インタビュー記録

1942(昭和17)年6月 召集 第27師団支那駐屯歩兵1連隊に

・天津北部で初年兵教育後、炭鉱の警備、戦闘にあたる。

 うちの連隊は盧溝橋の1発をやった連隊、初代の連隊長がビルマで失敗した牟田口だった。初年兵1年間は訓練が凄く厳しかった。戦闘に勝つには、強い兵隊を作らなければいけない、強い兵隊にするには狂わせなくてはいけない。
 旧満州の中国東北部と華北の中間、万里の長城が立ち上がってくる「たんしゃん」に連隊本部があった。

 初年兵教育が終わって原隊復帰して、12月終わりごろかな、寒い時でした。昼間でも零下5度くらい。かかとを減らして歩いていたら、たまたま古参兵に見つかった。初年兵の靴は自分で直さないといけないが、暇がない。自分の班ではない古参兵に見つかって大変、ふてくされて好きにやっている、上も手がつかない兵隊がいる。“もさくれ”。連れて行かれて、大きな声で「第4班井ノ口2等兵入ります」「井ノ口2等兵は軍靴の履き方が悪く、かかとを減らしすぎて、注意されてこの部屋に参りました」暇を弄んでいる兵隊なので、「お前彼女いるだろう、手紙はどれくらい来るのか」と冗談を言う。それに乗ると大変。

 「お前犬になれっ」て言われた。「吠えろ」と言われて「ワンワン」と言う。すると「ちんちんをやれっ」。部屋に入る前に、軍靴の靴紐をくわえて4つんばいで行く。結局おちょくられて涙が出るほど。

 ポケットを調べられる。よそでお金を使っちゃだめ、南京豆の殻がポケットに入っていてへそくりがばれちゃった。向こうも小遣い帳に書いていないお金だってことは知っている。彼女がどうとか聞かれていろいろねちねちやられて、最後はぶん殴られて、蹴飛ばされて追い出される。自分の班は殴られるだけ。その時に悔しくて涙が落ちましたよ。みんな初年兵はそんな思いをして来ているんです。4つ班をすべて回って、最後に言われた班にもどって報告するわけ。多分こういうのが「人を殺す機械になれっ」てことなんですかね。でもね、やっている古参兵もやられてきているんですね。

 私は1回だけ、錦西の病院で、若い兵隊を殴ったことがあります。これ1回だけです。あまりにだらしなかったので。殴った男のことは覚えています。

 歩哨は1人が立ち番で、歩哨から帰ってくると1時間控えで椅子に座って休む、それが終わると1時間寝れる。私の場合には、古参は花札をやっていて、私は2時間立って寝る時間も減る。偶々居眠りをしている時に、古参兵が「こらっ、洗面器に水を汲んでこいっ」て言う。自分たちは花札をやっているんですよ。洗面器で下足袋のゴムの底に水をつけ、それで顔を殴る、酷いもんですよ。

 夕食は6時くらい、7時から8時30分くらいまで入浴、9時に「初年兵はかわいそうだね、また寝て泣くのかね」って消灯ラッパが鳴る。夜8時過ぎに古参兵の洗濯物をかかえて風呂場で洗濯をしていたら消灯ラッパが鳴り出して、慌てて部屋に帰った。イギリスの炭鉱の医務室を私たちの兵舎にしており真っ暗でしーんとしている中、洗濯を落としたら、“もさくれ”が「誰か?」って大声を出す、知っているくせにね。

 大声を出した古参兵に報告しに行くが、「お前たちの洗濯をしてたのに、2-3分遅れて何が悪いんだ」と思ったけど言えない。「消灯ラッパが鳴っているのに、なぜ寝ていない」って怒る。うちの中隊訓は「正直」なのにこじつけて、寝る時間に寝ていないのは「不正直」だ。

