インタビュー記録
1938(昭和13)年 徴兵検査、甲種合格
1939(昭和14)年 教育召集、1カ月の教育の後、宇都宮陸軍病院へ
- ほとんどの者が旧制中学校を出ていた。
- 幹部候補生の制度がない。
- 宇都宮の陸軍病院に約2年間。本院勤務。
- レントゲンの勤務。趣味で写真をやっていた。「写真を現像できる者はいるか」と聞かれて「はい」と手をあげたら、レントゲンの勤務になった。
- 班内にいるとうるさいけれど、病院勤務は普通の会社勤めみたいだった。楽だった。
- 補助衛生兵は3ヶ月で除隊になるはずだったが直ちに徴集され帰郷出来ず
1941(昭和16)年8月 部隊に配属
- 戦時新設の部隊で、”都興部隊”と呼ばれ、師団長は李王殿下であった。なぜこう呼ばれていたのかは分からない。第51師団衛生隊(基2812部隊)となる。
同年8月14日 神戸港を出港
- 戦時新設の部隊で、”都興部隊”と呼ばれ、師団長は李王殿下であった。なぜこう呼ばれていたのかは分からない。第51師団衛生隊(基2812部隊)となり、同年8月14日に神戸港を出港。
- 満州の錦州へ、何もすることがなかった。師団長陸軍中将中野英光になる。
- 二ヶ月くらいして南に移動することになり、船着き場について夏服を支給された。とりあえず南方に行くということは分かったが、どこにいくかは分からなかった。
- 広州についた。郊外の中山大学に駐屯。
- 匪賊の討伐に。衛生兵だから鉄砲は持っていなかった。戦闘部隊が怪我をしたら応急処置をしに行く。包帯とか医療品を使って手当てして、負傷した者を後方に下げる。
- 衛生隊は千人くらいで、衛生兵、担架兵、車輛兵で編成。
- 広州には大きな川があって、底を使って敵前上陸訓練をやった。なんでこんな事をやるのかと思った。
1941(昭和16)年12月 太平洋戦争勃発、香港攻略戦参加
- 手前の九竜半島で待機。
- 敵の兵站倉庫の管理をやっていたら、いろんな物資がいっぱい。高級煙草の缶がいっぱい、ウェストミンスター。兵隊がその缶にひもを付けて腰にぶら下げていた。
- 勝ち戦で「戦争はおもしろいもんだ」と思っていた。2週間くらいで香港戦は終わった。
そのうちパラオへ移動
- 三千トンくらいの貨物船。船倉にゴザ1枚ひいて寝ていた。1週間くらい。
- パラオに停泊、上陸。現地人は日本人より日本語がうまかった。
- パラオではカツオがうんととれた。同僚と3人くらいで街の魚屋でカツオ1匹買って刺身にしたが、とても食べ切れる量ではなかった。この時からカツオが嫌になって、今でも嫌い。
- 民家か何かに泊まっていたかもしれない。
- ある日コロール島にある南洋神社に隊伍を整えて参拝、武運長久を祈願した。
ラバウルへ
- 一週間くらいパラオにいて、それからラバウルへ。港内に色々な船がいっぱい停泊していた。
- 大きな湾がある、甲板から見ていたら岸に赤い腰巻をつけた裸の人がたくさんいて。使役をしていた。カナカ族。
1941(昭和16)年12月28日 ラバウルに到着
- 上陸後行軍してココボに駐屯。
- 海岸沿いの椰子林。駐屯していた場所の後ろに高射砲隊が駐屯していて、さらにその裏に飛行場が作られた。駐屯地が海岸沿いだからすごく良く見える。
- 最初、昼間に偵察機が飛んできて、だんだん夜間爆撃を受けるようになった。攻撃を受けると零戦が飛んでいった。始まると海岸淵で見ていた。曳光弾が飛んで、高射砲弾が破裂して、花火みたいだった。一つの編隊は百機くらい。日本の戦闘機が迎撃に出て、燃料・弾薬の給油におりたところを次に飛来した爆撃機が攻撃した。
- 連日どんどん増えていく。20分くらいするとまた同じ位の編隊が来て叩いていく。全部で300機くらい。物量の差はものすごい。内心「これは勝てないな」と思っていた。
ニューギニアへ転進命令
- 留守部隊になって、ラバウルにしばらく残っていた。主力がニューギニアへ移動。その時駆逐艦5隻と輸送船7隻位の船団。護衛の戦闘機が途中で引き上げてしまい、ラバウルとニューギニアのダンピール海峡で敵機の爆撃に遇い多数の軍艦や輸送船が沈められてしまった(ダンピールの悲劇と言われています)。
