インタビュー記録


1940(昭和15)年8月 現役 第7航空教育隊(公主嶺)

 徴兵検査は第一乙種だったので行かないですむかと思っていたが現役兵となった。
 入営前は呉服屋で働いていたので配達のため自動車の運転を覚えた。当時は小型免許は筆記試験がなく比較的簡単に取れた。そのため同時に合格したメンバーが殆ど高田の歩兵連隊に入営したのに自分は航空兵(自動車手)となった。
 初年兵教育は殴られどうしだったがそんなものだと思っていた。
 同年兵の中には一人、銃口を喉に当て足の指で銃をひいて自殺する者がいた。

1941(昭和16)年1月 第94飛行場大隊(牡丹江省東京城)に転属。

同年4月 中国・広東の天河飛行場へ。

※広井さんは戦闘隊の自動車手で、第94飛行場大隊は飛行第64戦隊(有名な加藤隼戦闘隊)と行動を共にしていた。

マレー作戦、シンガポール攻撃

 1941(昭和16)年11月3日 広東出発、仏領インドシナへ。サイゴンなど経て、11月30日フーコック島へ。
 これは今から思えば開戦の準備であった。
 開戦の記憶は定かではないが、開戦前、輸送船で運ばれるとき下りたら使うからと船内で軍票が配られ、「あれっ? 戦争をするのかな??」と不思議に思った。

 1942(昭和17)年1月2日 フーコック島出発、マレー半島へ。
 1月4日、シンゴラ港沖上陸。12日 スンガイパタニーなど。
 2月11日 ジョーホールバール飛行場着。

 シンゴラ港逆上陸の際は村人っこ一人おらず、それなのにまだ暖かい食事や鍋がそのままになっている様な村に入っていった。その後は飛行場の確保に追われた。
 しかし全体としては先陣とは言っても、飛行場大隊は戦闘隊がならした後をついて行く感じで、特に加藤戦隊の後をついていくことは危なげがなく安心感があった。

同年3月4日 第7飛行団司令部に転属。

 同年4月11日 タイ北部ランパン飛行場。
 4~5月  雲南昆明爆撃作戦。
 同年6月 マレー・スンガイパタニーなど。
 同年10月4日~1943(昭和18)年7月10日、ビルマ中部・トングー飛行場へ。印度カルカッタ爆撃作戦。
(マレー・スンガイパタニー、スマトラ島メダンなどを経て)1943(昭和18)年10月9日~12月7日 ビルマ・レグー飛行場へ。

印度方面爆撃作戦

 戦闘隊は爆撃機の擁護に当たった。昆明の爆撃は当時からかなり激しくやっていると聞いていたが、非常に徹底的な爆撃でそのためその地域の中国人の感情が悪い事を戦後に知った。

 広井さんの仕事は上級官の送迎、飛行場内の車の運転、燃料補給車の運転、プロペラ機のプロペラを廻すのに車で引いた。

 閣下(加藤中佐の事)は本当に飛行機が好きな人で、乗れるだけ長く飛行機に乗っていた。
 新しい機を試すときもすぐに上空にあがって燃料ぎりぎりまで飛んでいる。人物は穏やかでとにかく丸い感じの人、部下にもそう接した。もっとも加藤戦隊がこんなに有名になるとは当時思っていなかった。
 寺内寿一も乗せたことがある。将官を乗せるときは黄色い旗を、佐官を乗せるときは赤い旗を立てて走った。緊張したが気分も良かった。
 あちらこちらへ動く拠点になったスンガイパタニーは現地の破壊が殆どなく穏やかだった。兵舎にいつも遊びに来る女の子がいて友達になっていた。昭和50年代になってスンガイパタニーに行き、彼女に会いたくなって探し回り再会した。向こうも覚えていて喜んでくれた。


(マレー・スンガイパタニー、仏印サイゴン市などを経て)

1944(昭和19)年8月11日 北ボルネオ東海岸サンダカン飛行場。

 この頃は戦闘機は殆どなくなっていた。残っているものは乗って行って仕舞ったのか、気付いたら位の上の者や操縦士はいなくなっていた。

1945(昭和20)年2月 
  北ボルネオ西海岸アピーアピン市飛行場に徒歩で移動

 同年4~9月 キナバル山中を転々とする。
 飛行場そのものに攻撃があった訳ではないが、戦闘機がないのだから役割もなく、オーストラリア軍が来るかも分からないという事で山中に入った。
 山中では40人ほどの部隊のままで行動していたのでまだマシではあった。
 ジャングルを歩いていると1~2センチの山ビルがどんどん降り注いできて首筋から体中に入ってくる。マラリアや回帰熱は皆やった。食べられるものは、草、小動物、昆虫、何でも食べた。

同年9月下旬 敗戦のビラが撒かれる。10月 山中を下りる。

同年11月  アピーアピン飛行場収容場に。

 最初は敗戦を信じない者もいたが、中佐がメガホンで呼びかける事があって敗戦なんだという事にはなった。
 それでも山を下りるかどうかは揉めた。
 私は「時代の波というものはあるのだからそれに乗って生きれば良い」と考えたが、「敗戦で日本は無くなった、敵が支配する所に帰っても意味は無い」「負けて捕虜になってとても帰れるものではない」と考える人達も多かった。
 結局10~15人程もが帰らないという決断をして脱走をして仕舞った。
 あの戦友達はその後あの土地でどうしているのだろう、現地の人と一緒になってもしかしたら今でもあそこで生きているのではないかと何時も考える。
 収容所では使役に当たらされた。ここでも食事は十分ではなかったので、使役に行くときにトラック内の缶詰を落とし転がったところを覚えておいて夜中にふんどし一枚で監視をかいくぐって回収に行った。
 コンデンスミルクの缶詰はあんなに甘いものがあるのかと驚いた。コンビーフのおいしさにもビックリした。他の班はやせていくのに広井さんの班だけ太っていった。

1946(昭和21)年4月 復員

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