インタビュー記録

召集

 私は昭和18年の11月28日に召集令状赤紙がきたのです。徴兵検査の時は第3乙種合格といって、すぐには兵隊に行かなくって、後から招集される身分で、甲種合格というのが同級生にいて、体格のいいのは12月10日に入ることに決まっていた。私たちは後から赤紙がきたら行くからということで、甲種合格の同級生同級生20人ばかりの送別会を私が幹事になってしたんです。
 11月28日に赤紙を持ってきた同級生がいる。同級生はアラコウジといって役場の兵事係に勤めていた。私のうちと役場が5、6軒先なもんだったから、恐る恐るアラコウジという兵事係の役場の職員が「カッチャンあんたのところに赤紙がきてしまったんだ。俺こないだ送別会をしてもらったけどあんたが先に行くようになった」といって、なんか悪いような格好をして、肩をすくめて玄関に立っているんですよ。
 「しょうがないんじゃないか。あんたがよこした分けじゃないんだから」と私は言った。 私は11月18日に入って12月1日に仙台の4連隊、22部隊と言ったんですが、に入隊したんです。そこに12日間、南方に行くのかどうか分からないけど、どこか外地に行くために身体検査とか予防注射ですね、なんか12日間22部隊に逗留していたのです。

 いよいよもって出発の日が来た。どこへ行くのか分からないままに列車に乗せられた。朝午前2時に非常起こしをされて、営庭に並ばされて、シャダタイという警官に敬礼をして、仙台駅まで20分ぐらい歩いて行きました。どこから情報が漏れたんだか知らないけれど、仙台駅にはわんさと見送りの人がいるんです。だけど憲兵がいて絶対に兵隊と親を会わせないんです。私の親も来ていたんですが会えなくてね、ホームに入れられたんだけど、憲兵が立ちふさがって家族と会わせない。4時20分仙台駅ホーム発車。そのときの列車は絶対に外から見えないように鎧戸を下ろしていた。
 列車が走って30分ほどすると私の最寄りの駅に着くので、デッキに出て、自分の見慣れた駅とちょっと離れたところにある鎮守の森を見たときに、もう2度とこの駅と鎮守の森に会えないかと思うと無性に涙が出て止まらなかった。
 どんどん列車が走って朝方ちょっと明るくなって、デッキの窓から見たら日暮里駅なんです。日暮里から山手線に入って、渋谷を通過する。渋谷の駅の近くに来たら最敬礼させられた。宮城遙拝と明治神宮の遙拝といってね。それから品川に出て東海道線で名古屋の駅でかな、国防婦人会のお茶の接待を受けて、着いたところが下関。下関に降ろされました。下関に着いたら民間の宿屋です。今でも忘れない。和田旅館という所。民間の宿屋に分宿したんですが、変な話ですね、雨戸を閉めて、1週間閉じこめられた。電気をつけて真っ暗な部屋に置かれた。何だって聞いたら、スパイ予防だというんです。駅まで行くのに兵隊がぞろぞろ行って、着いたとたんにスパイ予防だと言って、窓を閉めて、1週間。1週間たったら今度門司港から乗船。どこへ行くか分からない。夏服が渡されたので、南方かと思った。

上海へ

 護送船、十何隻かの輸送船団に乗って門司を出発した。10日ぐらい経って、海に赤い水が見えたんです。そうしたら古参兵がああ、上海だ、上海近くだと言うんで、中国大陸に行くんだということがそこで分かりました。船の中がひどいんです。馬と一緒。船底に入れられて、馬糞の臭いで、臭くて眠れないんです。
 上海から入って、船で遡って、南京に上陸させられた。それがもう1月でした。寒いんです。夏服でしょ、外套もないから。そして入った兵站が風通しのいい、窓にガラスも何にもない。ただムシロでおおっただけ。寒くて眠れないんです。ご飯も少ないし、腹が減って眠れない。そこに1週間ぐらいいて、それから1日だけ汽車に乗せられて、そこからは歩き。行軍でしたね。歩いて、民宿する。中国の民家に。そうすると内地から行った初年兵だから、中国の臭いが変な臭いなんです。土間に藁をひいて寝るんです。そうするとアヒルから豚から鶏犬からみんな入ってくるんです。そういう生活をしてやっと応城(おうじょう)という大きな町に入った。中国で初めて、にぎやかな町に入った。饅頭を蒸かしたり、いろんなものを売っている。こっちはお腹がすいている。お金を持っていないから目の毒で、逃げて帰ってまた行軍。10日ぐらい歩いてやっと目的のケイモンという第1野戦病院に到着。3月になっていた。

