インタビュー記録
1941(昭和16)年12月1日 20師団野砲兵第26連隊(朝鮮京城)に入営、現役
甲種合格。 門司港近くの老松公園周囲の民家に分宿を命じられていた。 1週間ぐらいして真夜中に老松公園に集まり門司港に移動。 民家の人から聞いたのかおふくろと父が見送りに来ていて、母は「勇、勇」と自分を探し風呂敷を手渡された。母は車酔いが酷く列車に5分といられない人でどうやって来たのだろうと思う。 船に乗ってから開けると羊羹が6本入っていて涙が出た。殆ど寒天だったが当時容易に手に入るものではなく、仲の良かった饅頭屋のおばさんに頼んで作ってもらったのだろう。食べきれる量ではないので皆に分けたら大喜びだった。
衛生兵に転科
○旧制中学を出ていたが、配属将校が嫌いだったので軍事教練は何かと理由をつけ、さぼっていた。そのため教練の出席が1/3に満たず幹部候補生の資格がないと連絡が来ていた。教練の出席が満たないとは何事だと呼び出されてビンタされた。 なぜこの人に殴られるのかと思ったが、「幹部候補生になれないならヨーチンになれ」と言う。「ヨーチンは衛生兵のことで、楽な兵科だ」と言われたので「楽だったらなります」と言ったらまた蹴飛ばされた。簡単な試験を受けた後、陸軍病院で半年の教育を受ける。 20師団は朝鮮出身の兵隊が多い部隊だったが、その中にクレゾールを飲んで自殺を図る者が多く出てクレゾールを隠していた。
1942(昭和17)年4月1日
弘前の輜重兵第57連隊に教育応召、3中隊に配属。6月に2回目か3回目の演習で、軽装で八甲田山に行った。桜が咲いていた。桜は満開で雪もぱらついてきた。だんだん吹雪になって道も分からなくなった。なんとか帰ってきたが、八甲田山は本当に気候が激しい魔の山だった。 初年兵教育は厳しく、腹が減って残飯をあさるほどだった。これは社会に出たときなんでもできるなと思った。
1944(昭和19)年5月27日 輜重兵第49連隊に転属
1944(昭和19)年7月21日 「だあばん丸」で釜山出帆
1944(昭和19)年8月21日9時40分 魚雷が命中
前日マニラ湾に停泊、サイゴンを目指したがカムラン湾上で魚雷攻撃を受け、5発中2発が命中した。退船命令で海に飛び込んだが、当日は台風で風速が16mもあった。筏はバラバラになってその1本につかまった。波が高く、目は開けていられない、口に入ると塩ばかり。輸送船はそもそもトイレに立ったら戻る場所がないほどすし詰めで、すでに兵隊たちは栄養失調気味で体力がなかった。数秒眠くなると海面に顔をつけて息が出来なくなり死んでしまう。衛生下士官は軍医と一緒に1等航海士の部屋を医務室として使わせてもらっていたため、もともと他の兵隊より体力に余裕があった。 輸送船沈没後海中に投げ出され波間に漂って朦朧として夜になり南十字星を見ていると「勇、勇」と母と思えるような女性の声がして眠りに落ちるのを助けてくれた。 8時間ぐらい海中に漂っているうち救助艇に助けられる。「だあばん丸」乗船3600名中1633名が海没。 カムラン海軍病院へ。海水が耳に入り急性中耳炎に、発熱。 アスピリンで解熱すると耳はそのままで退院。兵員の補充は難しい状況で、片腕や片目の者も原隊を追及させられていた。1944(昭和19)年12月1日 ビルマに入る。 ペグーから徒歩でトングーに移動。 更にメイクテーラで英軍と決戦をするという事でメイクテーラを目指した。
1945(昭和20)年4月3日頃
pyawbweという部落まで来たとき英軍の飛行機が1機低空を飛んできて1周して帰って行った。初めてだったので「竹とんぼ」かとなめていたが、すぐに3機が飛来。 爆弾と機銃掃射で壕がつぶれ、軍医、副官など3名が圧死した。 自分は10mほど先のぶどう畑の棚の下におり破片が尻に当たったが助かった。 この日を境に敗残兵となる、メイクテーラに行くどころではなくなった。 英軍はM4戦車で攻めてくる。布団爆雷を作りそれを持ってキャタピラの下に飛び込む自爆隊が次々に送り出された。 本科の兵が少なくなり、3日目は衛生兵の自分も行くことになっていたらしいが、ちょうど隣の部落に治療で呼ばれ部隊にいなかった。 そのうち戦車部隊は自分たちを通り過ぎて南下、自爆を免れた。 昼間は動けない。兵がいると偵察機が上空を1周する。そうするとどこからか戦車が現れて轢き殺す。 武器もないし、あっても鉄砲を持つ体力もない。 米は現地補給の方針、ビルマ人のモミを見つけ出しそれをひいて米を取る。次第にビルマ人もモミを持って山に逃げるようになり手に入らなくなった。 