インタビュー記録

日本鋳造に就職

 組ごとの受取仕事で働いただけお金になる、15歳頃には大人並みの給料を得ていた。
 父親が小豆蕎麦で失敗していたので決まったお金が入ると母親が喜んだ。
 皆は夜はダンスホールや麻雀、ビリヤードなどに行っていたが、自分は2時間の残業後自転車を飛ばし夕食を抜いて家の裏の小学校の青年学校に通っていた。母は5年行くと兵隊が3年の所2年で帰れると目算があったらしい。

1938(昭和13)年 徴兵検査 甲種合格

1939(昭和14)年1月10日 水戸工兵14連隊第1中隊補充隊に入隊
(本隊は北支派遣軍として開封に駐屯)

 4ヶ月間の初年兵教育。
 歩兵の訓練の他、操舟、爆破、木工なども。茨木、栃木、群馬、長野の兵隊で舟に慣れている者は少ないので大変。操舟で大きな橋を架けたり、木橋も。中川で訓練、淵は凍っている。蹴飛ばされて河に落ちて河岸に立たされたり。

同年4月?   開封に

同年12月27日 帰国 広島湾の似島(にのしま)で検疫

 1940(昭和15)年1月 第1回選抜上等兵昇進
同時に第一内務班の班付を命ぜられる

 160名から10名ほどが第1選抜の上等兵となった、成績は2番ぐらいと聞いていたが5番で発表された、1~4番は中学出。嬉しくてすぐに上等兵の肩章を付け不寝番に立った。
 初年兵教育8ヶ月間。

同年8月 初年兵を連れ満州・斉斉哈爾(チチハル)に半年間

 斉斉哈爾の警備や演習。
 この時期ソ満国境警備をしていた第2中隊で、兵舎は寒いので1階を地下に作っているが、そこに演習中に発煙筒を投げて一人の死者が出た。そのままでは中隊長も具合が悪いので戦死として江原さんが遺骨を持ち帰ることに。ウラル丸(後に病院船になった客船)で神戸に。2日の滞在で下関→釜山→四平街で帰隊、道中一緒になった人が水戸の工兵出身で大変親切にされる、朝鮮・大邱(たいきゅう)ではりんごの箱を買って貰った。
 帰隊するやいなや連隊長の当番を奥さんが来るまで命ぜられる。(一軒家に住んでいる)

1940(昭和15)年 2中隊と交代で国境警備へ

 兵長(同日付)伍長勤務。酒保の班長を命ぜられる。
 寒いところ、衛生兵が下げている寒暖計が下の方が長い。零下42度とか。5月になるとどおーっと山の音がして水が流れ出し、2日ほどで土が見える。花が咲き出し春が来る。迎春花(インチュンホワ)(オキナグサ)が咲く。誰もいないところ、いるのはノロ鹿、タヌキ、狼。芍薬なども咲き、誰も取るものもなく、とても綺麗。
 8月になると朝表の灰皿が凍る、9月5日には吹雪。H少尉が谷間を歩いていると、山の稜線両側に狼がだーっと並んだらしい。これは大変だと軍刀を抜き真ん中をそーっと歩いたら何とか逃れられた。朝散歩に行ったのが帰ってくると尻尾を持っている「それは何だ」と聞いたら「狼だよ、取っ組み合いやっちゃったよ」と言って尻尾を振り回していた。

1942(昭和17)年5月 佐世保に帰国。水戸に戻り伍長に任官

 日本は山は青く海があり美しかった。検疫で白衣の看護婦にお尻を触られるのも嬉しかった。
 中隊の同年兵で伍長任官は1名だけ。善行章も貰った。
 復員時迎えに出るから7時に駅にと町会から言われ、東神奈川の駅に降りるとざ~っと人が並んでいた。伍長になり、勲章や記章も吊っている。万歳、万歳されて、その足で皆で鎮守の杜をお参りする。

日本鋳造に戻る

 日本鋳造は軍需工場の為、町の魚屋や八百屋が徴用工として200名ほど徴用されていた。この指揮を命ぜられる。徴用工は家庭があっても全寮制、この紫雲寮の寮長も務める。
 朝は体操に駆け足、この頃は履き物が無くて下駄履きの人も多く気の毒だった。夕方は隊列を組み軍歌を歌いながら帰寮、会社の役職の人を見ると皆で敬礼する、練習と思ってやらせていた。寮長の方は家庭持ちだから外出などは緩めにみていた。青年学校での教官と兼務、この頃大きな会社は皆青年学校を持っていた。
 在郷1年7ヶ月。