野戦病院部隊

 ここから初年兵物語に入るんですが。着いたところが中支派遣軍第13師団第1野戦病院( 鏡第6815)部隊というところに入った。荊門(けいもん)という所は小高い山の上にあって、小川を流れていて、環境のよい野戦病院だったんですが、入ったときは、古参兵は内地の状況を聞きたくて、私たちを取り囲んで話を聞こうとする。
 2日目から訓練に入るといったら、手のひらを返したように私たちをしごくんですよね、1分1秒のスキもなく体を動かして。衛生兵でも本科教育というのがあるんです。各班に分かれて、鉄砲を持って、おいっちに、おいっちって1ヶ月訓練させられた。そのときのきついこと。私たち補充兵というのは大きな声では言えないけど、身体障害者なんです。86名召集されて、半分以上が身体障害者。そんな兵隊まで必要だった。指のないのから、義眼から、耳が聞こえない、肋骨が3本ない兵隊がざらにいて、もう身体障害者部隊で、病院に着隊するまでに5人死んだ。船の中で2人死に、行軍中に3人死んだ。体の弱い、足の悪い、松葉杖でもつかないと歩けない者まで、兵隊にして引っ張っていったんですから。私は86名の中で上等なほうなんです。私は背が低くて、体重が49キロしかなかった。それでも上等なほうだったんです。

湘桂(しょうけい)作戦

 4月20日、湘桂(しょうけい)作戦、別名南支1号作戦という作戦にかり出された。極秘のうち、夜中に非常呼集で起こされて、にわかにいろんな装備をまとめて、出発した。どんどんどんどん毎日毎日歩いて、4月10日に第1集結所、新溝(しんこう)という所で行軍が終わった。そこで作戦に出る各師団の部隊編成をし、戦闘に入る準備を20日間かけてやった。その間私たちは衛生兵の教育を受けた。しかしみんな浮き足だって、教える方も、教わる方も身が入らないんです。
 5月20日、いよいよ作戦に出発。漢口に出た。漢口の前に揚子江が流れているんです。その向こうが武昌といって。河を渡って向こう側に行くんですが、船が来ないため、3日間露営ですよ。
 私はそのときおかしいと思ったですね。同じ日本の軍隊なのに、漢口に駐留している兵隊は、ピカピカの靴を履いて、真新しい服を着て、公用マークついた腕章をして歩いている。私たちは、ぼろぼろの服を着て泥だらけで、窓に映すと乞食同然。 やっと船の都合がついて漢口から武昌に渡った。そこから歩き始めて戦争に入った。3日ぐらい歩いたら、砲声が聞こえてきた。遠くから、バーン、バーンと。いよいよ戦地に来たんだなあ。俺いつ死ぬのかなあと思ったとき、臆病風が吹いちゃって、怖くて、縮み上がりました。弾がいつ飛んでくるのか。いつ死ぬのかと思って。