小乗仏教の国なので野犬やカラスが多い、ビルマ人は蚊も殺さない。この野犬は随分食べた。野草も詳しい人がいて食べた。 ペグー山系に逃げ込む 600mぐらいまでの大して高い山ではないが、文字通り白骨街道となり、どちらに日本軍が通ったか分かるほど、遺体からウジが湧いている。 機銃掃射が激しいので歩くのは夜。 ふんどしを切って背中に付け、その白い布を目印にして暗い中を歩く。 しかし眠りそうになりながら歩いていると少し間が空いてふっと道を間違える人が出る。それに数人着いて行ってしまう。 しばらくすると前が枝道に入ったのに気付いて本道に戻す人間が出る。 数人枝道に入って仕舞った人間は反日的な部落に行けば“だ”という太刀で切られてしまう。親日的な部落に行きつけばかくまわれてそのままビルマ人として生きた人も多いと思う。 そんなことで誰が何処で亡くなったか分からないのが本当のところ。 親しかった戦友も気づいたらいなかった。 ビルマ人は最初は「ジャパン マスター」と呼んで同じ民族のような親しみで接したが、日本が敗退を始めると反日的な部落が出てきた。 英印軍も部落に入り込んでおり、そうしなければビルマ人もやっていけない。 ペグー山系には筍が多かったがそればかり食べていると身体が浮腫してくる。蛇や野ねずみは御馳走だった。 補聴器などないのだから1対1で大きな声で話しかけられないと何も聞こえないのと同じだった。気配も分からない。ある時大休止して横になった後、気づいたら1人きり残されていて誰もいない。疲れ切っていて、心細く、寂しく、その静けさは何とも言えない。 その時高森曹長がいないのに気付いて探し廻って戻ってきてくれた。呼びながら帰ってきてくれたが聞こえないのでぼた~っつと立っていたら、目の前に来た。そのとたん足がかたかたして全ての力が抜けて立っていられないぐらいになったが、曹長が引きずって連れ帰ってくれた。 彼も一人で部隊を離れて戻ってきてくれている、その麗しさは神の様だと思った。5~6歳年上だったが、“中支”で中隊が1度ほぼ全滅して2人ほどだけ生き残った体験の持ち主だった。 あの時彼が戻ってきてくれなかったら自分は日本に戻れなかったろう 日頃は耳が聞こえなくても何とかなったのは衛生下士官だったから、軍医とだけ意思疎通できれば何とかやっていけた。 また何時死ぬか分からない戦場ではかえって平時より差別はなかった。 戦地では“めくら”とか“つんぼ”とか“かたわ”とかそんな風に誰も馬鹿にはしなかった “ともしゃん”は長崎出身の漁師で弟達5人を養っていた。30近い兵隊。 アメーバ赤痢でやせ細っていたが薬はない。 高森曹長に言われて炭を飲ませる事になった。わら灰を作るのだが、ビルマの稲作は当時種をまくだけで整然と植えつける事はなくわらも短い。 火をつけると爆撃機が来るので燃やしたり隠れたりしながら苦労して作った。 本人の気力も強かったのかもちなおし、自分は言われて炭を渡しただけなのに、とても感謝された。 「七・三水害」(1965年)の時働いていた人吉の病院は1階が全部水に浸かった。その時“ともしゃん”が自分もちょうど手術をして2日目だったのに、寸断されている道を辿ってお見舞いにきてくれた。大金を渡され感激したが受け取らなかったら、翌日トラックいっぱいにジュースやお菓子を詰めて届けてくれ、職員・患者さんで分けた。 シッタン河の渡河 表面は穏やかに見えるが、水深の深いところは渦を巻いている。 筏で渡ったが、1割ぐらいが筏ごと渦に巻き込まれ亡くなった。 英国の爆撃機には女性の顔が見えることがあり、スカーフを振って日本人を馬鹿にしていた。ビルマ独立軍も河の向こうから撃ってくる。 敗戦の1か月ぐらい前にタトンに。 タトンは湿地帯で英軍の戦車が沈んで入り込めないので集結地に選ばれた。
1945(昭和20)年8月16日~17日ごろ 敗戦を知る。
「やれやれ」「命が助かった」と思った。 そうではない者も多かったろうが、自分たちのような横着者は「勝つ事はない」と思っていた。 全部が矛盾していた。 かんかん照りの中、インド兵の鞭の下で爆弾で穴の開いた飛行場の整地にあたる。 インド兵が数を一人ずつ数えるので、病人は列の前の方に並ばせ、後ろを数えているうちに隊列を離れて病人を抜くようにしていた。 英軍は乾燥ポテトを18?缶に詰めたものと、米を少し与え、ジャガイモ入りのおじやにして岩塩で味をつけて食べた。戦後5年ほどはジャガイモは敵のように思って食べなかった。 土を盛った上にアンペラだけを敷いて寝ていた。