インタビュー記録

1936(昭和11)年 徴兵検査

1937(昭和12)年1月10日 
  第14師団隷下の高崎・歩兵第15聯隊に現役入営。

1937(昭和12)年1月10日 
  第14師団隷下の高崎・歩兵第15聯隊に現役入営、初年兵教育。

1937(昭和12)年7月 
  蘆溝橋事件勃発。第14師団に出動命令下命。

1937(昭和12)年9月 天津の郊外 塘沽(とうこ)に敵前上陸。

 塘沽は町というより貧しい小さな村。住民は逃げて居なかったが敵軍が居た。大きな戦闘がありかなりの犠牲があった。
 しかし自分たちは、日露戦争の乃木大将のように味方の屍を乗り越えて進むという教育がされていた。だから怖いとは思わなかった。敵をやっつけるために生まれ、軍隊に入ったという観念を植え付けられていた。天皇陛下のために死ぬのは名誉だったので恐れない。死ぬよりも辛い訓練を受けている。だから敵にとって日本軍は怖い。

 塘沽攻略後すぐに天津を攻撃し北京に進撃。当時の北京は今ほど重要視される街ではなかったが中国軍の師団司令部があった。
 当時中国には共産軍と蒋介石の正規軍があり、北京付近の山西省には閻錫山軍が居た。閻錫山は当初共産軍とは喧嘩はしていたが日本軍が来ると共産軍と協力して戦った。

徐州会戦

1937(昭和12)年秋から年末

 第14師団は北京と漢口を結ぶ中国最大の鉄路「京漢線」に沿って南下したが、黄河で敵に鉄橋を落とされて進めなくなり青島の方に向かった。
 蒋介石軍100万が徐州に集結中との情報を受け日本軍は兵力を増強して徐州作戦を開始。

1937(昭和12)年末から1938(昭和13)年の春 山東省に14師団は移動

 それを聞きつけて小説家の火野葦平が従軍記者(註:陸軍報道班所属・軍曹)として私の部隊に来た。火野は当時あまり有名ではなかった。普通の新聞記者だと思った。3月から4月のことだ。その後私は火野と一緒に行動した。

1938(昭和13)年4月~6月 戦闘

 関東平野のような徐州平原(黄河と揚子江の間の大平野)では3月ごろに綿花の種を植えるのであろう。戦闘は4月、5月には戦闘が始まり6月が盛りとなった。その頃綿花の木は40~50センチくらいに育っている。戦闘が始まると中国軍の機関銃に撃たれる。その綿花畑に這いつくばっていると機関銃で撃たれた綿花が飛び散って前が見えない。それでも突撃。
 戦死者・負傷者も10倍くらい出たが私には不思議と当たらなかった。ずいぶん戦友が死んだ。その時の事を火野が「麦と兵隊」に書いたようだ。その時は見せてもらわなかったが・・・。 それが6~7月の事だ。

1938(昭和13)年8月  徐州に入城。

 そのあと我々14師団は北京に集合と命令を受け北上した。4、50キロの装備を背負って1日に8里(30キロ)歩く行軍。あの大陸を歩くのが嫌だった。北京に着いたのは9月頃。
 徐州に行くときは黄河鉄橋が落とされていたが、北京へ行くときは青島方面にも鉄道があって、鉄橋を渡った。

 私物のカメラを持っていた。その頃カメラは高級品だったが子供のころからメカ好きで持っていた。入営しても手放せず上陸から写真を撮っていた。

 天津から北京までは共産軍と、徐州会戦では正規軍とそして徐州から北京へ戻る時は共産軍と戦争しながら進んだ。共産軍は共産八路軍。一絽軍、二絽軍とあった。
 毛沢東の共産軍と撃ち合っていると後ろから撃ってくる。おかしいなと思うと蒋介石の正規軍だったりする。そのうち一緒に攻撃してくるようになった。そういう戦闘を方々でやっていた。
 戦死者が多かった。 野原で戦死者を荼毘に付し骨にして北京まで持っていき国に送った。

 自動車に乗っている写真は自動車部隊。徐州作戦で徐州に行くときに麦、米、醤油、乾パンなどの糧秣弾薬を自動車に積んで輸送した。それは上海から上陸した部隊だった。上海の方から物資の援助をしてくれた。我々は徐州でそれを受領してそれを食べながら戦争をした。その何十台という自動車が空いたので乗せてもらった。元気な者は歩いたが負傷兵や弱い人は自動車に乗せてもらって北京へ向かった。