 1週間ぐらい歩いたら、険しい山道に入った。すごい高い山で、5月6月頃ですから、暑いんです。水はないし、馬には水を飲ませなければならないし、私たちの水筒には水はないし、もう夢遊病者のようになって歩いていたら、無意識のうちに、「お袋、水くれ」と言葉を発した。そうしたら夢か現か分からないけど、耳の底に「前方に水あり」という声が聞こえたんです。10分ぐらい歩いたら、泉が湧いているところに出て、兵隊が群がって水を飲んでいた。道路とか岩に氷水とかアイスクリームとか書いてあるのが見えた。兵隊が水飲んでからみんな書いていく。水の有り難さ。
 馬に水をまず飲ませなければならない。病院にも荷物を運ぶために、行李班といって、輜重隊が配属になっていた。病院の荷物、機材を運ぶために、百名ぐらいの輜重隊がいて、馬が百頭ぐらいいました。水がないと馬が倒れる。馬が倒れると荷物が運べなくなるから、人間よりもまず馬に水をやらなければならない。昔の軍隊は、おまえたちは、1銭5厘だけど、馬は3百円だからなと言われて、私たちの方が、馬より安いんですから。そういうのがわが国の軍隊だった。おまえたちは1銭5厘。1銭5厘というのは、葉書のことですよね。1銭5厘でおまえたちは、挙げられるけど、馬は3百円だから大事なんだ。馬は殺しちゃだめだ。人間は死んでもかまわないんだと言わんばかり。消耗品だからね。
 1週間ばかり難行軍してやっと着いたところが、官渡市(かんとし)。
 朝着いて、食事の準備だとか洗濯だとか、みんな気を許していたら飛行機が来た。B51という戦闘爆撃機。私はそのとき班長の古参兵のゲートルと靴ともって、クリークにね、水のあるところに行ってのんびりと洗濯していた。監視兵が飛行機と怒鳴るのを聞いたら、すぐそこに、飛行機が私の所にワーッと向かってくるのね、ワーと思って土手の所にぴたっとくっついた。しばらくたったら、バーンと爆弾落としたんだね。ふと見たら私の体は何でもない。飛行機がワーッと来たときはもうだめだと思ったんだけど。爆弾を落としたのは3キロぐらい離れたところで、兵隊が渡河するための橋を架けていた。そこで飯盒炊さんをしたらしい。その煙を見つけて、飛行機が爆弾を落とした。15分ぐらいしたら私らの病院に負傷兵がバンバン入ってきた。砲兵隊が爆弾でやられて、病院はてんてこ舞い。足のないのから、腹から腸が飛び出しているのから。戦闘に入って初めての病院を開設して、大変な患者、百名ぐらいいたかな。そこに1週間ぐらいいましたかね。そうしたらまた別な前線に出発です。6月の雨期で、今度は雨が降って、道路は泥沼で、ぬかるんで膝まで濡れながら行軍した。

 糧秣が後方から来ない。糧秣、つまり食べ物が無い。そうすると徴発。徴発というのは、平時の時はこう教えられていた。現地の人から品物を提供してもらって代金を払うのが徴発。しかし戦闘になると、金を払う人がいない。もうみんな逃げてしまうから。だから徴発というのは、“かっぱらい”です。かっぱらいを徴発と言って、家捜しして、“土民”から物を奪って、食べつないだのが中国戦線の現実です。
 その他に苦力(クリー)といって、中国の人民を拉致してきて、荷物を担がせていく。苦力の話をしたら、今の中国の人たちが怒るのは当たり前。今の若い人のおじいさんがそういう風にやられたということを誰かに教えられているから、ああいう風に怒るんですよ。ほんとに、北朝鮮の拉致とは、拉致の拉致が違う。ただ引っ張ってきて、荒縄を肩にゆわいつけて、その端を兵隊がつかんで、前とか後ろの米とか塩とか兵隊の糧秣を担がせる。それがクリーといって「苦しい力」と書く。日本の中支派遣軍、日本の軍隊は中国戦線で、住民には本当に迷惑をかけました。丈夫なのはどこまでも連れて歩く。百キロも2百キロも。だめなのはそこに捨てるんだから。本当に残酷ですよ。物を食わせないんだから。兵隊は自分たちの食う物も無いんだから、食わさないで、使い捨て。食わさないで弱ったら捨てる。そういう戦争でしたね。

