インタビュー記録
1944(昭和19)年 旧制中学3年の時に15歳で陸軍特別幹部候補生に志願
※猪熊さんの計算では少年兵は42万(最低でも)
・陸軍特別幹部候補生は、予科練人気で少年を全部海軍に持っていかれるのに対抗してつくられた。
・技術系の下級幹部が不足しているので15~19歳を集め頭の柔らかいうちに教育する。
・当時は中学校で軍事教練をかなりしているので1年半の教育で第1線に送り出す。
・1期生は航空兵か船舶兵、船舶兵は1900人中1200名が特攻で死去。
親は志願には反対、学校では士官学校に行けと言われていた。士官学校に行ったら卒業までに4~5年かかる。陸軍大将になるとかそんな夢は捨てなければいけない。今こそ命を賭して戦うんだ。父と論争して4日目に「それなら行きなさい」となった。入隊したら1/3が親が反対でハンコをかすめていた。
同年4月8日 水戸陸軍航空通信学校長岡教育隊に入隊
人間性があったら強い兵隊になれない。上官の命令は朕の命令。
年中ぶん殴られ蹴っ飛ばされ、一体これはどういう事なんだろう、軍隊こそ正義が通じるところだと思っていたのにどっかおかしい、どっかおかしいが何がおかしいか分からない、これは天皇陛下の大御心を途中でねじ曲げる奴がいるからこういう事になるんだ。俺は立派な兵隊になって将来そいつらをたたきのめしてやるんだと思いながら訓練に励んだ。
同年8月 父とすぐ上の兄(予科練、17歳)が面会に来た
特別外出が許され、その時は嬉しくて、嬉しくて、うどんか何かを食べた。帰りがけに兄が5円札を出してこれを使えとくれた。
土浦から回天特攻隊に100名が志願選抜され、其れを知らずに偶々兄に面会に来た父と特別外出して鉾田の2番目の兄を廻りその足で水戸に来た。兄は持っているお金を全部私にくれたんだろう。衛門で3人で最期の別れをした。
これが兄との最期の別れ。17歳の兄は海軍の縦の敬礼、15歳の私は陸軍の横の敬礼、父が側で黙って見ていた。一生その時の事は忘れない。
同年12月 教育課程修了
本来1年半の教育課程が短くなっていった。
1945(昭和20)年2月 日立常陸教導飛行師団の水戸東飛行場に配属
同年2月16、17日 米海軍戦闘機の空襲を受ける
2千機を超える艦載機が関東一円の陸海軍の航空基地に壊滅的打撃を与えた。
明け方空襲警報の出ないうちに雲霞の如く空一面に米軍の飛行機、編隊に分かれて機銃掃射、小型爆弾。飛行機が全部やられて仕舞う。5mぐらい前に小型爆弾が落ちて土煙を浴びるが命拾い。
格納庫の前にすぐ飛び立てるよう用意してある防衛戦闘機が全部やられる。ガソリンが炎を吹くし、弾が暴発して四方に飛び散る。無線の受信場に行くが飛行機はどんどんやられるばかり、送信場が飛行場の外の山の中に横穴式にあるのでそこに行こうとするが機銃掃射。それを避けるのがやっとだったが、その間に送信所の入口に小型爆弾が落とされ、行ったら死体がバラバラで、17人水戸からの戦友だった。
戦争への一種の憧れがあったが、そんな生やさしいものではない、人と人との殺し合いだと骨身に染みて感じた。
同年4月初め 関東軍の第2航空軍第22対空無線隊(満州・新京)に転属
大部分は情報無線(司令部で暗号を受信解読する。国境線で二人ずつ食糧と無線機を持って配備されソ連の動向を探る。後者はソ連進行時殆ど戦死した)
自分は吉林省の敦化飛行場にて陽動無線の任務に就く。飛行機が無くなっているが、飛行機があるかのように装うための無線。
その後再び新京に戻り本隊勤務。最初の外出の時「突撃一番」を持っているかと言われた。新京の町中で兵隊がベルトに手をかけ列をなして並んでいる。少年兵なのでそんな事は知らないので「そんなものを持っていなければ帝国陸軍の軍人として通用しないのでありますか」とたてついいたら「女も買えないで強い兵隊になれるか」と殴られ、抵抗したが最初の外出は禁止された。
兵隊は列車に乗ると切符を買わない。西瓜を売っていると一人の兵隊が話し込み他の兵隊がかっぱらって行って仕舞う。そういう事が日常茶飯事。
公園で花輪が掲げられていた。満州国皇帝溥儀と関東軍総司令官山田乙三の花輪だったが、山田乙三の花輪が上段にあった。その時もつくづく八紘一宇、五族協和の尖兵として来たはずなのにどうなっているんだと疑問が芽生え始めた。
同年7月頃
補充兵・召集兵が増えてくる、30歳を過ぎた妻や子供のいる兵隊たち。
