり来たり、人形を海岸沿いに立てたり、飯盒炊さんの煙を上げたりして、こちらから上がると見せていた。
 井上さん達部隊の大部分はシンガポール島に夜間上陸したが、マングローブ林で迷子になり各部隊は散り散りになって仕舞い、掌握に随分時間がかかった。上陸後は水源地の確保が部隊の仕事。2月10日(紀元節)までにシンガポールを落とそうというのが皆の意気込みだったが、陥落は2月15日。市内での掃討や警備にあたる。

同年3月

 スマトラ島アチェへ。オランダ軍は戦闘意欲がなく戦闘は殆ど無かった。
 掃討作戦後マレーへ戻る。遺骨回収をその後行った。マレー作戦の近歩5については全員本人の遺骨が帰っている。線香を炊いて掘るが、着ているものに臭いが付くと幾ら洗っても取れない。けれどもそれを戦死者の魂だと思っていた。
 その後再度スマトラ島へ。

1945(昭和20)年8月15日

 スマトラ島のインド洋側の海岸線で英軍の上陸に備え戦車壕を掘っていた。敗戦後も現地人が独立を求め日本軍の分掌や警備先を襲うのをオランダ兵が守れないので、島では武装解除がなかった。敗戦後も随分死んだ。耳や鼻や手足を落とされたり性器を落とされたりひどい殺され方をする。

1945(昭和20)年9月1日 軍曹

1946(昭和21)年10月22日

 ベラワン港出航、パレンバンを経て11月5日シンガポールへ、武装解除。首実検が行われ引っかかった者は使役で後に残されたが殺される者はなかった。

1946(昭和21)年11月18日 シンガポール出航

1946(昭和21)年12月5日 広島大竹港に復員

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