衡陽(こうよう)作戦

 それから衡陽(こうよう)作戦というのがあった。敵の牙城。これがなかなか陥落しなかったらしい。3個師団位で包囲してやっていたが、なかなか落ちないので、私たちの13師団というのは、遠く百キロも離れたところを歩いていたんだけど。横山中将が私たちの軍司令官。その軍命令で、百キロぐらい先に行っていたのを逆戻りさせられて、衡陽作戦に参加させられた。衡陽作戦は7月でしたから、もう暑くって。4個師団で囲んでやるんだけど、2ヶ月ぐらい陥落しなかった。負傷者がいっぱい出て、頑強な敵だった。私たちの病院は、激戦地から3キロぐらい離れた後方で、患者を受け取っていた。患者がどんどん入ってきても、糧秣がない。食べさせるものがない。そうすると青田刈りといって田んぼに行って、稲を刈って、即製の米を作って患者に食わせるんです。
 夜、火を燃すと明かりがでる。大きな部屋にシナの鍋をそろえて、家を壊した煉瓦で、中国の家は土煉瓦でできているから、銃で突いて壊して竈を作って飯を炊くんです。ところが飛行機がくるから煙を出しちゃあだめ、煙を出さない飯炊きをしろというんです。燃料は中国の家具。戸棚とか机とか、椅子とか。それを燃すんです。中国で兵隊が、飯盒炊さん、炊事をするときは、燃料はそこの住民の家具をみな燃すんです。家具は1番乾燥している。ひどいことをしました。日本の家具と違って、向こうは漆塗りとか油があるからものすごくよく燃える。
 衡陽作戦の時、鍋に米を研いで入れる。123で火を付けるんですが、5分間だけ燃して、水をかけてすぐ消さなくてはいけない。それが命令なんです。煙を出すと、飛行機に見つけられて爆撃されるから。そのまま蓋をして、米を炊いている兵隊は、2キロぐらい先の安全なところに逃げる。そのまま蒸らして3時間ぐらい経ってからそれを取りに行って、患者に食わせる。その時はプーンと臭いがする。食えたもんではない。だけど食うしかない。だけど量は、飯盒の蓋に半分。おかずは塩。1合の塩を1斗缶に溶かして、いくらかしょっぱいかなという程度。それがおかず。だからみんな栄養失調で入院してきた兵隊に、お粥といったって、太平洋汁と言ったんだけど、米がまあ糊だね。米の糊のようなものしか支給できなかった。
 我々の軍隊生活の中での野戦病院というのは、病人を治療し治すところではない。死ぬのを待つための受け取りの場所だった。野戦病院なんて言うけど病院じゃないです。薬はない、包帯はない、ないないづくしだから何にもできない。軍医はただポヤーンとしているだけ。衛生兵だけが忙しい。ご飯を炊いて食わせたり。薬は栄養失調には粉糠。糠味噌に使う糠を包んで渡すんです。ビタミン不足を補う。ちょっと余裕があるときには、水に溶かしてかき回して澄んだ上澄みを水薬といって、飯盒の蓋で飲ませるのが薬です。米糠は大変な貴重品だった。そういう状態で患者は生きられない。病院に入院したと言ったってそのような状態で、食べ物がないんだから生きられるわけがない。

 どんどん行軍して桂林というところに行ったときには、桂林というのは大都会で、米軍の飛行基地だったんです。上海なんかを爆撃したときには、皆桂林から飛行機が飛んだらしい。そこを占領するために十日間ぐらい桂林攻撃をして、やっと陥落させた。桂林に行ったら、中国の民族が違うんです。あの辺に行くと広西省(かんせいしょう)と言って苗族(みゃおぞく)と言って「なえ」と書くんです。ものすごく気性の荒い民族だったですね。岩山に立てこもっていて、隙があったらすぐに降りてきて、兵隊なんか殺されるんです。豚や何かを洞穴にどうやって上げたもんだか。山のてっぺんに居るんです。まあ、3家族か4家族か居るんですね。しかしそこに登れないんです。上から何か落とされるから。指を咥えて眺めているだけで。物が欲しいからたまに行くんだけれど、やられるんです。桂林というのはそういうひどいところでした。
 桂林から今度は広西省に入った。柳城(りゅうじょう)、柳州(りゅうしゅう)進んで、そこまでいったら病院を開設して長く逗留するようになった。半年ぐらいでしたかね。

敗戦

 そのうちに反転命令と言って、なんか知らんけど、元来た道を帰るんだっていうんですよ。浮き足だって今来た道を帰る。そうしたら今度は、中国の兵隊さんはかさにかかって追いかけてくるんです。
 援蒋ルートと言って、ビルマから南昌を通って物資を送るのを防ぐための作戦だったんですね。湘桂作戦というのは。それをやろうと思ったんだけど、南方の方、沖縄なんかが危なくなったもので。無理な参謀の考えですね。そんなに遠くまで行ったのに、今度は戻して、船に乗せて南方にやるという作戦だったらしい。それで戻ってきて、来陽(らいよう)というところです。丁度20年の8月15日敗戦でしょ。私たちは18日でしたね、部隊長から敗戦の詔書を聞いたのは。無線というのは、司令部から入らなくなったんじゃないか。状況悪くなって。
 喜んでいるものもあれば、泣いて叫ぶものもいるし、いろいろの兵隊がいたけど、私は喜んで、これで明日から昼間行軍できて、内地に帰れるかと思うとうれしかった。昼間歩くとアメリカ軍にやられるから、夜の行軍だけです、夜行軍専門だったから。
 その時は苦力(クリー)としてまだ向こうの住民を使っていた。だから大きな町の近くになったら苦力を返せということになった。敗戦したという状況を住民が分かっているから。返せといってもどこから連れてきたか分からない苦力を。帰れと言ったって、物は持っていないし、米は持っていないし、道は分からないし、どこをどう歩いたんだか。本当に残酷物語だった。1人通訳兼の少年の苦力が長沙という町の近くに来たら、もうお前たちを連れて入れないから、こちらは敗戦国なんだから、帰れと言った。そうしたらその苦力が泣くんです。「今ここで帰れと言ったって、俺は道は分からないし、このまま帰れと言ったって、お前は日本軍に協力したと言って、なぶり殺されるから、シーさん(日本の兵隊をこう呼ぶ)何とか連れて帰ってくれ」と懇願するんだけど、負けた国が勝った国の少年を連れて帰るわけに行かないでしょ。あのときは可哀想だった。さんざん日本軍に協力して、最後に帰れって。あのとき米なんぼか、背負わせて帰れといっても、帰らないんです。帰る道も分からないし、米を持っていると日本軍に協力したと言って、同胞に殺されるから帰らないといって抱きつくんです。そんなこと言ったって、負けたんだから。

