インタビュー記録
1941(昭和16)年 徴兵検査
漁船に乗っていたとき肋膜を患っていたことがレントゲンで判明し、丙種合格となる。当時丙種は「第二国民」といわれ、低く見られた。そのため、国に役に立つ技術を身につけようと、自ら大阪高等海員養成所へ入所。
1943(昭和18)年 召集を受ける
学校は途中退学するが操船技術の急所は身につけていた。
1944(昭和19)年3月 暁2948部隊 第3揚陸隊に入隊(原隊 盛岡)
同年4月はじめ小舟機関士として、ニューギニアのホーランジア地区、コタバルに上陸。
4月22日、ホーランジアに米軍上陸。
4月25日、タバルから250キロ離れた友軍基地のあるサルミへ転進命令がでた。揚陸隊の兵士たちは、ガソリンの入ったドラム缶を海に浸かって転がす労働を夜も眠らず続けていた。その極度の疲労のため、転進最初の1週間ほどで、5~6割の兵士たちが落伍していった。小舟機関士である遠藤さんは揚陸作業から外れ、体力の極度な消耗からは免れることができた。
転進中
遠藤さんは飯盒の側面に穴を開け、底に火種を入れて持ち歩いた。途中で見つけたカニやトカゲを火にあぶって食べ、栄養を補給した。
生で食べた者はアメーバ性赤痢になり下痢で体力を消耗していった。飯盒から出る煙が敵に発見されると非難する者もいたが、耳を貸さなかった。なんとしても生きて帰って、この凄惨な戦場のザマを伝えるという決意が遠藤さんを支えていた。
途中、最大の難所はトル河の渡河であった。兵士たちはトル河をさえ渡れば、友軍のいるサルミにつけると思っていた。
渡河を前に体力を取り戻そうと兵士たちは休息を取った。ところが、いったん休むと再び動き出すことができない。潮が引くのを見計らって、大きな木を倒してつなげ橋を作り渡ろうとしても、それに上るだけの体力がない者も多くでた。中には、渡河を前に、長い椰子の葉を抱え、妻や子の名前を叫んでさまよう兵士の姿もあった。
写真は渡河を目前にして多くの戦友が亡くなったトル河の広い河口(2004年撮影)
長野県ニューギニア会(http://www.newguinea-nagano.jp/)提供
遠藤さんは中隊長の当番兵をしていた。渡河の前、その中隊長の残した食事を食べていたとき突然米軍の艦載機が川沿いに襲ってきて、もう一人の当番兵が戦死した。そのとき、河で体を洗っていた中隊長は、流されてそのまま見えなくなった。一人河を渡った遠藤さんは歩き続け、沢で兵士3人が米を研いでいるところに出会った。
「水をください」と声をかけたところ、そのうちの1人が同郷の友人とわかった。「カツ(勝太郎)さんみたいに元気で歩いてくる人は初めてだ。一緒にこい」といわれてついていくと、何ヶ月ぶりかの米の飯をご馳走になった。遠藤さんは命を永らえた。
約2ヶ月半かけてサルミにたどり着いたときには、マラリアやアメーバ性赤痢にかかって落伍者が続出し、生存者は部隊1300名の中の1割に過ぎなかった。
「自分は小さいときから苦労を重ね育ってきて、生きるための知恵と機転を身に着けていたのだと思う。ほかの人と同じことを考えていたのでは、生き延びられなかっただろう」と遠藤さんはいう。
サルミに着くと、転進部隊の者たちはシハラというところで自活生活に入るよう命じられた。芋などを植え食糧とした。芋は2ヶ月ほどで収穫できた。シハラでは同じ部隊の本部の軍医が訪ねてきて親切に面倒を見てくれた。キニーネなども分けてくれ、大いに助かった。この間に終戦を知った。
1946(昭和21)年 復員
復員船(アメリカの船)がやってきた。シハラで亡くなった兵士の慰霊塔を焼いて灰にし、持って帰った。同年6月、名古屋に上陸した。