インタビュー記録

1940(昭和15)年3月3日 現役 野砲第6連隊

 (報告者註: 中国時代のお話は伺っておりません。)

1942(昭和17)年12月20日 上海出航

 25000名が12隻の輸送船で出航。

1943(昭和18)年1月20日 乗船していた明宇丸が沈没

 赤道を越えものすごく暑かった。風が入ってこない。明宇丸はもともとセメントを運ぶような貨物船で、巨大な船倉を3階建てのように分け、立ったら頭が使えるような造り。夕食を終え、あまりに暑いのでたまたま甲板に上がった。
 併走していたスラバヤ丸が魚雷を受け沈没したので、装備を取りに降りようとした時、爆風に飛ばされた。魚雷が当たり、階段は無くなり、巨大な鉄の桶のようになっている。板を渡す端の鉄の床のようなところに飛ばされていた。頭と足から血がどんどん噴き出していたが、ふんどしで止血した。

 下をのぞくと地獄、さっきまで一緒に食事をしていた兵隊たちが、上がる階段も無くなり泳ぎ回っている。自分のところも、甲板に上がるには、少し離れた縄梯子に飛びつくしかない。普通なら飛びつけない距離だが、ここで失敗すれば下の地獄に落ちるしかない。いつもは無い力が出て飛びつくことができて、上に上がった。
 先ほど上陸用舟艇の影で寝ていた2人の兵隊が、その舟艇の鋭い鉄の先で切られたのであろう、胴体が真っ二つになって転がっていた。

 10mぐらいあったが、飛び込まないと仕方ないので、ラッパが鳴ったのを合図と思い飛び込んだ。筏につかまったが少しずつ減っていく。
 そこは鮫がいる海域。翌朝救助に来た駆逐艦・朝雲は最初はすぐに救助せず、爆雷を落として廻ったがこれは鮫避けだったらしい。
 海軍の兵隊の話では、遭難者は一晩のうちに5キロ四方に広がっていたという。
 海面に浮かぶ兵の多くは、溺れたのか、鮫か、死んでおり、海軍は生きている人だけその中で選び出して拾っていった。

 当時は遺体は集めないというのは冷たいものだと思ったが、考えたら駆逐艦にはそんなスペースはない。引き上げられても足が立たず、「場所がないから後ろに行ってくれ」と言われ、這って移動。救出された後に亡くなった兵隊は棺桶が用意してあって、それに入れられ旗を巻いて水葬された。こんなに扱いが違うのは妙だと思った。

1943(昭和18)年1月24日 ブーゲンビル島南端のエレベンタに上陸

 明宇丸に載せていた2万5千人分1か月の食糧も武器も沈み、部隊は何もないまま丸裸で  上陸した。そのため当初から部隊では食糧が不足していた。
湿地帯のぬかるみの道路工事にあたった。

1943(昭和18)年4月18日 山本五十六連合艦隊司令長官がブーゲンビル上空で撃墜され死亡

 新しい道路工事の始点を作る日で、まず防空壕を掘り休憩をしていると、飛行機が見えた。防空壕に飛び込んだが何もない。見ると飛行機がじわっと落ちてくる。敵機と思い喜んでいた。
 休日に数名で見に行くとエンジンは焼け焦げているが胴体はそのまま。ジャングルの中にきれいに着陸している。武器がなかったので、後ろの機関銃を外そうとしたが弾が焼けて仕舞って無理。
 何か使えるものはないかと思い胴体を50センチほど剥いだ。鍋が欲しかった。ネズミを切り刻んだものと草の葉を煮て食べた。ジェラルミン製だから、随分使った。
 あれは山本長官を尊敬する誰かが持ち帰ったものだろうと書いた本を見たことがあるけど、そんな事より食う事。私は陸軍だからねえ。
 「あれを持って帰れば良かった、惜しいことをした」と思うけど、皆体力がなくて、紙1枚でも重かった。10円札が落ちていても誰も拾わなかった事がある。

1943(昭和18)年11月1日 米軍がタロキナ(西岸)に上陸

 第2次タロキナ作戦に参加した。
 野砲だから最前線には行かず後ろから撃つ。自分は砲を引っ張る役で砲には触ったこともなかった。砲を撃つと狙われるので、撃つとジャングルに引っ張っていき隠し、また移動して撃つことを繰り返したが、やがて砲手が死んで砲も使えなくなった。
 3月末攻撃は中止、5400名が戦死、7000余名が戦病死で、戦病死の方が多かった。

1944(昭和19)年4月 退却

 小銃や機関銃を渡され歩兵となった。
 食糧補給は皆無なので、農園を作ったり、製塩を行う。
 5時になると暗くなるので横になる。食い物の話をする。まず握り飯の話。「食える」「食えない」と食えるはずは無いのだが延々議論する、喧嘩になるほど。それが終わると羊羹の話、何本食えるかと。食べ物の話ばかり、故郷の話はまったくしなかった。
 原住民と仲は良かった。人懐こく、軍でも原住民の畑の芋を取ることは厳しく取り締まっていた。しかしヤシの実は取っていた、あれは自然に生えているものと思っていたが、そうではなかったらしい。
 一度豚を射殺し荷物に入れて運んでいたら執拗に付いてくる。荷物の縄に血がついているので慌てて砂でこすって隠したが、蛮刀をチャリンチャリン言わせて威嚇しながら付いてくる。夜になって漸くこっそりと焼いて食べ、始末した。それ以降は気を付けて殺さないようにした。
 原住民が噛んでいる実があって、ピンクだが噛んでいると真っ赤になる。最初は口が真っ赤なので、人食い人種だと思った。麻薬のような高揚感があり元気が出たが、中毒になると思い日本兵は摂取を止めた。