復員

 武装解除されて、揚子江の沿岸の、湖口というところに集結して、復員船を待つことになった。そこで私たちは捕虜となり、捕虜生活なんだけど。その時中国軍のヨウキシという中将の管轄下に入って若干の薬品とキュウシンと自衛用の小銃を15丁与えられて、2、3日滞在した。船の着く1キロメートルぐらい先の所に移されて、捕虜生活が始まった。捕虜といってもソヴィエトの捕虜とは違い、囲いの中に閉じこめられたわけではない。腹が減ってしょうがないから兵隊は皆農民の家に働きに出ました。なにがしかの野菜と米をもらって。でもね、蒋介石は捕虜に1合の米を与えた。あそこにへばりついたのが、中支派遣軍百万といったから、百万人に対して、1人1合の米を蒋介石はくれたんです。以徳報恨(いとくほうこん)「徳を以て恨みに報いる」という言葉が中国にはあるんですね。
 21年5月に復員命令が出た。5月15日に九江(きゅうこう)という病院を閉鎖して部落の人たちの見送りを受けて。私たちは衛生兵だから、ちょっとここの皮膚病なんていうと、保革油といって靴を磨く油を塗ってやったり。これがまた効くんだよね、なんかね、ハハハ・・・。胃が悪いというと正露丸を1粒飲むとぴたっと治るんだよね、奇妙にね。そんなことでうんと評判がよくてね、病院なもんだから。歓待されてね、米とかいろいろもらって生き延びて。
 25日に中国の船に乗せられて南京に行って、兵站に入って、それから今度汽車に乗せられて上海に行くまでに、今度はいじめられたね。向こうの将校とか機関士さんが途中で汽車を止めちゃうんです。何で止まったんだというと、機関士は日本人の将校が持っている腕時計とか万年筆とかを持ってこなければ汽車出さないと言ってね。こっちはもう取り上げられてなんにもない。将校がまだ隠して持っていたのを分かっていたんだね。兵隊と列車の機関士が組んで将校から巻き上げたんですよ。すっかり立場が変わっていじめられましたよ。
 上海の岸壁の倉庫に3日ばかり止められて、広場で私物検査といって、背嚢から何から全部出して、検査を受けてやっと乗船したのが6月の16日。玄界灘を船で渡って島影が見えたときは、ああ、生きて帰ったんだなあという・・・。万歳する者、喜んではしゃぐ者、三浦半島の浦賀に上陸したんです。アメリカの星条旗がはためいて、進駐軍の兵隊を見たとき、何か変な気持ちだったですね。上がったとたんにDDTを頭からわぁっーとかけられて。
 そこに3日間ぐらいいましたかね。なにがしかの乗車券と小遣いをもらって浦賀の駅から列車に乗って東京駅から秋葉原、御徒町あたりまで、ずっと高架ですよね。そこから見たところ何にもない焼け野原。秋葉原から神田明神の赤い神社が見えたとき、なつかしくてね、ああ、あそこが神田明神かなあ。あと下は全部焼け野原。ああ、これは戦地も苦労したけど内地も大変だったんだなあと思ってね。
 どんどん汽車が進んで常磐線に入って水戸をすぎると海岸線を通るでしょ、ザブン、ザブンと白い波を波打ち際に見たとき、ああ平和っていいなあと思ったですよ。私岩沼って所なんですけど、仙台から20キロ位離れたところの駅に降りたとき、私たった1人っきりぼろぼろの姿で、持っている物は蚤と虱のついた毛布以外なんにも持っていない姿で、家に突然入っていったんですよ。そしたら兄弟たちがいてびっくりして「帰ってきたのか!」。庭にゴザ敷いて、上げられないんですよ。もう乞食・・・。どういう風に映ったのかね、乞食同然なんじゃないですか。ぼろぼろの姿でね。庭にござを敷いて、そこで全部脱がされて、「お風呂沸かしたから入れ」と言われて、風呂に入れられて、やっとさっぱりした服に着替えて私の青春時代が終わった。おおざっぱな話ですが、これでおしまいです。(註:復員1946年6月27日)