1938(昭和13)年秋 北京

 1938(昭和13)年秋、北京にいた。その後は北京付近の討伐をやっていた。同年12月 京漢線鉄道警備に就く。

1939(昭和14)年1~7月 京漢線開封市の警備に就く。

ノモンハン事件

1939(昭和14)年 ノモンハン事件が始まった。

 8月 北京の宇都宮師団が近いというので最初に私の1個中隊がノモンハンに応援に行ったが行った途端に戦車砲でやられた。
 なぜ一個中隊かと言うと軍には先兵と本隊があり1個小隊60~100名が先兵として先行する。
 その先兵からさらに尖兵60名が出る。私はその隊長だった。その時は中隊長。階級は中尉。
 私は60人の兵隊を連れていったが、ソ連の戦車砲1発で60人が吹っ飛んでしまった。
 それだけソ連の戦車砲はすごい。話にならない位でかい大砲で、撃たれると100~200メートル四方何も無くなる。私も撃たれて20メートルくらい飛ばされた。血だらけだ。鉄帽が割れて飛んでしまい顎紐だけが残っていた。
 生きてたからわかるのだが、空がだんだん暗くなっていく。朝だったのに夕方のようにだんだん紫になりだんだん見えなくなっていったのを覚えている。体はしっかりしていても出血で目が見えなくなる。
 3日ほど仮死状態だったらしい。野原の死体集積所に運ばれたらしい。戦死者は大根のように積まれてしまう。何百人も戦死者が出たがそんなに火葬にできない。だから3日間置いて置かれた。3日目にスコールがあって気が付いた。蘇生した。
 しかし長くは生きられないだろうと思われ飛行機で後送され内地の陸軍病院に運ばれた。

1939(昭和14)年12月までの2,3か月入院した。

1939(昭和14)年12月 宇都宮第14師団が凱旋帰国。

 歩兵第15聯隊も高崎に帰って来た。

1940(昭和15)年7月 支那事変論功行賞

 勲章と80円と2、3百円の二つ国債を貰った。

1940(昭和15)年1月から~1941(昭和16)年

 高崎の部隊で教官を勤めたが私は負傷者なのであまり使ってもらえなかった。
 兵隊の基本訓練を担当した。正月に初年兵が入営し5月と9月に補充兵が入営するので忙しい。その時は中隊長だった。

1941(昭和16)年12月 近衛師団の部隊附に転属。

1942(昭和17)年10月 南方軍特殊部隊に転属。

 昭和13年の秋、徐州作戦終了後北京に居た頃に中野学校が開設されたと聞いた。
 中野学校の教官をしていたが、小野田少尉は7期か8期生で教えたわけではない。

タラカン島

1944(昭和19)年3月29日

 タラカン島に行く前に田口軍医総監、陸士49期一同から日の丸の寄せ書きを貰った。戦死してしまうと無くなってしまうので日本に置いて行った。

1944(昭和19)年5月 タラカン島へ派遣される。

 学徒出陣の学徒兵を率いていた。
 九州を出発し台湾高雄に上陸。当時の高雄の兵站には若き日の中曽根康弘元首相が海軍の主計見習い士官(註:終戦時海軍少佐)として勤務していて物資を貰った。
 タラカン島には一緒にいた人(註:宮地喬氏)が「タラカン島戦記」という本を書いている。
 高雄を出た日かその翌日にバシー海峡で乗っていた船が撃沈された。十隻以上の船団だったが船団の司令部の船だけやられた。
 撃沈されて漂流3日目に筏に乗った。海軍に助けられたが、救助には来たが船は止まると(敵潜水艦に魚雷を)撃たれるので止まらないでぐるりと回る。だから船と反対方向に泳いで行って待っていたら船が近くに来た。ロープを腕に巻きつけて引き上げて貰った。とてもではないが自力では上がれない。
 なぜ司令部の船だけがやられたのだろうか。情報が知れているのか。それとも軍旗があったからかわからない。
 救助されてマニラに上陸した。特派員も皆死んでしまった。
 タラカン島に行く事を秘匿するために陽動作戦として比島各島などに上陸した。

