インタビュー記録
1942年9月 佐世保海兵団に入団
海兵団の教育の後、普通科看護兵としての教育を受ける。
1943年10月 松山海軍航空基地に開隊された航空隊へ(263海軍航空隊か)
1944年 ~6月
サイパン、テニアンに荷物を輸送、グアムで「ここに養子に入るから荷物を全部降ろせ」と言われた。 グアムで1~2ヶ月して敵の大艦隊がペリリューに来ているからと下がったが、その動きが米軍に察知され米軍も引き上げたので、大きな戦闘にはならなかった。 トラック島まで米艦隊を追ったもののそこで諦めグアムに帰還。 その後一時的にグアムを出たらグアムの戦闘が始まり戻れなくなった。 看護兵だったが、負傷者が出たときに備え輸送や飛行機の受領にも度々同乗した。この場合は看護兵も戦闘に参加できるよう後部か下の機銃を担当した。自分はあまり行かなかったが、負傷兵や遺体の回収に行く任務もあった。よく乗ったのは「天山」(艦上攻撃機)とか。乗ってはいけない事になっていたが戦闘機に同乗する事もあり、この場合は戦死しても公式記録には残せないから他で死んだ事になると言われていた。
飛行機を多量に失ったため改編をして台湾を経てフィリピンへ(201海軍航空隊に編入していると思われる)、
台湾沖航空戦(1944年10月12~16日)、小高い丘の上から見ていると、大本営発表で撃沈した事になっている米軍の艦艇が目の前を通って行く。大本営発表は嘘ばかり教えているんだなと思っていた。
1944年10月下旬より特攻が始まる
同年兵だが志願だから年下の飛行兵がいて、「平嶋、平嶋」って年下だけど同年兵だから呼び捨てで、でも弟分の様で可愛らしかった。飛行機から降りるとすぐに会いに来て、ご飯とかもこっち(医務科)で食べる。「自分のところで飯を食え、飛行兵の方が食事も良いだろう」と言ったけど、「飯ぐらい食わせろよ」と入り浸っていた。 しばらく見ないなと思っていたら戦死公報に「石岡」と一人だけ名前が載っていてはっとした。第17とか何とか特攻隊の名前が付いていた。毎年お盆になると墓参りが気になるけど、どうしてか足が向かなかった。特攻機はもう編隊が作れなくて夕暮れに1機ずつ出て行った。夕方薄暗くなって機影が見えなくなる頃出ていく。出ていく時、特に見送りなどはなかった。1機ずつ特攻隊の番号が付いた。16~17歳のが「平嶋さ~ん」って会いに来る。出たら泣いていて見たら特攻だと分かる。「決まったらしゃあないね」「同じ死ぬんなら外すなよ」と言って、「我慢せんでいいから俺が抱いておくから泣け」と言ったら、兄貴のようだったんだろう、胸に抱かれてわんわん泣いて、何時まで経っても忘れられん。何人もじゃない、何十人もそうやって見送った。平嶋さんは字が上手だからおふくろに手紙を書いて欲しいとか、髪を包んで持ってたり、墓参りに行こうとその時は思っていて住所も書いて大分長く持っていたけど行かなかった。戦争が終わって死んだ人への世の中の気持ちもがらっと変わって、英霊、英霊と言っていたのが馬鹿なことしてとそういう様になったし。米軍が上陸する頃には殆ど飛行機は無くなっていた。 飛行機受領に行っても降りるときに足が折れて駄目にして仕舞う。操縦士が未熟になってきていて、17~18歳のあんちゃんが羽根をばたばたさせながら降りてきていた。
1945(昭和20)年1月 クラーク地区防衛隊が編成される
米軍が上陸してからは何もない。まるで絨毯をひくみたいに海岸から撃ってくると海岸には近寄れないから、海岸線で止めるなんて出来ない。 山中に入って米軍を迎える事になった。とにかく弾の物量がかなわなかった。 機銃を一列に同じ高さに揃えて一斉に撃ってくる。日本兵もいない所なのにどうしたのだろうと離れた背丈ほどのかやの中から見ていると、かやを刈り取るために撃っている。焼いたら自分たちもすぐには入れないから。そうすることで米兵は立って撃ちながら入ってこられる。
こっちが「かちゃかちゃぽん」「かちゃかちゃぽん」とやっているうちに、向こうは200発連射ぐらいで「だだだだだ」と立ったまま撃って来る。一度向こうの銃(短機関銃?)を拾ってあまりの性能の違いにあほらしくなった。 撃つ役の兵隊は撃つだけで、重ければ移動する時弾を捨てていくが、それを拾って歩く役の別の兵隊がいて行く先々に弾を配って歩いていた。 「『かちゃかちゃぽん』『かちゃかちゃぽん』じゃ『だだだだだ』に勝てるわけがない」と言っていたら、陸軍中尉に聞かれてしまって殴られた事がある。 本当に馬鹿な事をした。まあ馬鹿な事は実際にしないと、なかなか馬鹿な事と分からないんだが・・・。