野戦病院について

 野戦病院というのは名前だけで、病院のかたちをしていない。ただ患者が出たから受け取るところです。患者は担架に乗せられてきても、担ぐ兵隊と中国人の苦力が担ぐんだけど、担架の棒が肩に刺さるんです。ぐたっとなっている患者は重いから。夏なんかは患者を素っ裸にするんです。担ぐ方がきついから。病院に来るときは素っ裸。何にもまとっていないんだから。ただ死ぬのを待っているだけですよ。残酷物語そのものですよ。野戦病院というのは名ばかりで、傷ついたり、弱ったりした兵隊を一時預かるだけですよ。
 コレラの話をすると、コレラはものすごく伝染力の強い病気が中国で流行った。コレラ菌が体内にはいると、脂肪と水分が皆くだるんです。3日ぐらい経つと、プクッとした顔がシワシワの顔になるんです。そして水がたまらなく欲しい。上海とか漢口あたりの大きい病院ならリンゲル液を補給するんだけど、戦地で自分の水もないのに・・・。コレラに感染した病人が来ると部隊長命令で、お前たち衛生兵、将校以下全員患者にさわるなという命令を出すんです。だから病院じゃないでしょ。治すんじゃない。触ったらお前らうつるからって。
 もっと残酷な事があった。コレラに感染した病兵が百人ぐらい集まってくるとどうにもしようもないんです。患者は頭=脳はしっかりしている。「衛生兵殿、水くれぇー、水くれぇー」と閉じこめられた格子から手を出すんです。自分がうつるから触ったらだめだって、部隊長命令で。水を与えちゃだめだって。水を与えて治すのが衛生兵。触ったらお前たちにうつって部隊が全滅するからさわるなという命令です。個人ではないですよ。そうするうちに師団司令部からどこそこの野戦病院は前進という命令がくると、コレラ患者をどうするかというと、1つの部屋に入れておいて、10人ぐらいの兵隊が残って、周りに藁と薪をおいて、その家を燃して、生きたまま火葬にする。そんなこと家族の人には聞かせられないですよ。戦争というのは、そういうものですよ。ほんとに残酷物語。
 上海とか南京とか看護婦のいる病院は病院です。だけど作戦中の野戦病院は、病院じゃない。手術道具を持っていても、手術するといっても、飛行機が飛んでくるから、天幕張ってなんてとんでもない。それに手術といっても、1人や2人ではない、何十人と出るんだから。私が2年間いるうちに、患者の治療をした外科の医者は見たことがない。医者も時間はないし、器具はないし、火は燃せないから消毒ができない。ナイナイづくしだから、傷ついた患者を一時預かって、衛生隊という患者を運搬する隊に渡して、また前進というのが野戦病院だった。病院ではなく、負傷したり、死んだ兵隊を処理するところ。