- このあと、我が第12部隊の本隊はパラオに集結のためラバウル港出航、ネイブル丸で夕方出帆。
- デッキの真中で軍医が3人、薬剤官が1人の4人が離れていく島を見ていた。その時瞬間的に4人の影がどうも薄いと感じた。後ろから見ていて顔は見ていないがなにか寂しげな気がした。
- 出港してしばらくしてから、薬剤官が兵隊達の部屋に「どうも俺の部屋では寝付かれないからここで寝かせてくれ」とやってきたが、「将校がここで寝るのはおかしいですよ」と追い返したと聞いた。将校たちは船の真中あたりの部屋にいた。
- 夜の1時か12時ごろ、夢うつつに爆音が聞こえた。敵爆撃機の爆弾が我が船に命中。とにかくわけがわからない。電気も消えてしまい、こりゃ大変なことになったと思った。皆、救命胴衣を代わりに持っていて、それを持って上へあがった。甲板に貨物を出し入れする船倉の入口があって、そこに板を敷いていた。敵機の攻撃を受けた時に、そこで寝て居た者は全員爆風で吹き飛ばされて、さらに逃げて行った兵隊が気づかないで船倉に落っこちてしまった。足元なんか全然分からない。
- なんとか甲板に出なくちゃいけないと思うが、出方が分からない。どう出たかわからないがとにかく無我夢中で外に出た。どうやってあがったか今でも覚えていない。埃がすごい。
- 爆弾は船の真中の機関部あたりに命中して、将校はみんな戦死した。
- 甲板に出ると船員が「船が沈没するから退避しろ―!」と怒鳴っている。それであわてて救命胴衣を付けた。そして舷側まで行った。船員が縄梯子をおろしてくれたが、先に降りた連中がみんなぶらさがっていた。「早く降りろー!」と頭をつつくが反応がない。結局泳げない人が捕まっていた。
- 船は傾き始めていた。しかたがないので、思い切って3メートルくらいの高さを飛び込んだ。すこしでも沈んでいく船から離れようと、一生懸命泳いだ。船が沈むと樽とか板とか色々なものが浮く。それに捕まっていた。
- 向うの海は割合静かで水温も高い。それでもある程度うねりがあり、泳げない者はそのうねりを越えられなかった。それで体力を失っていき、いつのまにか数が少なくなっていった。海ゆかばを口ずさんでいた。「いつ助けに来てくれるのかなあ」と思っていた。12時間くらいたった昼過ぎ、駆潜艇が来て助けてくれた。
- 収容されてしばらくしたら、ブザーが鳴って、「なんだろう」と思っていたら、敵潜水艦が近くにいるということで高速で潜水艦のいるあたりを旋回して、爆雷を船尾から投射した。爆雷を運ぶのを手伝った。爆雷はそれぞれ時限を変えていて、4、5発撃ってしばらくすると爆発。しばらくとまって様子を見て、「これはだめだ」ということでもう一度旋回して同じことをやった。最後になって油がだいぶ浮いて来た。沈んだのかは分からないが、それで終わりにしてパラオまで無事についた。
- 戦友達は、「あの時将校たちを寝かしておけばよかったなあ」と言っていた。
歩兵第66連隊に転属
- 軍医など多数の戦死者が出て、衛生隊として機能しなくなったので転属させられた。宇都宮の部隊の中隊着き衛生兵になった。担架兵とか車輛兵を歩兵にした中隊が作られて、その中隊付きの衛生兵になった。装備が悪い。鉄砲だけしか持ってなかった。戦力としては使い物にならなかったがとにかく。
- パラオではほとんど毎日のように船で遭難した連中が上がって来た。着の身着のまま素っ裸。体を見るとやけどで火ぶくれになっていた。そういう人が随分上がった。本島で飛行場を作っていて、その使役をしていると、上がって来るのが見えた。
再編成が終わって再びニューギニアへ
- 「もう今度は助からねえなあ」と思いながらも命令なのでしょうがない。
- 船では今までは船倉に寝ていたが、すぐに外にでられないので甲板で寝ていた。カツオ船2隻。駆逐艦などはない。それが高射砲を積んでいた。
- 出港してから2、3日した夜中、2隻で航行していると両側に米軍の潜水艦が浮上してきた。片方の船はガソリンを積んでいて、攻撃を受け一瞬にして轟沈。我々の船はガソリンを少し積んでいただけで、敵の攻撃も魚雷は後尾の倉庫に命中したのですぐには沈まなかった。
