インタビュー記録
1940(昭和15)年夏 徴兵検査・第一乙種合格
秋に兵科が高射砲隊に決まる。
1941(昭和16)年1月 高射砲第19連隊第4中隊に入営
一旦、仙台の第4連隊に赴き、その後大阪の集結地で高射砲第19連隊第4中隊に入営。
朝鮮を経由して、2月、佳木斯(じゃむす)の本隊に到着した。
高射砲第19連隊は、高射砲第56連隊と機関砲第29連隊で編成されており、所属した第4中隊は機関砲隊。
関東軍の初年兵へのシゴキは、「不毛地帯」や「兵隊やくざ」などの映画に描かれているように凄まじいもので、制裁の数々を受ける。
1941(昭和16)年6月頃
第4中隊は「関東軍独立野戦機関砲279部隊」と呼ばれ、その後、第4332部隊と変わる。
高射砲部隊は第4330部隊と4331部隊となり、この頃、多くの戦友が他の部隊に転属。
4332部隊は、東満州のソ連国境近くの東安、蜜山などに駐屯。
1942(昭和17)年秋 4332部隊に南方戦線への動員命令が下る
同年12月初め 佐世保着
同年12月末 ラバウル港に
当初ガダルカナル島に救援に行くという噂がたったが、やがて第51師団岡部支隊(【註】歩兵第102連隊が基幹)に属し、ニューギニア・ラエに向かうことが伝えられる。ラバウルにいた海軍陸戦隊の兵士に「輸送船でニューギニアに行くのは無謀だ。ダンピール海峡のサメの餌食になるだけだよ」と言われた。
1943(昭和18)年1月 ニューギニア・ラエへ上陸
5日 輸送船「妙高丸」に乗船。
6日 ラバウルを出航。初日は零戦の護衛もあり無事だった。
7日か8日にかけて敵機の空襲を受けるも何とかラエにたどりつき上陸。
上陸後、トラックでジャングルの陣地に苦労して進出したが、あっという間に食糧がなくなる。潜水艦が決死の覚悟で運んでくれた米も、海水と気温で発酵し米の形を成していない。ノリと団子を混ぜ合わせたようなものが主食で、副食はほとんどなく、それすらも滞るようになった。
椰子の実は食べ過ぎると大腸炎の原因になり、川で体を洗うと皮膚病になった。下痢、大腸炎、栄養失調に苦しめられる。
部隊の任務は、ラエ港附近の日本軍飛行場を守ること。連日、敵機の空襲を受け、機関砲で対空戦を行っていたが、目の前で機関砲が真っ二つに割れるという事故が起きる。それまで必死の気概で戦っていたが、砲が使えなくなった瞬間、一気に恐怖心にかられてガタガタ体が震えた。
1943(昭和18)年9月
ラエ東方のブス河対岸に連合軍が集結。渡河作戦を始め、沖合いにあった敵艦からは艦砲射撃も行われ、弾丸がどこに落ちるかわからない艦砲射撃の恐ろしさは一段だった。
ラエとサラモアから撤退する部隊の退路を確保するため、ブス河で敵を食いとめよという命令を受け、400名足らずの兵力で1万5千もの敵軍を相手にする。
この戦いで部隊は事実上全滅し、生き残った20数名がサラワケット山系を越えて退却することになった。
指揮官は、軍(師団?)司令部に後退の許可を求めたが、司令部はそれを拒否し、結果的に4332部隊を捨石にした形になった。
サラワケット越え
その後のサラワケット越えが、生涯忘れられないこと。
毎日毎日山越えの行軍が続き、あの山の頂上まで登れば、後は山がないかもしれないと期待して頂上に着くと、その向こうにはなお一層険しい高い山がそびえている。断崖絶壁を進むこともあったし、綱につたって難所を越えることも度々だった。険しい山脈越えの苦行はとても筆舌には尽せない。
1週間分の食糧が尽きると、現地民の部落を経由する撤退路に切り替えられ、人気のなくなった部落の家屋に宿泊し、作物のいも類が兵士たちの唯一の食べ物となる。
負傷していたものの、足は大丈夫でいつも先頭を歩くことが出来たので、部落での食糧確保もまだましだった。サラワケット越えをした将兵は8000人ほどだが、部落で食糧調達できたのは始めの方を歩いていた人たちだけで、最後の方になれば何もなかった状況だったはず。
途中、銃声や手榴弾の破裂音が続き、自決者が出るとわかると、その衣服や靴、雨具などを目当てに兵士が自決者の周りに集まる。南国と言えども寒さが厳しかったので、山越えに必要なものを自決者のご冥福をお祈りしながら頂いた。自分も、夏服と地下足袋でいたので、革靴を頂戴したお陰で命が助かった。
撤退路は前人未到のジャングルなので、海軍の陸戦隊がコンパスで方向を測定し、工兵隊が難所の道を作り、台湾の高砂族の兵がジャングルを切り開きながら進んでいった。ラエからサラワケット山頂まで約1ヶ月くらいかかり、目的地であるキアリに着いたのは山頂到達から10日くらい後だったのではないか。
キアリ到着後、マダンの野戦病院に入院。
その後、ウエワク、ホーランジア、パラオに転送され、パラオでようやく本格的な治療をしてもらえた。
1943(昭和18)年12月 帰国
広島陸軍病院に入院した後、東京第2陸軍病院に転送。
1944(昭和19)年6月 退院、 同年6月25日 現役満期除隊
退院し、目黒の野戦重砲兵連隊に移った後、同年6月25日 現役満期除隊。
当時、満期除隊はまずなかった。除隊したので軍服姿で東京駅のホームに立っていたところ、脱走兵と疑った憲兵に咎められた。
ある人が厚生労働省で調べたら、援護課の記録には、この部隊は全員帰還せずとあったと言っていた。おそらく、上級司令部が私たちは全員玉砕したと報告したものだから、軍籍に私のことが載ってなかったか、幽霊兵士のようになった私のことを扱いかねて放っておいたのではないか。
その後、実家に戻る。
1945(昭和20)年6月 再召集 戦地に赴かず終戦を迎える
※あの過酷なニューギニア戦で生き残れたのは、神仏のおかげであり、戦死した戦友たちの魂のおかげであると信じていると畠山さんはおっしゃっていました。亡き戦友たちのために自費で観音像を建立し、供養を欠かさず、自宅には立派な神棚もありました。