 洗濯の乾いていない布をくるくる巻きつけて、「インド兵になれ。班長に報告してこい」って言う。下士官は寝ていないんだね。下士官室の前に行き仕方ないからノックをすると「入れ」って、すると爆笑。班長の顔が見られなくて、班長からいきなり後ろ向きにして蹴飛ばされた。今度は「当番室に行ってこい」。当番兵はいい人なんだね、私の顔を見て殴らない。「殴られたと言ってすぐ帰れ」と言ってくれた。次は衛兵所に。いい鴨ですよ。そのときの衛兵所の兵隊もいい人で、「いい加減にやめておけ」と言われて終わった。

 自分の寝床に入って枕に顔あてて泣きました。ほんとに古参兵の洗濯をして何でこんなひどい仕打ちを受けなくてはいけないのか、と思いました。日本の兵隊はそうやって作られてくる。うちの中隊は特に牟田口連隊だから、初年兵は徹底的にやられました。

 駐屯地近くに炭鉱があり、そこの石炭でないと溶かせない鉄があると全部八幡製鉄所に送られていた。石炭はなんのために送ったか、タングステンを中国から運ばせた。タングステンは、耐熱性持った近代戦で使われる重要な物資で、これを軍が狙うんです。タングステンと石炭が必要。中国のこの地域からタングステンを掘り出して、それを溶かす石炭を運んで、銃や弾を作って、中国人を殺すわけだから、ふとどきだよね。戦前はイギリスが権利を持っていたらしい。戦争が始まる前から軍が調査して開戦と同時に押さえちゃった。日本の技術者だけだと炭鉱の運転が出来ず、イギリス人技師を使って憲兵の監視つきで運転していたらしいです。ただ、ちゃんばらをやってるわけではない。

1943(昭和18)年8月 満州・錦州に駐留

1944(昭和19)年3月頃 京漢作戦のため鄭州に移動

 夜8時から非常呼集で休みでも軍装になって集まらないといけない。駅に連れて行かれ、演習と思ったら本番。馬を乗せる貨車に兵隊を詰める。窓も少ないし、どこに連れていかれるんだか全然わからない。隅っこに樽がおいてあってそれがトイレで臭い。3日3晩だよ。満州の錦西から貨車に運ばれて、ある駅で黄河を超えると鄭州でそこから作戦が始まる。

 岸で天幕を張り合わせて寝る。体力練成ですよ。全部の荷物をあわせる30キロあるんです。弾入れで60、60で120発かな。帯剣、防毒、毛布、それを背負って、最初の日が20キロ、30キロ、最後に40キロ。30キロでだいぶ落伍する。

 東京の深川出身の、よく話が出来た兵隊がいた。30過ぎでまだ結婚してなかった。だいたい普通は甲種が入営する、丙はよっぽど戦争が険しくならないと持っていかれない。その人は丙種だった。体が細く作戦が始まるちょっと前に来た。兵隊の経験はない。初年兵教育は現地でやり2-30キロの行軍をする。親もいないし、姉さんと2人の兄弟、かわいそうだなと思っていた。

 ある日使役をやっていたら表に1発弾が飛んだ。小銃は天皇陛下からお借りした兵器で、貰ったり、掃除っていうとぶん殴られる。引き鉄をひかずに、かけておくと銃を休めさせられないって。夕方使役が終わって帰ってくると、部屋の空気がおかしい。仲間がやってきて「おい、死んだんだって」自殺したんだって。行軍についていけないし、作戦始まったら大変だなって思ったんだろうね。

 小銃を手入れしてたでしょ、1回入るのは5発なの。1発いれて小銃を立てて自分の顎の下にもってくる。それで1発撃てば自殺できる。1番楽な死に方をしたんですけどね。あの男が自殺しなくても、結局作戦で落伍していたと思いますよ。そういう死に方をしたんですよ。

 そういうことがあると大変。班長は重謹慎になる。今の日本でいう留置所だね。衛兵所があって、その後ろに拘留するところがある。営倉っていうんだけどね。自殺の彼を焼くので、私は準備はしなかったんだけど、線路の枕木をもってきて、どこから持ってきたのかね、燃やした。遺体を骨にしたんですけどね、むごいですよ。30過ぎているのにね。自殺すると、戸籍謄本に赤線が入っちゃうんだね。隠れるように遺骨が届けられる。

