インタビュー記録

1943(昭和18)年4月1日


17歳の誕生日の翌日に志願。特乙飛行予科練習生(1期)として岩国航空隊に入る。 予科練習生として6ヶ月の教育を受ける。 15歳の時に太平洋戦争が始まった。私の家族は男の兄弟は5人で私は末弟、私以外は全て軍隊に取られ、上の兄二人は既に戦死していた。(長兄は日中戦争開戦直後に召集され、31歳で戦死。次兄は上海事変で戦死した。)  しかし熱烈な軍国少年だった私は、親の反対を押し切って志願した。どうせなら飛行兵になりたいと考え予科練に志願。高等小学校卒業者は乙種のみ受験できた(中学卒は甲種)。 どうせ合格は出来ないだろうと私も父も思っていたが予想外に合格。17歳以上の者は特乙種として入隊した。それまでは乙種の場合、3年の教育期間があったが、戦局逼迫の折、半年に短縮されていた。 操縦員60%、偵察員15%、射撃・整備30%に割り振られて訓練期間を過ごした。 射整員というのは射撃員・整備員を兼ねたもの。一式陸攻の搭乗員は正副の操縦員、偵察員、通信員、射撃員、搭乗整備員らがいたが、私の教育期間中に射撃と整備が統合され、射整員となった。入隊の前に父から『危険な事はするな』『戦争が終わってから役に立つ事をしろ』といわれた。無理を言って志願したのだから一つくらいは親の言うことを聞こうと思い射整員となった。訓練期間は通常6ヶ月程度だが、射整員は兼職の為その期間は8ヶ月だった。 その後飛行練習生として台湾・高雄に異動し、そこで8ヶ月間の訓練期間を終える(昭和19年6月)。