1944(昭和19)年7月 タラカン島に上陸。

 当時タラカン島には良質の油田があり海軍が居て燃料の確保していた。我々は海軍の港についてすぐに陣地構築を始めた。陣地は構築したが、我々が中国の戦場で体験した戦闘と違い敵の艦砲砲撃で陣地はみな吹き飛んでしまった。
 蛸壷が殆どで塹壕とジャングルの木材と土で作った援体壕の陣地だったので大きな大砲で撃たれると跡形もなく平らになってしまった。吹き飛ばない陣地を作らなくてはならなかったが、そういう物は出来なかった。だから犠牲が大きかった。でもその頃はそこまでわからなかった。そういう教育を受けていなかった。
 島には海軍の飛行場もあったが爆撃されてすぐ破壊されてしまった。

1945(昭和20)年4月29日 連合軍が上陸。

 敵が上陸するのは艦砲射撃の様子でわかる。空襲は毎日あるが、その時は軍艦で来ているのだから兵員を載せて来ている。上陸は間違いない。
 その上陸地点に私は居た。タンク山陣地。その先端に私が居た。猛烈な艦砲射撃を受け周りは殆ど戦死したが私は生き残った。よく助かったと思う。

 私はタンク山陣地の独立歩兵第455大隊第2中隊に居た。
 蛸壷の中で榴散弾を受けて2~300の破片を浴びた。一篇にではないが細かい破片を250個ほど体から抜いた。毎日自分で破片を抜く。榴散弾を受けると傷は化膿するのですぐ取れる。榴散弾が当たると軍服が裂けてしまう。極端な話素っ裸になってしまう。
 それが一番ひどい負傷で4月29日か30日の事だ。
 タンク山で戦死した人に富士銀行、当時の安田銀行の支店長だった豊島少尉という人がいた。その人の息子さんが最近私の所に最後の様子を聞きにきた。だから戦死の状況を話した。豊嶋少尉は私のすぐ近く2メールほどの場所に居て同じように榴散弾を受けた。軍服もちぎれてしまった。私は榴散弾を足に2,300発と腹に受けたが豊島少尉は当たりどころが悪くて死んでしまった。第二中隊は15人くらいになってしまったが、その時他の部隊はまだ無傷だった。その後敵の上陸軍と毎日戦闘になった。

白兵戦

 最初の頃は大部隊同士が白兵戦をやった。上陸地点ではなく島の中部で、お互いに機関銃や砲を撃ち合って戦った。戦闘の後半斬込み隊が活躍した。
 日本陸軍の銃剣術は世界一強かった。今の自衛隊よりも強い。日本軍に突っ込まれると10倍くらい居ても敵の連中はみな逃げた。敵は海の中まで逃げて泳いで逃げて行った。逃げる奴は撃たない。撃ってやろうと言う人も居たが、逃げる奴を撃つなんて。
 50メートル以内になった接近戦では銃は使えない。白兵戦だ。銃を使おうとすると敵に突っ込まれてしまう。だから突っ込んで行くしかない。毎日白兵戦でよく生き残ったと思う。白兵戦はここを銃剣で突かれた。突き抜けてしまった。

 海軍の陣地、陸軍の陣地があったが共同して戦った。
 5月の半ばに 敵が来るのをここで食い止めようと陣地を構築した。
 私は敵の次の攻撃は迫撃砲だと考えたので穴を堀り、ジャングルから丸太を切ってきて蛸壷の上に積んで砂をかけて、更にその上に木を並べて防備陣地を作った。
 私の勘が当たった。敵は我々の陣地が手ごわいと見て迫撃砲で撃ってきた。しかし丸太を幾重にも積んでいたので1メートル四方に17発の迫撃砲弾が命中したがみな助かった。戦争も頭を使わないといけない。
 激戦地ばかりだが生き残れたのは運ばかりではなく神様に助けられた気がする。逃げたり後退した所がやられた。

