インタビュー記録

1941(昭和16)年9月10日 召集

 第2補充兵で関東軍特別演習にむけての召集だったがそのまま太平洋戦争が開戦してしまう。
 広島→台湾・高尾→カムラン湾→バタビア(ジャカルタ)と何も分からず身体だけ持って行った。魚雷攻撃を受けた。

ジャワ島中部のエレタンに上陸

 スラバヤ沖海戦が終わったばかりで、港には焼けた敵の船のマストだけが林立していた。
 上陸すると歩兵はもういなくなっていたが、壕の中に20体、30体、歩兵が遺体を突っ込んだまま立ち去っていてリンが青く燃えていた。オランダ軍のキニーネ(マラリアの特効薬)の瓶がいっぱい棄ててあり急いで出て行った後だった。
 積み荷の警備、現地人を使って有刺鉄線を外して廻る。

バンドンのオランダの兵器製造所へ、そこを兵器廠にする

 兵器廠とは言っても第2補充兵、兵器の修理には当たらない。弾の警備などを行った。以前は民間人を使っていた仕事。一方で周辺の兵器が壊れると入ってくるので、それを見ていれば戦況は比較的早く分かった。
 半月でマレー語が話せるようになり生活が楽になった。現地人を引っ張って一つ一つ聞いて教えて貰った。他の兵隊は日本語を通せば良い、向こうが覚えろという考え方。「スパイの気があるんじゃないか」と言われた。教えて貰おうと思ったら喧嘩する余地なんかない。けれども部落に入ってしちゃならない事をして殺された兵隊も多くいた。一方後にジャピンド(ジャワ独立戦争に残った人)となった人たちもいた。
 マラリアは3~4回発症し、戦後も15~20年繰り返した。マラリアでおかしくなり、「敵襲だ、敵襲だ」と鉄砲を持って夜中に飛び回る兵隊がいておっかなかった。
 当番兵になってこき使われたため肺結核もやった。
 慰安所は軍が作らなくても現地にふんだんにあった。軍は提携して避妊具を配っていた。

兵補隊に

 兵補として、オランダ人が使っていた兵補をそのまま使った。主にアンボン人で、オランダが支配するようになった時イスラム教からキリスト教へ改宗していた。現地の一般の人は貧しくヤシの家にしか住めない、木の家はだめなのに、兵補は給料を貰っているから立派な生活をしていた。国内では敵視されていた。

暁部隊に  終戦近くに東ティモールに派遣

 捕虜にした兵補を連れてマングローブの林を切りダイハツの基地を作りに行った。
 現地民は山の中に隠れ人がいない。魚が幾らでもいるので食事には困らなかった。
 20何人の日本兵で150人のアンボン人を連れて行っているので暴動を起こされればいちころ。兵補が米を盗むトラブルがあり一発触発だったが何とか収まった。

敗戦と復員

 スンバワ島に収容、捕虜になってから敗戦を知った。
 通訳が出来たので作業が楽で、一人だけ太って帰った。
 約8ヶ月後リバティー船で復員、帰りの船で腸を悪くして亡くなる人が結構いた、遺体に板を付けて海に落としながら行く。
 上陸した名古屋の焼け野原にびっくりする。

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