1944(昭和19)年


攻撃703飛行隊(特設飛行隊)に配属されるが直後に702空へ。フィリピン・クラークフィールド基地に移動、比島決戦に備える。 訓練期間終了後703空に配属。しかし703空は台湾沖航空戦でほぼ壊滅。702空に転属となりクラークフィールドへ向かう。マッカーサーがレイテに上陸する3日前(10月17日)に現地に到着した。 当時の一式陸攻の戦法は専ら単機の夜間攻撃だった。 初めての出撃から2.3回は悪天候の為、途中で引き換えした。それから数日後に敵輸送船団を発見し、雷撃。これが私の初戦闘だった。 戦闘というのは凄まじい。なにせ弾が束になって来る。台湾沖航空戦に参加した戦友から話を聞いていたが予想以上の凄さだった。 高度100mを切り、海面すれすれを飛んで雷撃。敵艦の対空砲火が束になって撃ってくる。視覚とは不思議なものでこちらを撃っていない弾でもこっちに来るように見えてしまう。雷撃態勢に入ると飛行コースは直線となるので殆ど撃墜されてしまう。私の知る者で2~3回以上雷撃をして帰ってきたものはいない。 私の乗機の操縦員のKさんと偵察員のMさんが歴戦のつわもので落ち着いていたので助かった。 こちらは緊張の為にキンタマが喉まで上がった様な気分だった。落ち着くため機内で羊羹を食べたりしたが緊張は解けなかった。 魚雷投下後、機体は対空砲を避ける為に激しいジグザグ飛行をする。機内は凄い揺れで外を見ることも出来ず戦果は確認出来なかった。尾部銃座に行けば外は良く見えるが、そこにすら辿り着けなかった。 帰投後に機体を点検すると5~6個の弾穴があった。Kさんは『敵が輸送船団だから助かった。機動部隊だったらこっちが三途の川だ』と言った。 基地にも敵の空襲が行われた。空襲警報などなく、味方の対空砲の射撃で来襲に気付く有様だ。ようやく空襲が終わったかと思うと第二波攻撃が行われ、更に被害が出た。 この空襲で私の乗機も破壊され出撃できなくなってしまう。 (この間シブヤン海海戦で武蔵が沈没。海軍衛生兵として乗艦していた私の3番目の兄も戦死した。) 2ヶ月間クラークフィールドに滞在するが代替の機体も届かず、そのうちにルソン島にも米軍が上陸してくる気配が濃厚になった。我々飛行兵は内地に引き上げ、地上整備員は陸戦隊に編成されて米軍を迎え撃つこととなった。 内地の木更津に帰ると、そこに集結したのは殆ど実戦経験のないものばかりだった。私の様な未熟練者もメインの射整員に任命された。多くの隊員は木更津から硫黄島の戦いに出撃したが、殆ど生きて帰れなかった。 この間我々は未熟なペアという事で松島基地で訓練をしていた。 沖縄への米軍侵攻が近づくと我々は松島から宇佐に移動して沖縄へ出撃した。ここでも7~8割の機体は未帰還だった。私の乗機は離陸後の右エンジントラブルで不時着水を起こし、しばらく出撃できなくなってしまう。5月に出撃を再開するが、またしても車輪ブレーキが故障して胴体着陸。その後鹿屋に移動。沖縄へ出撃した。 雷撃は損害が多いせいか、この頃は水平爆撃に切り替えられた。 伊江島に上陸した米軍が建設した飛行場を爆撃する命令が下った。 この出撃も夜間で編隊を組まないものだった。水平爆撃も大変だ。低空では敵対空砲が花火大会のように撃ってくる。5千m以上に上昇すれば対空砲は避けられるが、当時の日本の機体は勤労動員で作られた粗製品で、そこまで上昇するのも大変だった。 しかも5千m以上に上昇すると、今度は敵の夜間戦闘機が襲ってくる。敵戦闘機は薄っすらと蛍の様に光を放っている。その光を見つけるため乗員全員が血眼になる。蛍の光が見えると機窓からレーダー欺瞞用の銀紙の束を投げ出し、急激に機体を横滑りさせて逃げる。 沖縄への最初の出撃は成功した。 2度目の出撃では偵察員のN機長が目標前で爆弾を捨て、『よし帰ろう』と言った。私は驚き『これで良いのか!?』と思ったが、あの激しい対空砲火の中に突っ込まなくて済んだと思い、ホッとした事も事実だった。 しかしこの帰路に燃料が足りなくなり、またしても不時着水。二度目の海水浴のハメになった。 N機長は帰投後『俺は死ぬわけにはいかない。俺には女房がいるが俺の親父と折り合いが悪いんだ。俺がいなくなったら大変だ』と言った。普通だったら軍法会議ものだが誰にも気付かれなかった。操縦員とN機長は同期だったので出撃前に『適当にズらかろう』などと言って話を付けていたのだろう。私以外の他の乗員は未熟練者ばかりだったので外で何が起こっていたのかすら気付かなかった。夜間出撃で編隊を組んでいなかった事も幸いした。 不時着時、私は眼に海水が入り結膜炎となった。N機長は『出来るだけ治療を引っ張れ。そうすれば出撃しなくて済む。』と言っていた。 N機長はその後前線任務を外れ、敵レーダー欺瞞の任務に就いた。これで死ぬ事もなくなる。良かったなと思ったが、終戦2日前の訓練飛行中に乗機が墜落して死んだ。 沖縄戦終了後、我々は松島を経由して三沢基地へ移動した。ここではサイパン島飛行場に駐機しているB-29への強襲攻撃をかける作戦(剣作戦)に参加するための訓練についた。 経験のある搭乗員は更に減り、私は指揮官機に搭乗する事になった。機長は経験豊富なK大尉となり、かつての様なごまかしは効かなくなった。 剣作戦に加わる諸部隊は、まとめて剣部隊と通称された。 敵飛行場には胴体着陸することになっていたが、胴体着陸の訓練など出来ない。しかしマニュアルはあった。着陸の前には引火しないように残燃料を全て廃棄する事になっていた。 私も爆雷の扱い方を学んだ。着陸後は陸戦隊員と一緒に搭乗員も戦闘に参加する事になっていたが、サイパンまでの飛行時間は10時間以上だ。長時間飛行後のヘトヘトの状態で戦えるのかと思った。 剣作戦には数百名の人員が必要とされた。特攻作戦だが、これだけの人数を集める為には志願だけというわけにはいかず、事実上命令による志願だった。 陸戦部隊の指揮官の一人に園田直(のち自民党衆院議員、厚相、外相等を歴任)がいた。 その後私の機体はまたも空爆で失った。

1945(昭和20年 終戦


そして8月15日の終戦を迎えた。皆、口には出さないがホッとしていたようだ。 戦争が終わると規律も無くなった。松島の連中は皆、帰ってしまった。 機体ごと中国国民党軍に接取され、共産党との戦いに参加させられるという噂が流れ、多くの連中が正式な手続きを待たずに早々に帰郷してしまった。
 







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