脱走する者が増えてきた。日曜の度に脱走兵捜し、中国人の部落に入って仕舞うと探し出せない。普段でも二人以上でないと中国人部落には入れない。
自殺する兵隊も出てきた。上官の責任が問われるので演習中の戦死として扱われた。どうしてだろう、どうしてだろうと考えていた。
同年8月9日 ソ連侵攻
無線部隊なので情報はすぐに入った。公主嶺飛行場に応援に行くが、新京に引き揚げ再編成する事になる。根こそぎ動員の召集がかかっているので、開拓団の45歳までの男が家族に送られながら兵舎に入ってくる。帯剣が竹の鞘だったり、水筒が竹筒だったり、軍靴がなく地下足袋だったり、鉄砲の遊底が無かったり。志願した我々でもさすがにこれで勝てるのかと思った。いよいよ最後かなと思った。
高射砲が町中に置いてあって、何故郊外ではないのかと思ったら、飛行機には届かないから戦車へ水平射撃をすると言われた。
蝋燭の火の中で水盃を酌み交わした。「関東軍は最後の一兵まで戦うんだ。電鍵とダイヤルを血に染めよ。もし負ける事があったなら白頭山に集結しよう」と約束した。最後かなと思ったが、妙に冷静でしらけた気持ちがあった。
新京の駅で貨物列車の発車を待っていると再度公主嶺飛行場に行けと命令。
公主嶺の駅に着くと様子がおかしい。どんどんどんどん貨物列車が南に向かっていく。列車に乗っているのは軍人の家族。戦争を止めるというラジオ放送があったらしいと聞いた。
第13錬成飛行隊に行くと「我々は何も聞いていない。最後の一兵まで戦う」飛行機はどんどんバイカル湖方面に戦車に立ち向かうため飛び立っていく。15日を過ぎても戦闘行動が続いた。
同年8月16日夕
食糧の在庫数、兵器数、人員名簿を残して全部焼却せよという電報を傍受
同年8月17日 2日遅れてようやく停戦命令を傍受
しょげかえっていたが、高級参謀が「我々は最後まで戦う。飛行機を出してくれ」というので喜んで皆で送った。飛行機はバイカル湖の方ではなく東に向かって飛んでいった。
満州国軍の反乱、八路軍の展開(ソ連空襲時も飛行場の廻りから照明弾をあげていた)、国民党軍、中国人による日本人の襲撃、至る所で撃ち合いがあり、町中に死体がごろごろしている。兵舎内でも命令系統が無くなり兵隊が古参兵に銃を向け謝れと言う、古参下士官が自殺を図る、兵舎の食糧や衣糧を担いで売り払いに行く、余所からかっぱらいに来る。
自活しないといけないので貨物廠に取りに行くと、中国人が竹槍や青龍刀を持って来ている、こちらは鉄砲を構えてにらみ合いながら食糧を持ち出す。
部隊長は「自分の身は自分で処せ」という命令。居留民を守ろうというような意気込みは無い。一斉に脱走が始まる、駅に行って機関士(多くは日本人)に鉄砲を突きつけ南下しようとしたが、ソ連の飛行機の機銃掃射で列車が止められ、そこを中国人が襲撃して命からがら兵舎に戻ってくる。結局再度部隊として行動することになった。脱走して数が足りないのはみっともないと、軍人と一緒にいると早く帰れると日本人を数併せに連れてきたところもあって、シベリアでそういう女性の兵隊に出逢った。
15人の無線班で相談したが、下士官候補生の班長は「大きな部隊に着いていったら生きて帰れるのではないか」と言った。特幹の同年兵は「それは捕虜になる事じゃないか、生きて虜囚の辱めを受けず、歩いて帰ろう」と言った。こちらに5人が着いて行った。
どちらも論理的根拠はない。大きな部隊に着いていけば恐らく捕虜になるだろうと言う事だけははっきりしていてどうなるんだろうと思ったが、生きて帰ること事こそが天皇のためになるんだと考えた。どちらも戦争に負けても価値の尺度はどうする事が天皇のためになるのかという事だった。
3日間議論したが平行線。私ももっと南なら歩く方に参加しただろう。歩く方の組は夜中に食糧や鉄砲を持ってとぼとぼ南に歩いて出て行った。気付いたがどちらが正しいか分からないから黙って涙を流しながら見送った。調べたがこの5人は一人も日本に帰っていない。
武装解除、ソ連軍の管理下入り
公主嶺飛行場に飛行機、武器を集め明け渡す、自衛のために1/3の銃は持っていって良いとなった。日本兵は貨物廠で入手した新しい軍服に亀の子の様に物資を背負って出て行く。入ってきたソ連兵は髭ぼうぼうでマンドリン(自動機関銃)を抱え泥だらけで目がギラギラしていた。両者がすれ違い、あんなに怖かった事はないが、何事もなく終わった。
