インタビュー記録
1942(昭和17)年4月
逓信省航空局乗員養成所に入学(11期生、仙台)。 民間のパイロットを育てる養成学校は、軍隊と違い基礎訓練などに時間を使わず、とにかく「飛行機乗り」を教える学校。3日目には飛行服が渡され、4日目にサイズチェック、5日目には飛行演習が始まった。給料が月7円、食事も官費だった。
1943(昭和18)年4月 水戸陸軍飛行学校に
6カ月後に伍長になり、民間を希望する者はここで除隊する。 19歳の伍長で田舎に帰ると驚かれ町中の噂になった。
1943(昭和18)年10月 米子航空局乗員養成所の嘱託教官に
1944(昭和19)年3月 召集、大刀洗陸軍飛行学校へ
高等航空機乗員養成所に行く心づもりだったが、戦局の悪化で召集された。 午前は少年飛行兵14期の教官、午後は転科した下士官学生の教官。3ヶ月で仕上げ、覚えなければビンタすれば良い。軍隊はメチャメチャだなと思った。続いて少年飛行兵15期の教官。5月から特別幹部候補生1期の教官。
1945年(昭和20年)春 京城飛行場へ
「特攻隊へ行きませんか」「日本の空を守りませんか」と言う調査があるが、兄が2人戦地にも行っており出さなかった。三分の一ぐらいが志願をした。1000時間以上飛んでいる人間は教官要員が良いという方針もあったようで無理強いはされなかった。
1945年(昭和20年)3月末 部隊が特攻用の編成に変わる
自分も多少逃げてきたけれど行くしかないんだなと思った。隊長に聞くと「編隊長で行って後ろに5機ぐらい付いていく事になるはずだ。誰にも言わないように」と言われた。 夕方日が暮れる30分ぐらい前に離陸し、飛行機のライトは消して、排気管の灯を頼りに編隊を組む訓練。大変難しい。 朝4時半頃からエンジンを廻し夜明け10分ほど前に離陸する訓練。下は真っ暗で見えないが、上は明るくなりかかっている。群山(ぐんざん・朝鮮)から真南に10分、真東に10分飛ぶと夜が明けてくる、空港に戻って明るくなりかかった空港に着陸。慣れると20キロ爆弾を積み編隊を組んで上がる。薄暗い時間帯は高度を間違えやすい、速度が上がると実際より高度があるように錯覚する。 叱咤激励はしてもいじめるような教育はしなかったと思う。愛情いっぱいに育てた。 1ヶ月頃から沖縄への行き方を教える。こいつらは1ヶ月もすると死んでしまうんだなと思うと緊張して喋れなかった。「部屋に帰ろうか」と言うと、「唄を歌おう」とか「一人になると寂しいので飛行機の下で横になっていたい」とか言い出す。 技量が上がってきたし自分でも近づいてきたことが分かる。今までは2~3百メートルの高度で飛んできたけれど甲板より低く数メートルを飛ばないと行けない、なおかつ2メートルぐらいある波頭を喰ってはいけない。
1945年(昭和20年)7月頃 編隊をどう組むか話され始める
その頃私は半分やけくそな気持ち。何で死ななきゃいけないかな、死ぬとはなんだろうと毎日考えていた。20歳でそんな難しい事は分からない。毎日聞かれるけど。墨で書いているのは「お母さんお世話になりました」、「外は書いたけど中身はどうしても書けない」とかそんなことばかし言っている。寝られないから「一杯飲んで良いですか?」と言われるが、何時命令が来るか分からない。。