インタビュー記録

1937(昭和12)年3月1日 志願

 支那駐屯歩兵第2連隊

同年7月7日 盧溝橋事件

 昌黎(しょうれい)で演習に出ていた。演習でも半分は実砲を持っており手榴弾も持ち、何時でも出られる状態にあった。夜間、おい何かおかしくないか? 実弾の音で相手は実弾を撃っていた。やっちまえと言うことで演習から支那事変が始まっていた。

同年7月29日 通州事件

 翌日から1昼夜歩いて通州に、数日警備を行い天津に戻る。

同年10月半ば~11月半ば 太源作戦

 山西省太源・忻口鎮(きんこうちん)へ、5師団が壊滅した後で兄はここで戦死している。隊長が飯盒のかけ盒に酒を入れてきて、「今皆は元気でいるけどこの顔は数分後にはもう見られないんだ。これがお前らの別れだ」。舐めるぐらいしかない。8人の決死隊みたいなもの、2名しか残らなかった。地雷爆発で埋まったり。

 工兵隊が相手の目前で隧道を掘り爆薬を詰める、これを埋めるための砂袋を作っていた。防空壕に入りこの砂袋を頭の上に被っていたら、そこに爆弾が落ちて頭から砂を被ったが怪我はなかった。

 先頭を走って地雷を引っかけると時間差があるので後ろの人間がやられているが自分は助かる事が何度もあった。砲弾も近くで開くので45度に広がると下半身は負傷するが上半身はやられない。軍医に本当に運の強い奴だと言われていた。野戦は麻酔もなく、しゃりーしゃりーと切る音が聞こえる、本当に脂汗が出た。

 我先に行くので歩兵が前に出すぎて仕舞って、砲兵が太源城城壁を壊すための砲弾を撃てなくなって仕舞った。砲弾は城内を狙って撃ち込む。壊れかけた城壁に昇り降りられなくなって1~2日城壁の上で過ごす。何も食べていないので城内の子豚を殺し焼いて食べた。城壁のすぐ内側は弾薬庫だったが、そこで火を炊いて子豚を焼いた。

 同年12月、黄河渡河作戦のため付近の警備に従事。
 同年12月15日 倫鎮付近の戦闘に参加~天津へ。

( 1937年(昭和12年)7月15日、臨時動員下令。編成完結 )

1938(昭和13)年2月10日、支那駐屯兵因編成下令

 同年2月26日、第5中隊に転入。3月23日編成完結。
 同年6月 第27師団編成。7月、通信隊に転属。
 同年8月 南京に。

同年10月9日 負傷

 1個分隊を連れていた。大腿部を叩かれたような感じ、迫撃砲で左大腿部と右上腕、右手を負傷、白いシャツが全部真っ赤になっている。本部ではあいつはもう駄目だと言われていた。ヨーチンしか知らないからだ~っと流すがしびれているので痛くも何ともない。トラックで野戦病院へ、悪い道で仮包帯してもまた血が吹く。野戦病院は水を持ってくる人もいないので、動ける人間は人の水でも何でも飲んでいる。包帯を交換しないので膿んでくる。自分でガーゼ交換、自分で入れるのはやりにくい。市内内田部隊野戦病院、瑞昌野戦病院、南京野戦病院と転送。

1939(昭和14)年2月1日 原隊に復帰

 治っていないのに若気の至りで退院してしまった。

同年7月2日 交代帰還で坂出港に帰国

 歩兵43連隊留守隊に転属。

同年12月 除隊

1940(昭和15)年 青年学校の教官

 兄弟がアルゼンチンにいたのでそこに行きたかったが、渡航に呼び出し状が必要。
 待っていたら青年学校の教官をやれと言われ、断ったら「非国民だ、留守中面倒をみてやったのに帰ってきたら奉公しないでよそへ行くのか」と言われた。

1945(昭和20)年

 8月に召集予定で令状は4~5月と随分早く来た。自分より後から令状の来た者がどんどん入隊した。
 広島で被爆、そのためそのまま入隊はしなかった。

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