主食は草。 萱みたいな柔らかい草があっておいしいが消化しない。これを食べると消化できず狂いまくって死んでしまう。何人かが繰り返してこの草は駄目と分かっていった。軍医に後学のためだと言われた遺体の解剖をしたが胃に噛んで食べたままの草の固まりがあった。里芋、サツマイモ、山芋。里芋は内地のものよりおいしかった。 蛇、蛙。大蛇は1回だけ4mのものを捕った。毒蛇もそのまま食べたが少し精力がつく。食糧の収集・配分は看護部、看護長以下7名で共同していた。病死はあまりなかった、餓死というか食べ物が無い事の衰弱死。下痢をし出すと大概死んでしまう。下痢がひどくなるだけだから下痢の者には食べ物を渡さない。そうすると我慢出来ず変なものを食べて余計死んでしまった。ネグリート族という背の低い腰巻だけで過ごしている原住民が居た。 彼らだけなら山の中で好きな所を畑にして、思うようなものを作る平和な生活。彼らと谷を一つ隔てて生活を始めたが、その畑を荒らして作物をかっぱらうので入ってくる人を毒矢で射殺す。何人もそれで殺された。 そのうちこちらも追い出されたくはないので敵対しないように気を付けていたら、次第に付き合いが出来てきて、逃げ腰で手招きして大きな山芋を持って来てくれたりした。部族は何種類もあり、米軍と共闘している部族もある。米軍もまたお金を出していた。 ゲリラとはそりゃ戦争だからどちらも殺し合い。女性だからと思って安心していたら、抱いている赤ん坊のお尻の下から撃ってくる事もあった。日本人は侵略者、土地を荒らすからとにかく嫌われていた。
1945(昭和20)年8月15日 敗戦
玉音放送の1時間後にはもう米軍から敗戦を告げるビラが撒かれた。表は日本語、裏は英語。日本軍としての連絡はなかったけれど、敗戦を疑う者はなく、皆さっさと山を下りはじめた。
先に捕虜になった者が皆生きている事は分かっていたので、米軍に殺される事はないと皆分かっていた。捕虜からは以前から「早く捕虜になれ」「体重が何キロ増えた」というようなビラが来ていたから。 降りることに文句を言う者は無かった。扇動に乗るなという陸軍尉官がいたけれど、「お前たちだけで行けよ」と言ったら、3~4人で山に入って行ったが1週間ぐらいでふらふらになって出てきた。「どうだった」と聞いたら「そう言ってくれるな」と言われた。 下りていく道々には米軍のレーションが梱包して落とされ次はどこに落とすと書いてある。一日三食分落としてくれる。最初は飢えていたのでおいしかったが、段々贅沢になって米が食べたいと言ったら米が落ちてくる。梅干しが食べたいと言ったら樽で梅干しが落ちてきて、他所の部隊からも兵隊が群がって、あっと言う間に無くなった。会話を現地人がどこかで聞いていて伝えているらしかった。
武器は米軍に渡したくなかったので下りる前に暴れ川の淵三か所ぐらいに分けて捨てた 最初の所に三分の二ぐらい捨てたら水面から見えてきたので原住民に見つかってはと思い あと2か所に分けた。暴れ川は水路もすぐに変えるもので、銃を底の土砂に巻き込んでくれる。
後で米軍に武器はどうしたと聞かれた。3か所を捜索させ1丁ずつ出てきたのを確認したらそれ以上は調べなかったらしい。
クラークの収容所へ
米軍のとても美人の女性将校たちが片言の日本語を話して兵士の整理に当たっていた。200人ぐらいずつ収容所へ収納していったが、日本兵も彼女たちの部下の様に4列縦隊とかの命令に従っていた。後で彼女たちは日本語の専門教育を受けており日本語はもっと堪能で情報収集をしていたのだと知った。日本人将校は何度も日本兵を集めては「喧嘩だけはするな、内地に帰れるまでは我慢をしろ」と繰り返していて、そんなに何度も何度もせんでも良かろうがと思っていた。
カリラヤ収容所(マニラ郊外)へ
日本人孤児が集められた収容所が隣接しており先の女性兵士たちが面倒をみていた。あれだけの米兵が皆日本人びいきな訳はないが、苛められたり嫌な事をされる事はなかった。アメちゃんは本当にほがらか。
1945(昭和20)年11月 復員
一番恥ずかしかったのは、自分は5人兄弟で全員怪我もせずに戻った。 裏の家は2人兄弟で、うちの兄と弟とそれぞれ同級生だったが、2人とも戦死した。 前の家も2人兄弟で、下の方はうちの弟と同級生だったが、これも2人とも戦死した。 恥ずかしくて暫く家を出られなかった。これは(奥様、同じ町内の出身)そんなこと仕方ないと言ってくれるけど。