インタビュー記録

1940(昭和15)年4月 東京陸軍航空学校に入学(第5期生)

1941(昭和16)年4月 熊谷陸軍飛行学校に入学(少飛10期生)


操縦士としての訓練を受けていたが、実施教育の演習中に怪我をして1か月休む。 機上無線に転科、水戸陸軍航空通信学校で機上無線の教育を受ける。卒業時校長賞を受ける。

1943(昭和18)年1月 満州・斉斉哈爾(ちちはる)の独立飛行第53中隊に赴任、飛行第2戦隊に転属

1943(昭和18)年8月 満州・佳木斯(じゃむす)の第4飛行師団司令部に転属


部隊で使用していたのは100式司令部偵察機(新司偵)で、偵察・航空写真を撮っていた。ウラジオストックの飛行場群が対象であった。飛行機の種類、飛行場群の役割戦力が分かってくる。国境を超える時は高度を取るように言われており、砲撃の射程距離に入らない高度を把握していた。 自分自身は国境を侵入した事は無い。主に参謀に付き添いその機上無線の仕事をしていた。

1944(昭和19)年5月 第4飛行師団に動員下令、南方フィリピン・マニラに転進した


バシー海峡を船団を組み魚雷攻撃を避けるため蛇行して航行。皆船酔いが激しい。トビウオが水面近くを飛ぶのが魚雷と見間違えられる事が度々あった。 マニラ港では桟橋にバシー海峡で敵潜水艦の攻撃を受け、戦死された兵士の遺体が多数並べられていた。

特攻の無線受信


ある日「身体を清めて集まるよう」命令が出た。「飛行機から発信される無線を受信しろ」と言われた。これが最初の特攻だったと後から分かった。当時は特攻と言う言葉も知らなかった。 特攻機は存在を知られてはいけないので突っ込む瞬間以外は無線封鎖され、沈黙の飛行機。偵察機から「何時どこどこを通過」と入ってくるのを受けた。 この後何度か同様の任務はあったが、特攻隊員の無線を直接受けることは無かった。

1945(昭和20)年3月


ルソン島各地にそれぞれ勤務していた航空部隊兵士が集められ、臨時野戦第2補充隊が編成された 私が所属していた部隊はマニラからエチアゲに避難していた。 参謀長がこの時初めて戦況を説明、野戦補充隊の編成(40ぐらい編成された)を告げ、バレテ峠で米軍を1日でも食い止めるように命令された。すーっと肝が冷える感じ。

同年同月 バレテ峠へ


峠に着き「金剛山」に掘られた壕に荷物を残して最前線へ向かった。 荷物の見張りの召集兵を残したが、やがて爆撃で壕が崩落し彼は戦死したと聞いた。”妙高山”に壕を掘って敵を迎える準備をする。 自分は軍曹で分隊長だったが一番年下であった。敵情偵察のため斥候に出て右下腿に砲弾の破片が貫通。中隊長には「ご苦労やった」「しかしこれからが本物の戦争や」と言われた。砲弾が来るがそれこそ雨霰で何百発と来る。2~3mおきに1人ずつ蛸壺を掘ってその中に隠れ手榴弾を谷間に向かって放り込んだ。 砲弾が頭の上で炸裂して、その破片が蛸壺の中に飛び込み左足の付け根に突き刺さった。焼肉のような臭いがして、熱さと痛み。破片は手で引き抜いて蛸壺の外に放り出した。 本隊に合流せよと言う命令が出て朝暗いうちに壕を出て、歩けないので這うようにして山を登る。銃声が3~4発聞こえ部下の兵士が即死したが、土というか落ち葉をかぶせただけ、そのまま進んだ。

1945(昭和20)年4月24日(おそらく)


