インタビュー記録
1941(昭和16)年2月10日 現役兵として松江の歩兵第63連隊に入営
満州・興山に3年間駐屯。 太平洋戦争の開戦は「やった、やった」と言う感じ、当時は勝つと思っていた。 2年目、3年目は教育係を務めた。
1944(昭和19)年3月 歩兵第211連隊転属のためウースンに移動
歩兵第211連隊第3大隊第12中隊の所属に。 歩兵第211連隊は東京編成の部隊だったが、第3大隊がマレー方面に転属になり、その後部隊全体の南方転属に伴い63連隊から新たに第3大隊が編成された。
1944(昭和19)年4月~ 上海からマニラを経てハルマヘラ島(セレベス島とニューギニアの間に位置する)へ
輸送船1隻に5000人ほど乗り込み、10数隻と護衛艦も10隻ほどが船団を組んだが、潜水艦に待ち伏せされバシー海峡では隣の輸送船が、セレベス沖ではさらに3隻が沈められた。
救命胴衣を着け、出来るだけ甲板に出ていた。
沈んだ輸送船の兵隊は護衛艦が救助したり、自分で島に泳ぎ着いた人もいたが、多く亡くなった。 自分たちは当初ニューギニア・ビアク島に行く予定だったが、これらの沈没によってハルマヘラ島に行く先が変わったらしい。
1944(昭和19)年5月11日 ハルマヘラ島北部のワシレ湾に上陸
1944(昭和19)年12月半ば モロタイ島(ハルマヘラ島北方の小島)へ敵前上陸
モロタイ島は米軍が9月に上陸して、島南部のドルバに飛行場を作り、フィリピンへの攻撃拠点となっていた。 元の歩兵64連隊は精鋭部隊と言われており逆上陸要員に選ばれたらしい。 1隻に2個分隊が乗り、2隻で西岸中部のチウに逆上陸。
偶々米軍とは遭わず無事上陸できたが、武器などの揚陸作業にあたっているうちに、先に上がっていた日本軍の別の部隊に海岸に置いておいた背嚢を盗まれてしまった。そのため食糧が1週間分ぐらいしかなくなってしまった。
1944(昭和19)年12月24日 米軍の陣地を攻撃
上陸の際いなくなっていた米軍が再度海側から上陸し海岸沿いに陣地を作っていた。 ここを中隊全体で総攻撃する事になり射撃を開始した途端、米陣地から照明弾が上がり明るくなって、米軍とは50mぐらいの距離しかなく手榴弾を投げてくるのがはっきり見えた。 砲弾はモロタイ対岸のラウ島からもどんどん撃ってくる。 手榴弾や銃弾がどんどん周りに落ち、あちこちで絶叫があがった。 小隊長が戦死、呼びかけて背中を押すと返事はなくぶよぶよしていた。 中隊長は腕をやられ重症、ほかの分隊長や少尉も亡くなって一時指揮官がいなくなってしまった。 照明弾が消え攻撃が止んだので、戦死者の小指を短剣で切り落として廻り、遺骨として持ち帰る。
1945(昭和20)年 以降は大きな戦闘はなく米軍も積極的に攻めては来ず持久戦に
米軍の飛行場には鉄条網が張られ聴音機がつけられて攻撃は出来なかった。 そのうち米軍自体がミンダナオなどの飛行場を手に入れ主力は移動していった。
1945(昭和20)年4~5月頃 栄養失調が広がり始める
塩も醤油も無くなったのが一番困ったが、海水を飯盒で炊くと50gぐらい採ることが出来た。 でんぷんはサゴヤシから取る。サトイモ、サツマイモも。パパイア、パイナップル、エビ、カニ、ゴドゴ、モンキーバナナをヤシの葉で蒸す。野菜をてんぷらや炒めものにもした、ヤシの実のコプラも。 個々に取った食べ物は分隊のものとする事が徹底されており、団結はしていたのが良かった。満州以来の部隊で規律が崩れなかった。。
1945(昭和20)年8月20日頃 敗戦を聞く
ハルマヘラ島の方にいた部隊から連絡が来た。 ハルマヘラ島・ガレラに戻り、カウで自活生活に入る。 収容所のようなものはなく自分たちで宿谷を作り自活生活を行った。 東大農学部出身の兵隊がいて計画を立て指導をしてくれたので割と順調にいった。
1946(昭和21)年6月5日 田辺に復員する
母が亡くなっていた。親戚が田んぼを預かってくれていた。 田植えの季節ですぐに田植えをした。秋には自分の作った新米を食べた。