高射砲部隊の公主嶺の山の上の兵舎で自活、ソ連兵が道を警備しているので、夜中に食糧を取りに行く。少年兵が若いからと行かされた。山河を合言葉に倉庫に行って米や豆、味噌・醤油を担ぎ山の上に往復。今日どうやっていくか、明日どうやっていくか、考えるのはどれだけ。判断するのは全部自分。
同年9月16日(17歳の誕生日) アムール河を渡る
貨車に乗せられる時、先の10人が更に分けられ、2等兵の3名と、猪熊さんと少飛16期の兵長2名の5人になった。5人で他の部隊に放り込まれるし若いので舐められてはいけないから階級を一つずつ上げようと闇の伍長になった(帰国後8月20日付けで本当に伍長になっていたことを知る)。
黒河着、アムール河の土手で渡る船を待つ。中国人が見に来て、ソ連兵の目をかすめては悪態をつきながら日本軍の荷物をかっぱらっていく。対岸にはソ連領の森がずっと見え、間に監視所があって、ソ連兵の銃がキラッキラッと光っている。これからどうなるんだろうと思うと家族の事、故郷の事を思い出した。ソ連兵はアコーディオンを弾い歌っていた。
ブラゴヴェシチェンスクの駅まで歩いていくとソ連の市民が並んで見物している。独ソ戦で窮乏しているのか汚い古い服を着ている。貨物列車でシベリア鉄道を移動。
同年9月28日 アムール州シワキ収容所着
雪がもう降り出していた。
最初の年が酷く6名に1名が死んだ。
製材、伐採、鉄道工事。猪熊さんは主に製材の貨車への積み込みに当たった。
寒さに慣れていない、食事に慣れない、食事が少ない、どんどん死んでいった。
医務室の前に死体を並べるが、朝になると皆裸になっている。洋服をかっぱらってパンと交換する。製材工場なので棺桶を作っておくが、背の高い人はタポール(斧)で足を折って棺桶に入れた。山で土葬するが土が固くて掘れない。棺桶がやっと被るぐらいの穴に埋め土をかけて帰ってくる。春になると山犬に食われ骨が散らばっている。
そんな中、最初の頃は自分だけが生き残っていけば良い、話したくないのはそのへんの事。隣の戦友が下痢をすると「これでこいつの飯が食えるんだ」。危篤になって医務室に行く、皆で形見分けをしちゃう。偶々危篤を脱して帰ってくると部屋の棚の上に自分の名前の入った骨箱が置いてある、自分の荷物はなくなっている、それでも本人は我慢をする。あいつのパンが少し大きいとか小さいとか、スープの身がひとつ入っている入っていない、そういう状況に追い込まれる。だから話したくない。そんなこと遺族には言えない。でもそれが実際。
階級章が生きている。部隊ごとに食料が分けられると将校や下士官が先に取って仕舞う。冬のオーバーや靴も良いものはそいつらが先に取っちゃう。作業で病人が出る、面子を気にして、ソ連軍ではなく日本の将校士官が作業に駆り立てる。だから兵隊がどんどんどんどん死んでいく。
凍傷、発疹チフス。頭に来る。夜中にパッと立ち上がって、「汽車が出るんですね、家に帰れるんですね」「みそ汁が食べられるんですね。ぼた餅が食べられるんですね」そんな事を言ってバサッと倒れて死んでいく。
これでは生きていけない、民主化しよう、階級章を撤廃しようと言う運動を起こした。後に民主化運動はソ連のための運動に変わっていくが、最初はそういうものだった。
階級章を皆取ったところソ連の弾圧にあった。「我々は日本軍を軍隊として捕虜にしたんだ。階級章を取ることは軍隊の秩序を乱す者、それは収容所を乱す者、ソ連の収容所管理に盾突く者だ」とソ連の命令でまた階級章をつけたが、一度取るともう様にならない。もう一度民主化運動のやり直し。階級章を取られて悔しい側は、夜襲撃してくる、作業中無人のトロッコが飛んでくるなど。3回ほどやり直して成功した。少ないながらも食糧が平等に分配されるようになり、食堂で皆で食事をする、選ばれた人間がその調理をするなど。時間が来ても仕事を辞めない監督官への苦情を集団で申し立てる。2年目以降の死亡率は減った。
1947(昭和22)年
ポシエット~クラスキノ~ウォロシーロフ~ナホトカと沿海州の収容所に移動
1947(昭和22)年11月28日 ナホトカを出航
同年12月2日 舞鶴に復員
緑が豊かで、黄色い笠をさして長靴を履いたこども達が手を振ってくれた。これが祖国だと思った。家は焼け、父親は前年に亡くなり、兄は「回天特攻隊員(人間魚雷)」白龍隊員として戦死していた。