1944(昭和19)年4月より 京漢作戦に参加、鄭州より漢口へ

1944(昭和19)年5月 長台関で豪雨に遭う

 そのときは、何日か前に雨が降っていた。軍装は装備を背負って30キロくらいする。歩兵でありながら、丸太切って来て橋を作ったり、鉄条網を壊すとか、工兵の仕事もしていた。普通歩兵は銃を左右で持ち替えるが、両肩に持っていたから大変だった。雨が降ってぬかるむと余計大変。隊が連なって、午前中雨の中を歩いて、午後になると、ふんどしまでびっしょり。雨が降ってくると、寒くなる。

 夕方の5時くらいかな、宿舎を考えないといけない。全身ぬれているけど、背嚢を背にごろんと休む。両側に商店街があって宿舎に丁度いいんだけど、後続の部隊にとられちゃった。後は水田で、部落が点在している、農家だね。何の命令も出ない。

 そうこうするうちに雨はどんどん降って水かさは増す。宿舎まで100メートル以上ありましたよ。重い荷物背負って歩き出すんだけど、あぜ道で膝下まで水が来ている。重たい荷物を背負っているから沈んじゃう。クリークがあったら途中で落ちると終わり。ばしゃばしゃ音がして終わり。助けてやれない。自分がとにかく、宿舎に進むことだけで精1杯。真っ暗の中、目的の場所に明かりを目指して進む。何人かクリーク落ちたが助けてやれない。軍隊がそういう事にぶつかると支離滅裂。ひとりひとり、われ先に進む。自分の宿舎に入った。150メートルが4倍くらいに思えた。そこまでいくのに、3時間かかったかな。

 中国の人がいないから土間に寝そべって、「ああ、助かった」っていう思い。間違って違う部隊が入ってくるんだけど、古参兵が追い返しちゃう。普通なら「どうぞどうぞ」だけどね、何で追い返すかな。でも、他中隊に関してはちょっと憎しみがあったのかな。朝起きたら、家の外で銃を持って死んでいたり。

 1万5-6千人が漢口に着いたときには300名くらい死んだらしい。復員してからの話だけど、師団長は飛行機でばっと移動しちゃう。雨の中を歩く事はないんだから。計画のずさんさだよ。敵の弾に当たって死ぬんならまだしも、これで死んじゃうんだから上官の責任。 翌日はからっと晴れて、何日か費やして死体の処理。貨車に載せられて、漢口(はんかお)まで移動したんです。

1944(昭和19)年6月~ 湖桂作戦に参加、武昌から来陽へ

 師団1万6千くらいが、湖桂作戦に入ると、2ヶ月の犠牲が4000人くらい。それまでは道路があったから何不自由なく戦争できたけど、湖南はトラック輸送が出来ない。大きな道路を掘って切断、それが500メートルおき、1キロおきに作られている。トラック輸送がきかない。馬が引けない。全部駄馬に乗せて、弾、砲弾を運ぶようになる。

 食料、塩、胡椒が何にもこない。餓死するしかない。徴発に上官は目をつぶる、つぶるどころか、兵隊がかっぱらったものを食べているんだから。しょうゆも、味噌もない。塩だけ。塩なしが2週間続いたことがあって、すごく辛かった。背嚢の中身を捨てて行く、天幕を捨てちゃう。雨外套も捨てちゃう。なるべく荷物を軽くしないと生き残れない。

 連続夜行軍だから疲れる。歩きながら寝ちゃう。置き去りをくう連中も出る。部落民は落伍を待っている。棍棒を持って待っている。銃と弾を住民にとられちゃう。自警団を作るんだね。日本の歩兵、三八式の弾、向こうのチェコ製の機関銃も同じ弾が使えるわけ。お互いかっぱらって使えるわけ、重宝だけど物騒。日本の軽機関銃は重い、チェコは軽い。チェコを使ったことはあるけど、凄く具合がいいんだね。

