インタビュー記録
1942年9月 佐世保海兵団に入団
1944(昭和19)年12月28日 満州国陸軍軍官学校入学(第7期生)
○旧制大洲中学4年生の時、陸軍士官学校を受験 筆記試験合格後口頭試問・身体測定などがあり、第1次の採用発表がありここでは採用されなかった。その後軍官学校の受験をしないか問い合わせがあり再試験があって入学が決まった。 当時勤労奉仕で住友鉱山の分析所の研究室に行っていたが、男性の研究員が召集されていないため、まったく知識もないのに研究課題(ビルマスパイスという鉱石からコバルトとニッケルを効率よく分離する方法)が与えられ困っていたので、満州に渡るほうが良いと思った。 陸士61期と同等という意識もあった。 第7期生は日本人は371名、朝鮮人4名、中国人600名。 満州軍官学校は満州・新京で予科2年の教育後、本科2年は内地の陸軍士官学校で行われた。 日本人と中国人は連(中隊にあたる)が分けられお互いの接触はほとんど無かった。 内地で本科が行われるのは原則日本人のみ。 朝鮮人・中国人で本科を内地に行くのは特に成績優秀な者だけだった。 教科・教科書は日本の予備士官学校・士官学校と同じものが使われ教官も全員日本人。入学する中国人は皆日本語が堪能だった。中国語の授業はあったが、特に満州軍としての内容は無かった。 情報は学内には全く入らず新聞も見ることはなかった。沖縄戦のことも知らなかった。
1945(昭和20)年8月15日 敗戦 軍官学校の解散が告げられた
最初日本軍の飛行機がどんどん頭上を南下していく。町中に青天旭日旗が出され敗戦らしいとなった。
日本人生徒で満州に家や行く場所がある者はそこへ向かったが、たいていは行く場所がないので残留し関東軍と行動を共にしようとなった。
中国人生徒はすぐにいなくなった。もともと反感が強かったと思う。そのまま国民党軍の将校として迎えられた者が多かった、僅かだが共産党軍の将校となる者もいた。
朝鮮人生徒も国民党軍や韓国軍の将校に迎えられた。
新京の防衛隊の任務となる
学校の中隊長が、満州中央銀行へ銃を持った生徒達を連れて乗り込み、金を渡すよう求めたらしい。銀行は断ったが銃を持っていたので、どれぐらい脅したかはしらないがこれに応じる。翌日ソ連軍が侵攻し銀行のお金をおさえたため、このことはチャラになった。
このお金は生徒一人一人に配布され私も分配を受ける。日本紙幣と中国紙幣と半々で生涯見たこともないような大金だった。
敗戦にも関わらず日本紙幣が一番市場価値を維持しており、次いで中国紙幣、ソ連の軍票は嫌われていた。
このお金で軍を離れ豆腐を買い付け、邦人の子供たちに売らせて商売をした者もいる。
弾薬倉庫を警備していたところ満州軍の反乱軍に取り囲まれるが、倉庫を放棄してよいという命令が出たこと、反乱軍にも知り合いが多かった事が幸いし、無血で建国大学の寮に移ることになる。
1945(昭和20)年10月末ごろまで 自炊を続けながらソ連軍の使役にあたる
ソ連はあらゆるものを持って帰ろうとしており、それらの貨車への積み込みにあたる。
トラックでの移動時、食料や衣糧を荷台から道端の在留邦人に投げ渡す事が出来た。
1945(昭和20)年10月初め
体の丈夫な者を中心に230名が先発組としてシベリアに出発。
この組はブカチャーチャに抑留され石炭採掘に従事、57名が死亡した。
1945(昭和20)年10月末
私たち86名も出発、ナホトカから帰国すると思っていた。(堀本さん注:上級生3個学年は、日本の陸軍士官学校本科に在学中だったので、シベリア抑留は我々の期だけでした。)ハルピンあたりで沢山の列車が停滞し進まなくなるが、先の満州銀行のお金で売りに来るものを自由にものが買えたので贅沢ができた。
1945(昭和20)年12月 ブラゴエチェンスクに
荷物の一部をおろし、凍ったアムール河の上を倉庫に運ぶ使役があった。地元の子供たちがどんどん物品を盗みに来るが、凍った川の上を自由に動けず盗られ放題。 ツンドラ地帯を走るが西に向かっている事には気づかず、バイカル湖を日本海だと思った。
1945(昭和20)年12月末 イルクーツク地区のオルハ村(北緯55度)に抑留
森林伐採、鉄道の敷設に従事する 8月末には薄氷が張り、9月初めから雪が降る。零下35℃の日々が続く。 鉄道は24時間3交代で100キロほどを敷設した。これが今はシベリア鉄道の本線として使われている。枕木を先に敷くのではなく、まずレールを並べジャッキで持ち上げて土を周囲から下に盛り込んでいく。凍土なのですぐ固まり、この方法で敷設出来た。 食事は一日黒パン1切れと雑穀の粥、スープは均等になるよう具と汁を分けて分配した。顔はむくみ脚は細くなる。シラミと南京虫がはびこる。 人参に似たものがあり食べると元気になる、しかしたくさん食べるとわけのわからない事を言い出した。キノコはどれが毒かなど考えず色のついたものも全部食べたが何ともなかった。ジャガイモやキャベツの収穫の時期にはコルホーズでの作業があったので、ジャガイモの種芋を食べた。 電気は日本人の技術者によりしばらくすると引かれた。 水は小川のものがそのまま飲めた(人がいないところなので水もきれい)。 こちらの86名で死んだのは1名のみ。
1947(昭和22)年1月 凍傷に
引き上げのグループに選ばれ移動したところで左足の親指先端が凍傷になり入院。指は水ぶくれを起こして赤黒くなる。入院しても治療はいっさいなくすることもなく放置。 2か月して初めてソ連軍の軍医が来たが、同室の患者の膝の手術をその場で始めた。麻酔もなく血が飛び散り、のみと金槌を使っている。仰天して卒倒しそうになったので退散。 このままでは治療もなく、帰国グループからも置いて行かれると焦る。自分で膿を取っては治った治ったと毎日申請し、間に合ってもとに戻ることができた。
1947(昭和22)年3月 ナホトカへ
ここまでは共産党教育はほとんどなかったが、ナホトカでは共産党の教育があり、それによって第1収容所から第3収容所へと順に移動した。 5月1日はメーデーの行進に出かけさせられた。
1947(昭和22)年5月 復員
左足の凍傷の化膿は9月頃まで続いた。軍官学校は特別な集団だったため今でも結びつきが強い。中国人生徒も今でも付き合いのある人たちもいて(彼らは文化大革命のときは大変だったが)、そういう意味ではシベリア抑留も含め良い経験だったと思っている。 後悔はしていない。