斬り込隊について

 斬込み隊は陸軍だけだった。最初は5、60人で編成した。斬込み隊は適宜 人数を選抜して編成する。私が東京の教育隊で教えた兵隊が主体になった。
 また斬込み訓練を中野学校でやった。
 例えば歩哨の居る陣地に接近する時は、昼間では不利なので夜襲をする。音がしないように歩き匍匐前進する。木の葉や枝があっても踏まないように手で触ったら音がしないようにどかしながら進む。だから夕方から翌朝までかかる時もある。それが斬込み隊の一番大事なことだ。普通の兵隊ではバレてしまうのだ。しかし敵は犬を放すようになった。犬が飛びかかってくる。拳銃で撃てないから斬るしかない。

 斬込み隊の編成は自然と編成されるようになった。斬込み隊は部隊とは別に神出鬼没で行動する。結構効果があった。
 斬込みに行く時は軍服に軍刀を差して拳銃だけ持って他の装備は全部置いていく。
 斬込み隊は一般兵の中から斬込み訓練を受けた者を選抜するが少しの訓練で隊員になれる。特別な物ではない。学徒兵からも参加した。
 兵隊の基礎訓練は敬礼などの格好訓練から銃剣など戦闘訓練と分かれるが、それ以上の事はしない。3箇月から4箇月で初歩の戦闘訓練をすると一等兵になる。そうして一人前の兵士となった中から斬込み訓練を受ける兵士が選ばれる。

 私は日本の小銃が重いので小さいオランダ銃というオランダ時代の小銃を使っていた。他の兵隊は三八式や九九式短小銃だった。
 バシー海峡で輸送船が沈んだ時に携帯した武器をなくしたが、補給がついたので装備はあった。
 私は支那事変の時も銃剣で戦った。(軍刀も)荒木又右衛門や宮本武蔵ならともかく兵隊の二段くらいでは戦争では通用しない。拳銃なんか戦争には通用しない。拳銃は20メートル以内。私は軍刀を使った事がない。山砲なども陣地にあったが艦砲射撃で全滅してしまった。

戦況報告

 こうした戦いの様子は朝日新聞で報道された。
 タラカン島には記者が居なかった。来たけれど戦死したのかもしれない。
 それでボルネオ本島に連絡するのに伝書鳩を使った。40キロ先のボルネオ島の海岸に連絡員が居た。そこで伝書鳩が訓練を受けた。
 タラカン島でも敵上陸までは無線で連絡はしたが戦闘が逼迫して無線が使えなくなってからは伝書鳩を使った。私の陣地に巣を作ってすぐに使えるようにしておいた。
 私はできるだけ細かく戦況を書いた。弾の下で書いたので上手くは書けなかったが、要領だけ書いて送り、盟通信の記者がそれを文章に直した。  その時の記事を今も持っている。1945(昭和20)年4月から6月まで。自宅に配達された新聞を家族が保管してくれた。この記事の元の情報を送ったのは私で情報を運んだのは伝書鳩だ。ボルネオ島の同盟通信経由で配信されて朝日に掲載されたのだろう。
 送った伝書鳩が戻って来た時に自軍の陣地が敵の陣地なってしまうこともある。それでは鳩が可哀想なので斬込み隊を使って敵の陣地に鳩を探しに入り込まなくてはならない。
 あの時の鳩はどこに行ってしまったのだろう。かわいそうなことをした。靖国神社に行くと伝書鳩がいる。普通の人にはわからないだろうが、私にはわかる。一般の鳩とは違うのだ。

飢餓戦について

 人間が生きるためにどうすればいいかと気がついた人は生き残る。気がついても行動しない人は餓死する。私は米や麦を食うのは人間だけで牛や馬は草だけで生きていることに気がついた。そこで牛や馬になった気で草やジャングルの木の葉を食べた。葉には栄養も水分もある。一週間で慣れた。戦争でなければ経験できない人間の限界を何ども経験した。
 体の大きな牛や馬が持ち堪えるのだから人間が持ちこたえないわけがないと思っていた。しかし木の根っこは最初のうちでだんだん無くなってくる。食べられる植物がない場所もある。
 死んだ人を食べたという話は聞いたが見ていない。否定は出来ないが私は見ていない。
 空腹ばかりでなく人間が死んでアメーバー赤痢が蔓延した。私もアメーバー赤痢になった。食わないのだから下痢しても出るものがないと思っていたが血が出た。
 死んでもいいから腹いっぱい食いたいと思ったので泥を食う前に 防毒面のガスを濾過する薬品を死んでもいいと思って食べた。 死んだ兵隊の防毒面を取って食べた。そうしたら赤痢が治った。あとは艦砲射撃で焼けた木も食べた。人間が死んでいる水溜まりの水も飲んだ。そうしたら赤痢が治った。炭を食べると下痢止めになった。
 神様に生かされた。そういう事が頭に浮かぶのは神様の賜物だと思う。
 敵の食料を奪ってやろうと思ったが相手の方が多いので適わない。
 空腹が何日も経つと腹が減るのがわからなくなる。頭がボケていて普通じゃなくなる。それで偶然炭を食って助かった。手榴弾を川に投げて魚を採った人もあるらしいが使い切ってしまった。

