インタビュー記録
1944(昭和19)年5月25日 横須賀海軍対潜学校入校 志願
3ヶ月の新兵教育、水泳、手旗信号、柔道、剣道、カッター漕ぎ。カッターの競争を班ごとに行い、班長に棒でけつを叩かれ競馬馬と同じ、負けると昼飯なし、テーブルをひっくり返される。夜はバッター、引っ込めると回数が増えたり叩く場所がずれてなお痛くなる。ハンモック支え(8キロぐらいある)、甲板掃除、リノリウムに油を塗って縄でピカピカに磨く。
水測術を5ヶ月、音波探知の音を認識するために、軍艦・魚雷・潜水艦の音の違いを簡単な唄にして覚えさせられた。
1945(昭和20)年1月20日 水測術艦船班卒業
1945(昭和20)年3月20日 舞鶴防備隊付き
1945(昭和20)年4月 戦艦大和乗務員を命ぜられる
水測兵は15-16名、超音波を発信し、返ってくる音を聴音機で聞いて敵の船舶の距離を水測、波や魚の音でゴーゴーいっている音の中から他の音を聞き出す。音の種類とその確からしさの段階を判定して艦橋に伝える。耳がとても良くなければいけない。1万m先の音を聞ける者がいて、特別に練乳を貰い皆でご馳走になった。水測兵は特別に大事にされていた。
1945(昭和20)年4月6日 沖縄へと出動
7日、見張り員が敵機が30~50機がきれいに編隊を組んで来たのを、戦闘だ、敵機来襲だと戦闘ラッパを鳴らし、どんどんどんどんどんどんどんどん。潜って音を聞く方だが、甲板に出て砲術兵に弾薬を運ぶ。第4回目でやられた。
100~200機ずつ30分おきずつに攻撃してくる。上からは機銃掃射、下からは魚雷もぶっ放してくる。上から下からでどこがどこなんだか滅茶苦茶になって、何が何だか夢中になってしまって、蜂の巣。段々左の方に傾いていった。
「頑張れ、貴様、沈んだり死んだりはない、これは不沈艦だから」だけども何連発も来た、どれだけ食ったか分からないんだ。上からグラマンが機銃をすれば上にいる人がバタバタ倒れるんだ。上と下からだからどうしようもなかった。
総員退艦せよという命令が出た。対潜学校で実施部隊に行って船が沈む時には丸裸になり、大事なものは腹巻き、海に飛び込めと班長がよく話してくれていた。
80m(巾)もあるものが“があ~っ”と来たもんだから、甲板は血だらけでドロドロ、血の海、駆けようにも。頭や身体がバ~ラバ~ラ、腸管・臓腑を取って口に入れて食べているのもいるし、首が飛んで身体がアップアップしてる、手は手首が飛んで骨はじゃかじゃか、肉はパラパラ、廻りにくっついている。死体はゴロゴロ。皆即死だった。
人を避けて甲板を高い方にどんどん走っていく。俺は絶対死なないぞ!という意気込みでば~んと高いところから飛び込んだ。若いからね。
箸1本でもいいからものを探せと言われていた。ドラム缶や机や椅子は見つけたけれど、あまりそういうものは頼らず、自分は自分と考えた。俺は死なないという気持ち。一生懸命泳ぎ100~200m。
火柱がだあ~っと上がった。海で小さなタンクにすがり、洋上を1 時間ほど彷徨い、駆逐艦に救助される。
2 時間後戦艦大和は爆発し撃沈大和が回転して沈没する前に出られなかった兵は船に巻き込まれて戦死した。
太平洋戦務甲で駆逐艦に
1945(昭和20)年6月27日 グラマン戦闘機50 機の攻撃を受ける
甲板で船近くの砲弾着弾で跳ね飛ばされ甲板に叩きつけられて気を失う。
呉の海軍病院で意識を戻し、20日間入院。
1945(昭和20)年8月15日
舞鶴で全員集合で玉音放送を聞くが内容わからず兵舎はいつも通り
班長は、負けたから帰れないと発言。
1945(昭和20)年9月1日
復員600 円をもらい、2 日に鉄道で山形に復員。