インタビュー記録
1927(昭和2)年 台南州斗六街に生まれる
- 父は師範学校卒、斗六郡役所の社会教育書記で半任官の有力者だったため、公学校ではなく共学生として日本人用の小学校に通う。
1941(昭和16)年4月
- 中学受験に失敗したため、父の薦めで東京の中学に留学。
- 1944(昭和19)年3月 卒業
1944(昭和19)年4月 陸軍特別幹部候補生を志願
- 水戸航空通信学校長岡教育隊入隊。
- 台湾人ゆえの肩身の狭い思いはなかった。自分は人懐こいし、古参兵がいなかったのでラッキーだった。
1944(昭和19)年12月 西筑波飛行場の滑空飛行第一戦隊に転属
- 九七式重爆撃機の通信士を勤める。
- 同隊は九七重が大型グライダーを曳行して、敵飛行場に強制着陸させる空挺隊だった。
- レイテに派遣される予定だったがグライダー隊は出発せず、生き延びた。
1945(昭和20)年3月
- 空襲で訓練にならないため、朝鮮宣徳飛行場に移動。
- 連日夜間の離着陸訓練。
- 上官は元大学生、ぶっとばす人はいない。
1945(昭和20)年6月
1945(昭和20)年8月15日 新安州飛行場へ移動準備中に敗戦
- 玉音放送は聴いたが、雑音も多く、何を言っているのか皆よく分からなかった。
1945(昭和20)年8月16日 新安州飛行場へ移動
- さらに敗戦と不穏から平壌飛行場へ移動して次の命令を待つ。
- 大同江で泳いだりしているうちにソ連兵が来たので汽車に乗る。
- 沙理院で止められ武装解除。
1945(昭和20)年9月
- 民間服に着替えて数人で鉄道沿いに大邱をめざして歩くうち、避難民を乗せた貨物列車が来たので乗る。
- 新幕駅で日本の大尉が「男で軍歴のある者は一歩前に出ろ」というので正直に出ると、元山までソ連兵に連れて行かれる。逃げた人もいるが、一人では食えないため結局戻ってきていた。
- 興南の港から船でポシェットへ、さらに鉄道で西へ向かう。心細かった。
1945(昭和20)年10月ころ
- 23日後に中央アジア・カザフスタン・北部グズホルダ収容所に到着。抑留生活がはじまる。部隊はばらばらの混成隊だった。
- 中国に引き渡される(台湾に帰れない)ことを恐れ日本人で通す。ソ連側の記録では本籍茨城県の日本人になっている。
- 作業はモッコを担いだ土木工事が多かった。長さ約300m、巾約100mを10mの深さに掘る。何に使うのかはわからない。その他コルホーズでの芋掘り作業、電柱を立て碍子のまわりに電線をまく通信関係の作業もあった。
- 元気なソ連兵はヨーロッパ戦線に投入されたため、満州に来たのは囚人部隊だった。シベリアは若い人か傷痍軍人が多い。カザフスタンには日本の植民地時代ソ連側に逃げ込んだ朝鮮人が、さらにスターリンに強制移住させられて多く住んでおり、運転手などを勤めていた。
1947(昭和22)年7月13日 舞鶴に復員
- カザフスタンからウラジオストックに戻った約1500人の間で、帰国者は苗字のあいうえお順に決まった。自分は大山だったため、早めに帰国できた。
1952(昭和27)~1953(昭和28)年頃
- 日本にいる台湾人の間で新中国建設熱がさかんになった。ちょうど台湾で二二八事件があり独裁政権だったこともあり、多くの大学卒の友人の台湾人が日本から中国に渡った。
- 日本人と結婚した人は、奥さんが里帰りと称して日本に戻り夫も戻ることができた。しかし独身で行った人や夫婦とも台湾人の場合は、みな消息不明になった。
- 自分は大学生だったので行かなかったが、一年早ければ、行っていたかもしれない。そうすれば文化大革命などで今はなかった。
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