野戦病院は狙われた

 野戦病院の部隊は、後方を歩くもんだから狙われるんです。土匪と当時は言っていたけども、住民の自警団にね。向こうは分かっているんです。後方からくるのは火器を少ししか持っていないと。向こうも物が欲しい。兵隊は持っているから。食糧の奪い合いになった。私らは後方だから正規軍との戦闘の経験はないです。後方部隊にはいろいろある。野戦病院以外に、病馬敞、防疫給水部といって、中国の生水は飲めないから水を濾過する役目です。後からついて行く後方部隊は苦労しました。前にいる歩兵部隊が荒らすものだから、後から行ったものは食い物がない。敵と戦う歩兵-本科というんだけど-、が食い荒らすから、後方部隊が行ったときには、何もない。本科の歩兵部隊は、命の交換をするから、略奪したものは豊富にあった。
 今、中国の人々が反日の暴動を起こすのはよく分かります。本当に悪いことをしたんだもの。戦争というのは、罪のない人を。兵隊同士の戦いばかりではない。苦力というのは可哀想だった。年寄りでも若い者でも何でも拉致して、担がせる。食い物はお粗末なもの。消耗品だから、使い捨てだから。弱って倒れたらそのままそこへ捨てるんだから。あれは罪悪だね。
 それから勝っていた頃は、中国人を馬鹿にしていたからね。人間扱いじゃなかった。動物だったわね。兵隊も同じだったけどね。我が国の軍隊は、中国人を人間扱いしなかった。同じ人間なのにね。とにかく命令だからね。私たちが可哀想だなんて言ってもだめなんです。命令といったら、何でもやらなくてはならないんです。
 今の戦争、遠隔操作でやるから、違うのかなあ。昔の戦争の話しても通用しないのかと思う。イラクでやっているのは、テロがあったり、住民との小競り合いから大きくなって、日本で原子爆弾を食らったみたいになるんでしょうけど。

行軍について

行軍というのは、内地の兵隊が広い道路を隊列を組んで歩くのも行軍だけど、戦争では隊列を組んで歩くなんて事はできない。中国では制空権を奪われていたから夜しか歩けない。おてんとうさんが出ると寝ろという、月が出ると歩けというんだから。
 私たちは下級兵だから部隊の命令通りにただついて歩くだけ。道路が道ではない。1間位の道に出ると「ああ、広い道路だ」と思った。夜だから中国の兵隊が死んでいたり、日本の兵隊、苦力も死んでいたりし、ブヨブヨ膨れあがり、死臭のするところを歩いた。ある時、死体につまずいて、バタンと倒れて、眼鏡を吹っ飛ばしてしまった。夜だから探しても分からない。私は近眼だから歩くのに本当に苦労して1晩中歩いた。やっと宿舎について背嚢から予備の眼鏡を取り出して、これが無くなったらどうなるのかと思った。辛かったですね、夜行軍は。
 鉄砲の先に白い布を付けたり、帽子の後ろに白いひらひらする布を下げて歩く。その布を見ながら後ろの兵隊は歩く。夜暗いから、白い布から離れて左に行ったり、右に行ったりすれば、敵の中に行くこともあるから。絶対に隊列から離れてはだめだと言われていた。道標といって紙切れを部隊と部隊の間に置いて歩くんです。紙を細かく切って道に置くんです。風があると飛ばされて無くなっていることがある。そうすると斥候兵というのが出で前の部隊と連絡を取らなければならなかった。どこまで行くんだか、何の目的で歩くんだか、分からないままに、ただ歩け歩け。後から戦友会で部隊の副官に聞いた。いくら歩いたのか。2千3百キロ歩いたと言われた。
 内地の演習の時の行軍などというのは、1時間で4キロ歩いて10分休んで、また4キロと言うんだけど、戦場では、敵情によっては、20キロぐらい休みなしに歩かされたこともある。鉄砲なんてのは、重くて放り投げたくなる。菊の御紋章があるから放り投げるわけにいかない。私らは下級兵。古参兵はずるいから、お前担げと言って、自分は軽くして、下級兵だけ鉄砲を預けられる。普段20キロぐらいを担いでいたんだけど、米が見つかるとさらに米を結いつけて歩かなければならない。米の1升、2升というのは重いんです。でも米がないと困るから、米が見つかったところで、兵隊に分けて担がせる。それ以外に自爆用に持たされた手榴弾を腰に付け、薬嚢(やくのう)といって鉄砲の弾を入れている。病院だからそんなに小銃は多くない。兵隊3百人に30丁位だったかな。班に分かれているから、各班に5、6丁。古参兵は持たないから、下級兵だけ持たされて。腰に付けた薬嚢という革の玉入のおかげで、腰のところが赤く擦りむけてくる。そうすると薬嚢を背嚢の上にのせて歩く。本当に私のような体でもって、よく歩いたなあと思います。