1945(昭和20)年1月30日 豪州軍がトコ(南西岸)に上陸

 ここからが本当に苦しんだ。豪州軍とジャングル内で会っては銃撃戦。
 帰ってきてからも夢を見る。

 ジャングル内で敵兵がチラチラする。撃つと応戦してくる。最初はそれでやっつけたと思いたかをくくっていた。
 防空壕の奥にいた時、木に当たり炸裂した大砲が、壕を突き抜けた。前の方に居た兵が、顔半分が削げた。防空壕も信用ならないと思った。
 A壕、B壕、C壕と3段に待機していて、Aは銃撃戦を終えたら一番後ろのCに下がって良いことになっていた。敗戦までこれを延々繰り返した。

 ある日、斥候に行けと命じられ、5人で出かけた。比較的体力があったので機関銃を持てと言われた、10キロ近くあった。しかし前日に豪州軍の残した乾パンが手に入ったところで、皆むさぼり食っていた。行きたくはなかった。食っていたかった。
 食べながら何の構えもなく歩いていると、ジャングルが切れた。3名の豪州兵がちらりと見えた。ベレー帽で迷彩服を着て自動小銃を下げ、しゃれている。こちらは乞食のような恰好に裸足(もうずっと裸足だった)。機関銃は下げているだけで撃ったことはなかった。非常に至近距離、部隊から5分ほど歩いただけのところで、しかもこっちは食べながら。出会い頭で互いにどうしたら良いか分からない。
 向こうが伏せたので撃ったが引き金が動かない。初めてで、安全装置があることも分かっていなかった。後ろにいた軍曹が「やられた」と言った。自分がぐずぐずしているので、手榴弾を投げようとして腕を挙げたところを撃たれたらしい。安全弁を外して撃ち、一人の豪州兵を殺した。若い青年だった。

 ジャングル内に戦車道が出来ていた。
 そこを立ったまま歩いてくる豪州兵がいて、撃ち殺された。
 他の者が撃ってきたら撃ちかえすように機関銃を渡して、死体に歩いて行った。
 靴が欲しかった。手はぬるぬるしていて脱がすのは難しかった。靴を脱がすと毛の良い靴下を履いていた。それも脱がして1か月ぐらい履いて過ごした。

1945(昭和20)年7月 負傷してマイカの野戦病院へ

 位置を変えようと立った時に前腕を撃ち抜かれた。機関銃が地面に落ちたので、やられたと気付いた。痛くも何ともない、機関銃の方が気になる。
 当時の感覚として“かたわ”になるぐらいなら死んだ方が良いという気持ちがあった。衛生軍曹が木の枝でゆわえて止血もしてくれた。
 夜になると耐え難い痛さ。止血すると痛くなり、外すと血が通い痛みもなくなるが、血が噴き出してくる。止血をしたりはずしたり一晩中繰り返した。
 担送に2人の兵隊が送られてきたが、栄養失調で自分よりよろよろしている。こんな者に運ばれて川にでも落とされたらと思い、荷物だけ持ってもらい、2日間ジャングルを歩いて野戦病院に着いた。
 野戦病院の軍医は反対に肩から切りましょうと言う。前腕だけなのにと言ったが、細菌感染が広がらないようにするには肩からだと。何となく感覚はあるような気もするし無い気もするし。切られたくないので病院には寄り付かないようにして、自分でウジを取っては包帯を巻いて過ごした。

1945(昭和20)年8月15日ごろ

 静かになったなとは思っていた。翼の下に「日本軍降伏」と書いた偵察機が飛んできたが「おびき出すためだ、騙されるな」と言っていた。
 2日ぐらいして部隊命令として敗戦が伝わった。

 同じ中隊の鹿児島出身のM軍曹が、食糧を探しに行って帰ってくるのが遅かったかなにかで、敵前逃亡だと言われて戦後に殺された。
 敗戦の時はすでに隊に帰ってきて、道路工事の使役にも出ていたのに、その工事現場から連れ戻された。私は腕を負傷していたため使役には出ておらず、兵舎にいて目撃した。
 御馳走やお菓子を食べさせ良いタバコを渡すので、何でかなと思っていると、自分にも一緒に来てくれと言う。爆弾で空いた大きな穴のあとに半分ぐらい水がたまって池のようになっている所に、彼を連れて行き、その淵に座らせろと言って後ろから拳銃で撃って殺した。遺体は水の中に落としてそのまま、埋めたりもしなかった。
 軍法会議はよくわからないがやっていないのではないかと思う。
 本当に立派なしっかりした人で、そんな逃亡とかするような人ではない。食糧を探しに行くのは当然のことで、そんなのは敵前逃亡でも何でもない。本当に可哀相。

南端のファウロ島に収容される

1946(昭和21)年3月 浦賀に復員

 とにかく戦う事より生きる事だった。戦いたくはなかった。

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