 44年後半になると日本が負ける事があるんだね。負ける戦はあまり話さないけど。迂回作戦、どうしても突破できなかったら横に逃げる。

戦友の片腕を首からさげて

 湖桂作戦に少し入った時、7月の終わりごろかな、丁度前の日から戦闘があった。泳ぎの達者な連中が船をもってきて川を渡り、敵は少し先の山のトーチカからチェコ機関銃でバーっと撃ってくる。弾幕で隙間がない。こっちは下の畑からあがっていく。

 弾をこめる時間に、「何番出るぞ」とぱっと出る。縦隊で進む。近い弾は音が短い。バスバスは近い。遠いのはヒューヒュー。稲の穂がちぎれて飛んだり。水田があって小銃が濡れないように進む。亀の子みたいに頭だけあげて。

 Kが私の前にぱっと出たら、弾が肩から抜けて、倒れた。戦友をかばっている状況じゃないんだね。やられた、この野郎と思って、「9番出るぞ」と言われて出た。どんどん出て行く。お昼くらい、曲射砲が来てトーチカをめがけて撃つ。煙があがると「やった」。弾が来ないからね。全部はつぶせなくて弾がきてたけど。一応戦況の見通しがついたので、戦友2人でKの遺体を部落に運ぶように言われて、途中でどこかで竹を縄でしばった担架を作って、背嚢だけ置いて小銃を持って行った。遺体は肩から真っ赤で担架に積んだ。動くと弾が飛んで来る。

 遺体を持って行き飯を食おうとしたら、飯盒を取られていた。後から来る部隊が盗んでいく、抜け目ないよね。死んだ戦友の飯盒を使って飯を食った。遺体を運んで、疲れて、疲れて、戦争しているのに悪いと思ったけど寝ちゃった。

 戦友の遺体に対する責任があった。薪を集めて遺体を焼こうとしたのに出発の命令で、仕方がないから遺体の片腕を切って日の丸に包んで首の前に下げた。他の部分は埋葬した。真夏の炎天下で腕が邪魔になってくる。歩くたびに左右に揺れるわけ。で、鼻の下だから臭い。死臭は臭いですよ。日の丸にくるんでいるけど緩んできて、片腕の断面図にご飯粒みたいに蛆がわいてくる。歩いている途中でもぽろぽろ落ちてくる。だんだん日が経つと乾燥して黒っぽくなり骨に皮がくっついたみたいになった。そうなると蛆もわかないし、匂いもしないので楽。

 8月15日かね、田舎も盆だよねと思ったとき、骨にするために燃やして、米の粉があったのをお供えした。行軍のへとへとになった時に私の銃をちょっとの間だけど持ってくれたり、米をいっぱい徴発した時に持ってくれたり、Kには世話になった。骨を焼くときに思い浮かんで泣いちゃった。そして連隊本部に届けたんです。平時のときは戦友が実家に届けるしきたりだけど、遺骨を持って来た兵士は不思議と戦死しちゃうと言うんだけど、私は外地なので持っていくこともできないんだね。釜山の本願寺に骨が集められたと伝え聞いてました。戦後、遺族のもとに届いたのかなって思っています。その時は中隊で5-6名死んでいる。

火田(かてん)における農民刺殺

 1944年の8月ごろ、20日間くらい火田っていう集落に駐留していたとき、連隊本部から明日中に苦力を10名ほど捕まえてこいと命令を受けたんです。捕まるのはいい迷惑です。お金を貰えるわけでないし、弾に当たっても補償ない。彼らは絶対に逃げる。

 捕まえに行くのに加わって、7-8名で銃2丁くらいをもって行った。日本軍の4キロ四方は人なんていないんです。みんな昼間は山に逃げて、夜中に帰ってきて少し寝て、お弁当を貰って山に逃げちゃう。日本軍がいる間はそれを繰り返している。われわれの部隊だけではないから、たまったもんじゃないんです。彼らが山に逃げる前に捕まえないといけない。小銃は音がするので皮を紐でしばって布で巻いて銃らしくなくして、彼らが出る前に目星をつけ、家を囲んで、家に入る。

