インタビュー記録
1943(昭和18)年2月11日 現役入営
漢口第1陸軍病院配属 軍直轄の衛生兵に
戦前に医者であった叔父さんの手伝いをしていた。外科以外は全て経験があった。
配属後、上官に「希望の科はあるか」に「外科がしたいです」と言った。他の科は経験があるので、やったことのない外科をしてみたかった。希望が通ったが、手先が不器用なのでちょっと心配をした。
1943(昭和18)年9月 教育終了
事務の仕事、病院の電話交換手をしたり、病院のラッパ手も勤めた。何でもやらされた。
1943(昭和18)年末、
応山の第三師団の野戦病院が移動したことに伴い、漢口第一陸軍病院から20名ほど補填にいく。堀さんも補填要員として応山へ。
1944(昭和19)年初頭
予備役の衛生兵下士官候補生教育
武昌の陸軍学校で教育
教育後、漢口第一陸軍病院に戻り、死亡係を拝命
「死亡係」は死体の処理をして遺骨を司令部に納めるかかり
1945(昭和20)年8月15日 敗戦
同年8月20日 武装解除 中国軍管轄で病院業務継続。
敗戦で、それまで死体を焼いていた火葬場が「活動停止」になる。火葬場は軍の管轄で、敗戦と同時に利用ができなくなった。上官に掛け合い、上同士で役所仕事に抗議をするが、なかなかラチがあかない。数日が過ぎ、その間も死体は放置され、新しい死体も入って来る。だんだん放置された死体は、顔が変形し、見られたものではなく、内臓腐敗が進んで、その水液が死体部屋の床に溜まります。ゴム長をはいて部屋に入ると「ザブザブ」と音がする始末。匂いも大変なので、ガーゼにメンタ油を1、2滴落としてマスクとした。
どうしても、火葬場が空かないので腐った死体を運び出し、自作の小さな火葬場(レンガで造った)で焼こうと試みる。死体全てを焼くことはできないので、大きなメスで手を切って、手だけを焼いて遺骨をとりだし、司令部に納めた。手以外の部分は、病院の裏の薬草園に埋めた。日が経つと、薪もなくなり、最後には指を切って遺骨を作ることにした。