鉄帽で穴を掘って蛸壺を作りその中に潜む。今日が最後の決戦と思われたので、暗いうちに起きて、励ますために部下の蛸壺を覗き話し始めたら、落ち葉がピシャッ、ピシャッとビンタをとられるような音で鳴って一斉に砲撃が始まり、背中に砲弾の破片が突き刺さって気を失った。 部下が元の穴の中に入れてくれたんだと思う。気づくと弾がすべて自分に向かってくるように思える。鉄帽で身体を隠して守ろうとするが上にも下にも鉄帽が何個も欲しい感じであった。 ○蛸壺の中で一人、砲弾がどこに止まっているのかも分からない。「死ぬ、死ぬ。死ぬ」と思い涙が出て、言葉に出来ない悲しさ、寂しさ。 ところがお昼前になっても死なないので、今度は「生きられるかもしれない」「生きたい、生きたい」という気持ちが湧いてくる。そうすると空中勤務者としての自負心が出てきて、空でならともかく「こんな穴の中では死にたくない」と思い出した。 負傷兵に後方へ下がるよう命令、中隊は全滅 あたりには重傷兵が泣き、わめき、痛がり、転がっていた。 小隊長だった学徒兵の少尉が気が狂ったようになって駆け回っていた。 彼らを連れて夜に下がれる者は下がらせろと命令が出た。自分の小隊の小隊長から軍用通信紙に書かれた命令書が渡された。 ○重傷者は本来一人で下がれるような力はなかったが、1歩でもいいから下がれという事で叱咤しながら下がる。下がると言っても曳光弾が後ろから追いかけてくる。大きな木々が砲弾で倒れ道をふさいで乗り越える事が出来ない。 ○足首から切断された兵隊が「班長どの、連れて行って下さい、連れて行って下さい」と懇願する。とりあえず近くの穴に入れ2~3時間後に戻ると、土の塊が胸の上に落ちて絶命していた。阿鼻叫喚とはこのようなことを言うのだろう。 ○4月25日の夜、分隊の兵隊が蛸壺に凄い形相で顔を突っ込み、米軍は戦車を先頭に進んで来た、中隊が全滅した事を告げた。 山中を移動 観測機が飛び回り爆撃目標を修正しながら爆撃してくる。 指で胸を押せばひっくり返るほどの体力であった。日本兵は食糧・爆薬はなく、体は衰弱していた。俺はどうなってもいいと気力がなくなり、眠ったら最後あの世行きで亡くなっていく者が多数いた。 ○ぺんぺん草や春菊を食べる。 キャンガン近くで稲穂の詰まったニッパハウスを見かけた。自分も他の飢えた兵隊も寄って行ったが、左官級の将校が軍刀を振るい追い返された。第4飛行師団司令部のエチアゲ残存部隊が移動してきた部隊であった。

1945(昭和20)年敗戦後 山中での出来事


砲弾が来なくなり、会う兵ごとに「戦争が済んだらしい」と風の便りがあった。川の中を食べ物を探して歩いていると、小さな子供が「兵隊さん、兵隊さん」と呼ぶ。横にお母さんの腐った遺体があって離れられないようだった。靴下に入れて腰にぶら下げていた拾い集めたモミ投げ渡した。 乞食のような恰好をした女性が膝にしがみついて米をくれと言う。(マニラで食堂をやっていた女性。)即座に断ったが膝にしがみついたまま離れようとしない。仕方なく少しモミをやった。 互いに無事に帰れたらと住所を書いた紙を交換した。のちに復員したら、彼女が私の家に生存していることを伝えてくれたらしく実家では私が生きているのを知っていた。キャンガン周辺で食料を探し回っていた兵士が集められ、木や人骨を取り除いて道を作った。何のためか知らなかったが、山下司令官が投降するための道だったらしい。

1945(昭和20)年9月18日ごろ 米軍に投降


指示系統はなかったが、山下司令官が投降したことで関を切ったようにキャンガン周辺の兵士は投降した。キャンガンの小学校で裸にされ武装解除 DTTをかけられてPW(prisoner of war)になった。 組み立て式の寝台を一つずつ渡されて線路を収容所まで歩いたが、寝台が重くて歩けない。 収容所では最初は4オンスの粥が出された。量を増やしたくて水を足して食べたが飢えた。 収容所に蛇が出ると皆で寄ってたかって襲い引きちぎって食べた。泥棒が横行しており、作業をして帰ると、「私は泥棒です」と札を首にかけて箱の上に立たされている者たちがいた。同情して見ていた。「どうせ“バンザイ組”がやらせたのだろう」と言っていた。 “バンザイ組”は敗戦前に投降した人たちで、事務所員などをやっており、栄養状態も良く、一般の兵からは偏見の目で見られていた。 エンジニアだと言う事で一般の使役ではなく自動車の修理工場で作業に当たった。 戦争中に使ったトラックや自動車の解体作業で、フィリピン人4~5人にPW1名が組にさせられたが、フィリピン人に「泥棒」とか言われて「何この野郎」と喧嘩が絶えない。 フィリピン人は勝ったと思っているし、日本人も優越感が抜けないし、日本人だけで組ませてくれたら何倍も能率が上がると願い出たが、「フィリピン人に日本の技術を提供するためだ」と米兵に言われた。慣れてくると工場の隅にあるステンレスを使って昼休みに指輪などを作った。タバコ2箱ぐらいや缶詰4~5缶と交換した。黒人兵は白人兵の目を盗んでどんどん作ってくれと注文してきた。 ○体力が戻ってくると演芸人で“光明座”というガラクタバンドを作ったりした

1946(昭和21)年12月14日 マニラ出航

1946(昭和21)年12月24日 復員(名古屋港へ)



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