 私はえらいどじを踏んだ。夜明け近く見張っていると、顔が出て表の様子をうかがって引っ込んだのに気がついて、馬鹿だから入り口に行ったら反対から出ちゃって、彼らは死ぬ気ですからね、はだしで逃げていくんです。浅い川があって、走るんです。
 私も逡巡したんですが、その間に距離が離れちゃった。脅しで1発撃っちゃった。これがミスです。山から戻ろうとしていた人間がみんな逃げたんですね。「何で1発撃った」って引率した分隊長に怒られた。10名捕まえろと言われたのに1名も捕まえられなくて、みんなしょぼんとしちゃった。
 米粒がわからない雑炊を煮ていて、みたら年寄りが子供をかかえて隅っこにいるんだね。それを勝手に食べてさ、そういうこと平気でできたんだね。なんとも良心痛まない。人の家に押し入って、勝手に料理を食べて。

 食べ終わって帰るときに離れた1軒に人がいた。あれを捕まえようということになって、2人で行った。1人は老人で1人は若い親子。若いのは日本語が分かって、こちらもちょっとは中国語の単語がわかったから会話をした。お父さんが胸の病になって帰るところだと言う。
 向こうはこれで許してもらえると思っていたが、10名の命令で0人だからせめてこの2人を連れて行こうということになった。ところが途中病人は置いて子供だけ連れて行けとなったのに、老人が田んぼのあぜ道を必死で追いかけてくる。
 分隊長がそれを殺せと命令。いくら私に責任があるからって、殺せっていうのはどうもね。
 黙って立っていたら、隣を歩いていた上等兵が代わりに殺すって言う。私はほっとしたんだけれど、結局殺すのかって。1等兵が帯剣を抜いて銃に刺し、よれよれ来る病人を刺した。執念だね。胸を刺されたけど、泥水をかぶってあぜ道を這い上がってきた。そしたらまた刺した。子供が暴れて暴れて、それはそうだよね。つらい。本当は言いたくなかったんだけどね。結局、連隊本部に連れて行ったけど、逃げちゃった。1944年で15,6歳だから生きていれば70歳超えていますかね。自分が手をかけなかったけど、苦しいよね。

1944(昭和19)年10月頃 来陽着、12月の始まりまでいた

 普通ならば稲が実っているが、日本軍が来るから農民が逃げちゃって、日本の梅雨みたいに雨が降って収穫されずに稲穂が水に浸かっている。
 かわいそうなのは、農民は日本軍からもとられ、中国軍からも盗られていたから、大変だったと思う。

 食い物が無いから仕方ないから稲刈りする。1メートルくらいの箱に稲を叩きつける。それを乾かすと言ったって天気にならないから、炒る。それを脱穀するけど、もみがとれない場合もある。殆ど米にならない。炊いてもおいしくないが、食べないと死んじゃうから食べる。お昼は大根半月くらいで、塩が無くなって大変だった。味がない。体がだるくなるし、駐留しているときの使役で体はしらみで大変。 

 4人で小銃ひとつ持ってさつま芋があるところに盗りにいく。宿舎から遠くなると危険になる。芋探しで発熱した。みんなの足手まといにならないように先に帰った。
 大きな陸上の競技場があった。1人でいくと危ないので普通は外をまわる。たまたま発熱していたから横断した。そこに、野犬が住み着いていたみたいで人の肉をしょっちゅう食べているからいい餌食になっちゃう。ボスの1頭が出てきて、犬じゃないよ、狼だよ。唸りをあげて、すくんで集落の方向へ逃げ出した。たまたま途中で竹の棒1本拾って振り回した。犬は元気がいい。それが10頭くらいいるからね。理屈じゃないよ。竹の棒を捨てて、四つん這いになって思い切り叫んだ。それでひるんで犬が逃げた。それこそあそこで死んだら「犬死」ですよ。戦闘のときは、仲間と鉄砲撃っていると慣れるけど、犬との対決は怖かった。