 作戦ですから、忙しく飯盒にご飯を炊いて、出発したかと思うと、半日もいかないうちに、大休止って命令がくるんです。なんだと思ったら、敵情が悪いから今日はここで宿営と言うんです。ある時は、急いで敵の陣地から離れなければいけないときは、10キロ20キロと休み無くがつがつと歩かされたこともある。状況によって違うんです。
 兵隊は部隊から離れたら死ぬんだからなと言われている。落伍したらおしまいだと言われているから、這ってでも部隊と一緒にいなくちゃ。部隊から離れて入院したり、よその部隊に行ったら、お前は死ぬんだぞと上官から言われていた。よその部隊に行ったらよそ者扱いだから物は食わせられないから、ただ日本の兵隊だから預かるけど殺されるから。絶対部隊から離れてはだめだと言われていたから、私はどんなときにも部隊から離れないように何とか部隊と一緒に行動しなくちゃと。
 寝ながら歩くというのを経験しました。歩いていて眠ってガーンと倒れるんです。また起きて歩く。また眠って倒れる。眠りながら歩くというのは常識では考えられないけど、軍隊ではあるんです。馬のシッポをつかんで歩いている兵隊もいました。もう疲れて目を開けていられない。自然に眠るんだね。そうすると気合いがかかって、ほっぺたぶん殴られて、目が覚めて、5分ぐらい経つとまた眠くなって、もうそれで駄目なものはそこで終わりになるんです。

徴発について

 徴発に行って部隊長が喜ぶのはものを一杯かっぱらってきた時、ああ、良くやったとほめるんだから。窃盗集団の親分にものを一杯かっぱらってくるとほめられる。何もないとお前の働きが悪いと怒られた。
 徴発なんていうけど、窃盗集団だからね。私ら初年兵だから面白くてね。部隊の古参兵から開放されるでしょ。自由奔放にものを探してかっぱらうんだから。そのうちある時初年兵5、6人だけで、あんまり面白くて、ニワトリとか、酒だとかいろんなものを探している間に、はっと気がついたら誰もいない。夢中になって歩いているうちに部隊と離れてしまったんだね。夜中に部落に入って明け方徴発、かっぱらいに出たんだから。それではぐれちゃったんだからどうしようもなくて。あのとき運が悪かったら死んでいたと思う。
 ものはいっぱいある。チャンチュウだとか支那酒とか。それを飲むやつがいる。私は空きっ腹に酒飲んだらふらふらして、駄目だから飲むなと言って、ビンタとって、酒を取り上げたら、私を頼って「本郷何とか部隊に帰れるようにしてくれ」と言うんです。何言ってるんだ。お前と俺同年兵じゃないか。しばらくするとガヤガヤと音がするんです。よく見たら日本の部隊なんです。夕方になっていました。そばに行ったら114連隊という第3中隊だったんだね。
 将校が上着を脱いでシャツ1枚になって、風呂か何かで行水か何かしたんでしょ。こっちは1つ星だから上着を脱いで、肩章を見せないで、鏡68野戦病院の徴発隊に出たんですが、本隊と離れて迷子になっているので、部隊がどこにいるか分からないですかと訊いた。俺たちも夜中にここに来たばかりだから分からないなあ。何か1キロ位先に部隊がいるらしいからそこに行ってみろ。もしそれが中国の兵隊だったら戻ってこい。俺の部隊に泊めてやるからと言われて、恐る恐るそこに近づいたら、何のことはない私らの部隊で、初年兵5人が行方不明になったから捜索隊を編成して、出発するところに出て行ったもんだから、ナマスになるぐらい殴られてね。命とられなかったからよかったけど。
 徴発に行くとニワトリとか豚だとかある時には一杯あるんです。ニワトリを生け捕りにする時は、長い竹の棒きれを持って、縁の下に逃げ込んだニワトリの足をさらって足を折るんです。そういうことを古参兵に教育されるんです。かっぱらいの方法をちゃんと伝授されるんです。壁のここんとこちょっと変だから突いてみろと言うと、中から砂糖や油が出てくるんです。住民が隠して逃げるんですよね。それを日本の兵隊が探し出すんです。後方から全然何も来ないんだから、そういう風にして生きるしかないんですよ。中国の人には大変な迷惑をかけたんですよ。
 これからの戦争は、行軍なんてことは無いでしょうからね。みな車でね。だけど中国では、車はあったんですよ。輜重隊に車、トラックは。だけど全部道路壊されるから通れないんです。苦力にたよるしかない。馬もあったけど、どうしても足を折ったりする。荷物を順調に運べないんです。
 山砲という兵隊が居た。山砲が中国では1番威力を発揮した。山砲というのは分解して、車輪と砲身と弾薬と馬に別々に積んで、着いたら組み立ててやるという。


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