 一緒に行動した人は若かった。私が一番年上だった。学徒兵も大勢いた。
 私の弟も1943(昭和18)年の学徒出陣で召集された。今生きていれば85才。学徒兵の人たちは今それぐらいの年齢だろう。若い学徒兵は早く死んだ。
 自分たちは支那事変で戦争を長くやってきたし運もよかったので生き残った。
 ある程度経験上の勘がある。 敵が撃ってくると次にどこに来るかがわかる。それが判る指揮官が居ればいいが、居なくなる。自分が生きるので精一杯で部下にかまってられない。

1945(昭和20)年8月15日以降

 1945(昭和20)年4月29日の艦砲射撃で日本軍は約1割になってしまった。
8月くらいに弾が来なくなっていた。いやに静かになったなと思ったら終戦だった。終戦になったので敵も撃ってこなかったのだろうが、日本軍も手も足も出なくなっていたのだと思う。私も弾薬が無くなっていた。
 死んだ人も多い。6000人くらい居たが600人も生きていない。他の人に会わなかった。敵から降伏の呼び掛けがあったがありえないと思った。
 ボルネオの友軍との連絡もつかず孤立していた。

 筏を組んで島を逃げ出そうとする兵士も居た。一晩筏を漕いで陸地に上陸したらボルネオではなくタラカン島だったという話もある。その人は最初は黙っていたが1996(平成8)年くらいの戦友会で告白した。今は笑い話だが、何十年も黙っていたのは辛かったろう。また丸太を組んで筏を作り海まで運んで浮かべようとしたら、海水より固くて重い鉄木という木だったので沈んでしまったと言う話もある。

1946(昭和21)年夏頃までゲリラ戦

 斬込み隊も最後には私ともう一人の二人きりになってしまった。「二人になったがどうしようか?」と相談した。
 そして「俺たちの居た陣地で戦死しよう」と決めてそこに向かったが既に敵の司令部になっていた。「これじゃ無駄死になるな」と相談していたら後ろから銃剣で刺された。前ばかり見ていたので後ろから来たのに気がつかなった。
 敵兵に「スタンドアップ」と言われた。銃剣を取ろうと思ったが足で踏まれてしまった。私は「撃て!ジャパニーズ・ソルジャー 撃て!」と言ったが「ノー」と言われた。こういう時日本人だったら撃ったと思う。しかし欧米の兵士は撃たなかった。今考えると偉いなと思う。そして司令部に連れて行かれた。
 その後取り調べを受けたが内容は現地人が首実験して悪いことをしたかどうかだけを調べられた。通訳は日本で生まれ戦争で帰国した明治大学出の外人がした。
 「戦争は終わっている」と言われたが意味がわからなかった。勝つか負けるかしかない。だから終戦という言葉が判らない。軍人はそういう言葉は習わなかった。勝つか負けるか死ぬか生きるかしかない。だから勝ったと思っていた。
 タラカン島に収容所があって何人か日本人がいた。

1946(昭和21)年 復員

 連合軍の船で名古屋に帰った。船が着いたのは三菱埠頭だった。夏だったので青草が茂っていてこれは勝ったと思った。青草があるうちはそれを食って戦うだろうから勝ったのだろうと。
 しかしそこで初めて負けたと知った。その時は「冗談じゃない1年も余分に飲まず食わずで、戦っていたのに。内地の人に「俺たちは青草のあるうちは戦った」と言っても内地の人はわからなかった。

 石油が採れるからといって命を捨てたが、それが正しいと思っていた。そういう教育を受けたが後になって考えれば日本は間違った行動だった。友達や先輩がみんな死んでいった。
 情けない事にそういうことを見極める人が居なかった。

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