 回虫で死ぬ人もいた。来陽で撲滅しようと言う事になって、せんだんの木の皮を陰干しして飯盒で20%煮て飛ばすんです。前の夜夕食抜きにしてコップ1杯飲む。朝すごく痛くてのた打ち回る。トイレにいくと、全部で80匹出た。中には300匹くらい出た人もいる。

 衣服の交換はないし、履物が無い奴もいるし、命令が出て、階級章があるから上着は着とけってね。ズボンは何でもいい。今の物乞いのほうが良いもの着ていますよ。

 回帰熱、かっけ、大変なんだね。作戦が始まって、行軍に追いつけない。お昼どきの休憩している部隊に追いつく。途中で軍馬に乗って軍医が「何中隊か?」って声をかけてきた。そのままいっちゃった。その次の日かな、入院検査があって、分隊長が行けって言ってくれて。入院の是非を決める検査があって、昨日の軍医で覚えてくれていて、聴診器も当てずに入院が決まった。 私は入院したけど、本隊は来陽から広東まで行った。

1944(昭和19)年12月8日 衡陽野戦病院に入院

 マラリヤで2日熱、3日熱、4日熱がある。マラリヤが出ると震える。真夏でも寒くなる。今度は暑くなる。年中出るから薬がなくなる。しらみはたかり放題、下痢する人はいる、赤痢もある。病院に行けないんだから。赤痢になると野戦病院に行くけど薬がない。回帰熱ってやつがマラリアどころじゃない。

 衡陽野戦病院に入院した。ご飯がない。水に浸かったもみを食べているような状況ですから。1日2食。おかずが大根の粉味噌の味噌汁。患者がそれを見て、「太平洋」と言う、太平洋に小さな島が浮いているみたいにおかずがないから。1週間に1回梅干がでる。ずっとしゃぶっている。これが楽しみだった。回帰熱の病棟に入れられ薬がまったくない。カンフルはある。これを打たれる時は2-3日で死んじゃうくらいの状況。

 媒介はしらみ。しらみが血をすう。とたんにうつる。助かるのは少ない。私は助かったけどね。ご飯が食べられない。そのご飯が欲しい兵隊もいるわけ。介抱してやるけど飯が欲しいから。さもしいね、人間って。死ぬ間、飯を食わない、だからその飯を食える。

 冬は寒い。わらがひいてあって、毛布1枚。寒くて寝られない。部屋を土で作っているから隙間風。病院の夜を過ごすのは精神力がいる。死んじまうって弱気になる。寒いから3人くらいで固まって、3枚の毛布を抱き合いながら寝る。中には狂っちゃって、大声だして外に出る人もいる。それもだいたい2-3日で死んでしまう。

 春まで待つと田んぼに芽が出る。それを競争で集めて食べる。たんぽぽは苦味があって、のびるが1番上手かった。せりも上手い。後は雑草。だんだん遠くに行かないと草がなくなる。殿様蛙も食べられるよって捕まえた。蛙の皮をむくのが楽しみでね。ご飯にいれて蛙雑炊。猫も食べた。中国の農家の天井に猫の声がする。みんな「おかず泣いてるよ」って。4-5匹いたね。親猫が警戒したけど逃げちゃって、子猫を捕まえて煮て食べちゃった。頭蓋骨の骨が口に引っかかって。親猫も捕まえようとしたけど駄目だった。そういうことまでして、食べてきた。食い意地がはってたね。うちに帰ったら刺身で白飯を味噌汁をかきこんでとか、天井を見上げながらつぶやいていた。

