インタビュー記録

1943(昭和18)年7月 進学クラス全員が予科練を一斉に志願しようとした

 当時東邦商業学校(現在の東邦高校)進学コースの5年生。
 同一市内の愛知県立第一中学校で3年生以上の全員が予科練(甲飛)への志願を決めた
(※親の反対や身体検査での不合格があり最終的に入隊は約700名中56名)
 一中の全員志願が新聞に載ったその日、休み時間に俺たちもやろうと一人が言い出したらあっという間に皆が賛成して決まった。新聞がそれを記事にした。5年の受験クラスが受けるならと他のクラスや3年4年にもどんどん志願者が出た。
 募集のポスターは学校や国鉄の駅に貼られていた。
 総決起集会のようなものは無かったが(名門の一中は放っておくと下士官養成の予科練への希望者が出ないためノルマがこなせないと「時局講演会」を開き先生達が志願を勧めた)自分の授業を一時間つぶして「進んで行ってくれ」という先生はいた。
 特に公民の先生が悲痛な様子で「このまま負ければ日本は大変な事になる。今の日本を救えるのは君達のような若者しかいない」と言ったのは覚えている。

 当時実業学校は在籍生徒の1割しか上級学校の受験が出来なかった。そのため進学出来るのか不安が広がってもいた。
 また当時から野球や剣道、ブラスバンドが全国レベルにあったが、この年は全国大会が行われず(註、甲子園は昭和16年中止されたが、昭和17年だけ文部省主催で開催されていた)その分を発散したいという感じもあった。
 陸士海兵や旧制高校・帝大への進学が可能なのに「出世主義を棄てよう」と少年のヒロイズムがあった一中とは少し意味合いが違っていた。

 我が家は当時母子家庭で、母親は志願に猛反対、父親代わりをしていた伯父を連れてきて叱りとばされた。「皆との約束があるから」と言っても全く聞き入れられなかった。当時志願には親の判が必要で、盗んで押す者もあったが、我が家では母が警戒して隠してしまい、判は彫って作る時代だったのでどうしようもなかった。
 困って担任の先生(英語)に相談した。判を無しで済ませる方法なり、親を説得するなり何とかしてくれるだろうと思っていたら、「そんなに無理してまで行く必要はないよ、お国のためにお役にたつ方法は幾らもあるよ」と言われた。当時そんなことを言う先生はいなかったからビックリ仰天した。「大分止める人がいるよ」と言われ「えっ、皆じゃないんだ」と思ったら、急にガクッとなった。
 この先生は個別に出来るだけ「受けるな、受けるな」と言っていたらしい。戦後理由を尋ねると「僕はアメリカを見ているから勝てないと思っていた」と答えた。

 最終的に何人が受けて何人が合格し、何人が戦死したのかも分からない。
 空席の目立つクラスはあったが、この頃は勤労動員でバラバラの所に行き、他の募集も沢山あったからクラスメートでも全体像を把握出来なかった。
 学校が受験を勧めていたのだからそれぐらいの発表・調査はするべきだと今の校長にも手紙を出したが返事はない。

 担任の先生が予科練に入った教え子達に面会し「今胃袋を小さくする訓練をしている」と報告してくれた。予科練は大変でも食事だけは良いのだろうと思っていたので、動員ぐらいで文句を言ってはいけないなと思った。
 最終的に志願した者としなかった者が表立って揉めることはなかったが、戦後予科練に行った者と会って「無事だったか!」と声をかけたら不快そうに顔を他に向け返事もしなかった。成績も大変優秀な生徒だったが・・・。
 卑怯だという気持ちはあると思うし、今さら何を言ってるんだと思ったのだろう。そう思われても仕方ないと思うが、自分もその後軍隊に行って辛い教育を受けたからそれを話せたら分かり合えたと思う。

1944(昭和19)年4月 徴兵検査 甲種合格

・同年6月 一緒に検査を受けた者に令状が来始める
 1日も心が安まらなかった。この年から徴兵が19歳からになったうえ、未だ18歳なのにと思っていたから。
 そのままいても工場に動員されるだけなので東京沼袋にあった電波兵器技術錬成所に入学、12月に卒業。
 叔父の家に下宿、叔父は出征兵士の旗や戦死者の花輪を特別配給で扱っていた。航空兵の下士官などが注文に来るが「この前注文に来ましたのはその後戦死しまして」などと言っていた。