1944(昭和19)年3月11日 水戸工兵隊に召集

同年3月16日出発、3月24日青島上陸、4月1日南京にて分隊長交付

 独立混成第81旅団工兵隊(久保田部隊)、第一中隊第3小隊第4分隊長。
 今まで取られなかったような兵隊を取り出した。分隊には38歳、36歳がいた。
 大阪からコロ島を経て南京まで来たら旅団司令部勤務を言われた。

旅団司令部参謀部勤務を命ぜられ、兵1名対同勤務に付く

 本来参謀本部勤務になるはずだったO軍曹が字が書けないから嫌だと言ったので、准尉が各人が書いた書類をめくって江原さんを選び、分隊長交代になった。
 漢口まで舟で動くはずだったが米軍機の攻撃が激しく諦める。参謀部用の馬の調達をしなければならず大変だが自分の荷物も載せてしまえるメリット。行軍の苦しさに腹に銃剣を突き立てて自殺を図る兵隊も出た。“しんし”で休憩をした時に機銃掃射を受ける。軍医は薔薇の茂みに逃げ込み棘だらけに、江原さんは天幕に逃げ込んだが鉄兜を取り忘れこれで終わりかと思った。負傷者は出なかったが散り散りになった馬を探すのに苦労。漢口→武昌→岳州→長沙→湘潭(しょうたん)。手書きの指令書を書き直しガリ版で刷らせて廻す仕事。
 モルヒネ中毒になった軍医がいた。衛生兵や、馬用のモルヒネまで探し出して取って仕舞うのが旅団長の耳に入り、入院させようとなった。当番兵と一緒に彼を湘潭から漢口まで河を舟を乗り継ぎ送っていく事になる。モルヒネがないと「何とかしてくれ~」と言うので内緒で持ってきていた者を調達したと渡すと自分で打って、5分もすると打って変わって元気溌剌になる。
 通過部隊を見てくるからと言って通りかかる衛生兵を本人が捕まえてモルヒネを持って来てしまう。軍服はおっぴろげて下に支那服を着ている、軍刀も引きずって歩いている、「漢口に着いたんだから何とかしてくれよ」と言った。入院前に偕行社に泊まらせてくれとせがまれたが、一杯だったので揚子江飯店に宿泊させる。連隊長からの手紙を病院長に渡す。各将校から頼まれたことづけや物資の調達を片付ける。主計中尉からの頼まれは話しがついていなく判も無いので怒鳴られたが翌日もしらばっくれて同じのを持っていったら今度はくれた。その時メモに煙草を書き足して貰ってしまいお金に換えて買い物をする。長沙まで来てコレラか腸チフスになったが正露丸だけで治った。旅団長に呼ばれねぎらわれる。

1945(昭和20)年3月 任陸軍軍曹(同日付一等級)

同年7月 司令部勤務解除。本隊に帰る。部隊本部恩賞係となる

 曹長と古参軍曹を内地防衛の小隊長要員として帰国させると言われていたので、丁度仕事もなく対象になると「しめたしめた」と思っていたが、副官に気に入られていたため残され恩賞係となった。
 部隊全部の軍隊手帳を預かる。同じ内容の戦時名簿も扱った。燃せと言われ、困ったなと2~3日そのままにしていたが、「燃したか」と副官に急かされ燃した。

同年8月 終戦後、復員班となり、書類製作

 幾日か後に先に燃した戦時名簿をもう一度作れと言われて参った。兵隊に一度書かせ集めて、天幕の中で灯心の灯りで伍長と二人で作った。英文と日本語と必要だったが、副官が法政の英文科卒業だったので英文も何とかなった。
 あらゆる機械や軍馬まで中国軍に渡したが、その使い方が分からないので「シーサン、シーサン」と呼ばれ教えたので、捕虜という感じにはならなかった。土匪がいるのでと山砲以下の火器は上海まで持って良いと言われたが途中で武装解除されたので木刀を作り移動。

1946(昭和21)年

 佐世保に復員、佐世保の荷下ろしの途中、検疫でコレラが分かり港外に戻されて1ヶ月待つ。衣類が配られ、航空兵のジャンバーを貰う。
 下関から開拓団の人達が乗ってくる。湯河原手前で列車が脱線を起こして軍装で湯河原まで歩くことに。品川、渋谷を経て帰宅。

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