 小指の第2関節から遺骨になるんです。衛生兵はやらない。隣りのやつがゆすぶったら冷たい。ああ、死んじゃった。雨が降って遺体の処理ができないので、2日くらい置き去りにされて、ハエがすぐにきてね。小指を包丁かなんかで切って、亡くなりましたって衛生兵に報告する。結局遺体処理をする人間2人で担架に乗せて、裏山の赤土を掘る。それをやると、飯がおまけでつくからやる。それが欲しくて死体処理する。体力がないからせいぜい死体が埋まるくらいの穴しか掘れない。野犬がいて、死んだ人間を食べるわけ。足と手が出てると、野犬に食われちゃう。衡陽の病院だけで100人超えるよね。あの山は死体だらけのはず。

 12月末に入って来て結構元気そうに見えた人がいた。翌月かな、とたんに彼が下痢が始まって、飯が食えなくなる。トイレに行くときに肩を貸したりとかしてた。
 亡くなる2-3日前に「おれ、もたないよ」って言い出して。実家が砧。12月に生まれた娘さんが1人居て娘の顔が見たいっていいだして。もし死んだら、腕時計を奥さんに渡してくれって言うの。いい腕時計だけど、壊れていた。手巻きなんです。もし修理できたら、役場に行って事情を話して遺族に返そうと思うんだね。黒の財布と、安全かみそりはもらってくれって言われたけど南京でとられちゃった。時計は復員する時に壊れていたから、盗られなかった。1951-2(昭和26、7)年に砧の知人が調べたけど、見つからなくて。どれだけ探したかわからないけど、自分で探せばよかったなって悔いている。

 生きるために悪いことを一杯したんですよ。看護婦や衛生兵は3食食うのに、患者が2食。何でだよと思った。こっちはおじやを食ってるのに、白米を食っている。豚肉が来ているのに、全然来やしない。そこで悪いことをするわけです。見つかって3日の絶食になる。みんなばれちゃうね。4人が組んで、渡り廊下の途中に木箱があって食えそうなものを探せってなった。4人で手分けして木箱を開ける。病院はいいもので、わら布団のわらを捨てて、わらの隙間に隠す。米の倉庫はわかっているので、夜明けに炊事をやっている兵隊がとりに来るから、米は前日に研いでおいておく。歩哨の時間を記録して何時から何時は歩哨が来ないって2-3日で把握した。倉庫に入って、2人が中に入って、1人は見張り。竹筒えお使って、米を盗って、外を出る時には夜があける。見つかってもいいように湯沸し当番のふりをして大きなヤカンに米を隠して部屋にもどる。そこで、次は炊くのをどうするかです。固形燃料が庭に積んであったので、あれを使おうってなって、お風呂場で炊こうとなった。

1945(昭和20)年5月 退院し、原隊を追いかけて大陸広域を行軍

 自分の隊がどこにいったかわからない。漢口を目指そうとなった。おっかないですよ。行軍は夜、危ないから。昼間は ピーゴロ P-51がいる。バリバリ撃ってくる。馬がやられちゃう。戦闘は数を重ねればなれるけど、飛行機は怖かった。B-29なんて全然落ちないものね。

1945(昭和20)年8月18日 失明して九江(きゅうこう)病院に入院

 下の人間と飯を炊いた。朝起きたら目が全然開かなくなった。いぶった煙もだけど、栄養失調もあると思う。2日経っても駄目。軍医の診断があって、これは九江送りだと。中国人の船頭が運んでくれた。
 で、敗戦を聞いた。泣いている人がいた。朝起きたら自分の私物を持っていかれた。酷いよね、目が見えない兵隊から私物をかっぱらっていく兵隊がいるんだから。10日いたかな。
 次は上海送り。命令のままでどこに行くかはわからない。船は日本の軍船で機関銃がついている。途中南京よって、両目が見えなくて大変だった。菊水陸軍病院に入ったけど、薬が全然なかった。外科に入った。薬も治療もなくて、そうこうすると右目が治ってきた。両目が見えなくなったらどうしようかと思ってたけど普通になったんですね(左目は生涯見えないまま)。

1946(昭和21)年4月 復員

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