1945(昭和20)年 2月 関東軍野戦重砲兵第2連隊(断3765)現役入営

・電波兵になると思ったが何故か野戦重砲へ。
 出征する兵隊には見送るための旗の特別配給券が来る、当時は券が来ても一般の人には駄目だったが、僕が出征する時は伯父が商売をやっていたので特別に作ってくれた。
 母はまだ30代、母一人子一人で悲しかっただろう、気丈な人で人前では涙をこぼさなかったが行った夜は1晩泣き明かしたと後で聞いた。祖母の様に可愛がってくれた叔母が玄関で僕に抱きついて「生きて帰ってね、生きて帰ってね」と泣かれて、耐えられなかった。
 名古屋駅は周りが爆撃されて煙で駅の中が霞んでいる。指定列車が満員で乗れない。乗りはぐれたら遅れて仕舞う。伯父が窓を叩いて廻って「これから出征する甥です、乗せてやって下さい」と言って無理やり開けて窓から僕を押し込んでくれた。叔父は日露戦争の勇士だったが「後藤重三郎君、万歳~」と言って列車と一緒にずっとホームを走って来てくれた。日露戦争と違って今度の戦争では甥は無事帰って来られないだろうと覚悟していたんだろう。「こんな時に満州に行くお前は可哀想だ」と言って泣いた。

満州東部国境の黒竜江省・綏西(すいせい)に


 -30度の中、上半身裸での訓練までもがあり、肺炎で死ぬ者も出て、演習中裸にするなという命令が出た程だ。
 我々新兵は、朝から夜まで理由無く殴られる者、鼓膜が破れたり歯が折れた者。脱走して自殺した者や、夜泣く者もいた。
 古年兵は5年もいれば破れかぶれでおかしくなっている。「俺たちは5年もいるんだ、すぐに帰れると思うか」「生きて帰れると思うな」
 外にはシベリア狼の大群がいて、その泣き声を最初は空襲のサイレンかと思った。年に数回だがアムールトラも出たらしい。
 ホームシックは大変なもので気が狂いそうにもなった。星空や月は日本と同じものが見えるんだなと思った。
 私は甲種合格で、剣道も有段だったが、重砲兵としては小柄だったので、毎朝馬の餌60キロを持って1キロ運ぶ作業があり本当に大変だった、一度降ろして仕舞うと自分で上げることも出来ない、出来ないと言うのは許されないのでひきずっていると、先に行った巨漢の同年兵が自分の分を終えて帰ってきて手を貸してくれた。

同年3月 南方への動員令


 連隊長から「喜べ!いよいよ米英との最前線に出勤の命令が出た」と告げられた。
 一部残留部隊を残して朝鮮・羅新に移動、半月ほど訓練しながら待機、沖縄・台湾方面に行く予定だったらしい。米軍の沖縄上陸で行けなくなったのではないか。

・同年4月 国内へ、箱根の山中に移動、第53軍隷下に 

 行き先を告げられず突然出発。羅新港で武器弾薬の積載に従事していたが、完了しても船が動かず暫く羅新市街の山上で戦闘訓練を繰り返していた。
 船内でジフテリアが流行、親友だったSがしょんぼりしている。声をかけると口の中が真っ白、ジフテリアの血清注射が船にはないので亡くなってしまった。彼は慶応の予科の学生で、歌がうまく朝鮮での訓練の時教官に指名されて「歌え」と言われて朝鮮語でアリランを歌った。テノールの美声で、あまりに良い声だったので教官が「もう1回歌え」と言った男だった。
 船員だった人が「佐渡ヶ島だ、間違いない」と言っていたが、間もなく新潟港へ入港。喜んだが「九州から又南方に行くんじゃないか」と言う話しも。夜中鎧戸を落として列車移動。真夜中そっと外を見ると新宿駅だった。原町田という駅で降ろされる。南方は無くなった。
 米軍が相模湾に来た時の砲撃のため箱根山中に布陣。
 箱根の山を大砲が上がらない。本来12頭の馬で引いていたものを、馬は満州に置いてきたので兵隊が僅か20名程で引いたので、皆軍服の肩が破れ血が滲んだ。

同年8月9日 ソ連侵攻

 夜突然集められ、連隊本部から将校が来て「本未明ソ連軍が国境を突破して攻撃を開始した。我が残留部隊は激戦格闘中である、友軍の必勝を信じていっそう励むように」と言った。皆動揺した。
 日ソ不可侵条約の期限があと1年あるので、ソ連はあと1年は来ないと思っていた。残る者はあと1年は生きられるけど、南方に行く我々はすぐ死んで仕舞うと皆羨ましがったのに。

同年8月15日 敗戦、復員

 箱根の山中は電波も届かない。初年兵の半分ぐらいが集められ帰郷を命じられた。山を降りて横浜のいとこの家に行き初めて敗戦を知った。
 後で考えると後の作業をするのに邪魔なやつ、役にたたない奴を帰したようだ。60キロあった体重が45キロになり座ると立ち上がるのに何かに掴まらないといけなかった。
 残った者は掘った穴の穴埋めなどにあたったらしい。

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