- 「船はこれで駄目だからもう退避しろ」と言うことで、ここからは前と同じ。縄梯子を出してみんなそれに捕まる。やっぱり今回も海に飛び込んだ。14、5時間泳いで駆逐艦に助けられた。
- そしてパラオに戻って一週間後、またニューギニアに行けという。
- いやいやながら船に乗ると、船倉がガソリン臭い。良く見ると、米俵のざるが敷いてあって、その上にガソリンの入ったドラム缶がずらーっと並べてあった。もちろん火器厳禁。「えらいもんに乗ったなあ。今回は助からないな」と思った。ともかく覚悟した。
- それでも船は攻撃を受けずホーランジヤに入港する1日前に空襲があった。機銃を撃つのと同時に爆弾を落としてくる。甲板を撃ってくるのでこっちは気が気じゃない。いそいで隠れる。2~3メートル先に爆弾が落ちて、やられたかと思ったが命中せずに海におちたので爆弾のしぶきで全身ずぶぬれだが助かった。
ホーランジヤで物資をおろしてからから約1日後にウエワクに上陸
- ウエワクに上陸のため船が停船中敵艦の艦砲射撃にあったが無事上陸。
- 周りは椰子林だが、椰子の木に葉っぱがなくて裸だった。聞いてみると数日前に爆撃を受けたと聞いた。物資をジャングルに運ぶのは困難なので、海岸線につんでいたところを爆撃され、全部丸焦げになっていた。最初はなんだろうと思ったが、爆撃されたと聞いてえらいところにきたと思った。
- 食べ物の支給が全然ない。しかたがないので焼け焦げた跡を掘って、そこからでてきたこげた米を拾って食べていた。
- そのうちに転進命令が出て、自活しろということになった。
- ニューギニアのジャングルには食べ物が何にもない。なんとかして食わないといけない。一番困ったのはタンパク質がないこと。米、みそ、しょうゆくらいしかなかった。甘味品はない。
- 夜に海岸線に陣を敷いているオーストラリア軍の倉庫に食糧を盗みに行く決死隊を編成した。最初は成功していたが、次第にばれてしまって駄目になった。
- 蚊帳をつなぎ合わせて網を作って海岸線に持って行き魚をとった。しかし熱帯魚は食べる肉がほとんどない。色は奇麗だけれど全然ダメ。野菜のかわりにシダ類を食べた。毒キノコを食べてしまい、死にはしなかったが半日くらいおかしくなったこともあった。苦労した。ニシキヘビをつかまえて持ってきたり。胴切りにして焼いて食べようとしたが固くて駄目だった。
- また転進命令が出て移動。
- この時分になるとほとんど栄養失調になった。現地人サゴヤシを真っ二つに割ってその中の澱粉をとってそれを食べた。副食は何もない。
- みんな移動する時には杖を持って、それでバッタであろうとコオロギであろうと動くものは何でもとって食べた。バッタは青臭いが焼けば食べれた。カエルやネズミはごちそう。
- 最初のうちは鳥がいた。ある時、兵隊3人で出かけて休んでいる時に、20メートルくらい先の木に、大きな白いインコが4羽とまっていた。「これはうまいものをみっけた」と思って、鉄砲を借りて撃ったところ運よく1羽に当たって、ほかの3羽は逃げてしまった。しばらくすると、仲間が心配なのか3羽がもとの場所に戻って来た。また1羽をうちころすと、同じように戻って来た。そうして4羽全部を手に入れた。意気揚々として、部隊にもってかえるとまずいからみんなで食べた。それからはみんな逃げてしまってもう駄目。
- うまくいけば土人の畑からイモの葉っぱをとってくるくらい。
- 衛生兵だったので、最初多少は薬を持っていたが、補給がつかない。そのうち薬はなくなった。あとは兵隊が多少身の安全のために薬を持っていた。そういうのをつかって注射したりしていたが、そんなのでは間に合わなかった。
- 中隊でもずいぶん死んだ。何も出来ない。栄養失調で弱っている所にマラリア、それが命取りに。
- 我が中隊にははじめ240~250人いたが、帰還出来たのはたった13人。それでも多いほう。
- 何回か同年兵が勤務していた野戦病院に行ってビタミンBの栄養剤をもらってきて、それを注射してあげていた。そのおかげで割合助かった。他の中隊は中隊長と当番兵くらいしか生き残らなかった。ほとんどみんな動けない。毎日のように死ぬ。
- 最初のうちは葬ってやったがそれも出来なくなった。掘れない。
- 栄養失調になると皮膚が崩れて膨らんでくる。足なんかは骨が見え始める。
- 後ろから音がすると、すぐに機銃掃射を受けた。慣れてくると飛行機も平気になる。隠れもしなくなった。爆弾を落とされたらしょうがない。
- 一人衛生兵の助手がいて、いろいろやってくれたが、とうとう参ってしまった。衰弱して食べたくても食べられなくなっていた。翌日みると死んでいた。
- 転進する他部隊所属の同年兵がいて、魚を取る網を置いていってくれた。それをもって河に行った。川ではテナガエビが取れた。結構食べれた。
1945(昭和20)年8月 敗戦
- ある日、飛行機がやってきてビラをまいていった。それには「日本軍降伏せり」書いてあった。そんな馬鹿な事はないと思った。その日から毎日のように飛行機が飛んでいたが、ある日から全然飛ばなくなってしまった。
- 終戦の直前にウェワク地区の師団司令部から玉砕命令が出ていたが、それが中止になって助かった。
オーストラリア軍の捕虜に
- それからオーストラリア軍がやって来た。格好はイギリス兵みたい。
- 山中にこもる日本兵は海岸に出ろという命令がでたが、衰弱して動けない。宣撫が効いていたのか、現地人が助けてくれて、そのおかげで動くことが出来た。現地人はサゴヤシなどの貴重な食糧をわけてくれた。担架を作って担いでもらった。
- ウェワクの近くの小さい島、ムシ島に収容された。収容されてからずいぶん死んだ。週に一度くらい豪州軍が携帯食糧をくれて、それでだいぶ助かった。
- しばらくして豪州軍の使役をする事になった。草むしりしたり、船の荷揚げやその他色々の作業をした。
- 私は豪州軍の将校の当番兵になった。むこうの大尉。将校は一人ずつテントを持って生活していて、そこにいった。日本人の捕虜だったけれど対等に扱ってくれた。朝晩は収容所で食事を食べるが、昼はオーストラリア軍の駐屯地で食事を食べた。オーストラリア兵の食事をした後に食堂で食べたが、バイキング方式で大きな皿にたくさんの料理が残っていて、それを好きなだけ食べた。これで助かった。弱っていたので、おなかいっぱい食べられなかった。
- 1、2カ月して帰還命令が出た。
- はいていた靴がボロボロだったので、英軍の将校の使っていない靴をもらおうと片言の英語で話したら、こころよく「持って行け」と言ってくれた。その靴を履いて威張って中隊に戻ると、中隊長がそれがほしくてしょうがない。中隊長は新しい軍靴を持っていて、「これと交換してくれ」と言うが、意地を張って応じなかった。その時分には階級に重きは置かれなくなっていた。
帰国へ
- 病院船氷川丸に乗船。乗船前に浜辺に1個連隊が集まって、そこで連隊長が別れの挨拶をした。戦時編成で約4350人ほどいた連隊が、浦賀に帰航した時190人だったが、上陸後ただちに入院した者が60人ぐらい居たので、すぐ帰郷出来た者は130人になっていた。
- この前に帰っていた者もいくらかいた。
1946(昭和21)年1月27~8日頃 浦賀上陸
- 夏服一枚だったのですごい寒かった。
- 皆青白い、黒い顔をしており、やせこけて骨ばかりで、内地の人が見たら亡霊かと思うような状態だった。診察して大丈夫だという者は家に帰してくれた。むこうの食事にありつけたので大分よかった。
- 帰る時に冬服をくれた。
1946(昭和21)年1月30日頃 解散
- 最後に生き残ったのは満州事変からの兵隊。体力も経験もあってやっぱり強い。新しい兵隊はみんな死んだ。途中で関東軍から兵隊がやって来たがほとんど死んでしまった。
- 私は衛生兵だったから隊の中で大切にして貰ったので助かった。
- 帰郷して2、3回マラリアになって周囲の者を慌てさせたが体力が付いて病気も治った。
Copyright(c) 2012 JVVAP. All Rights Reserved.