インタビュー記録

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泊国民学校に在学

 学校は共通語、方言を使うと体罰があった。家に帰ると大人は方言だった。
 子供の頃は予科練に行きたいと思っていた。

1944(昭和19)年8月21日  一般疎開で対馬丸に乗船

 宮崎に疎開するため対馬丸に乗船。両親と13歳の兄と、一般疎開で行った。学童疎開は学校が募集をして小学校3年~6年の児童だけで、一般疎開は父兄と小さな子供たち。父兄は30代。女の人が多く、男の人はほとんど兵隊にいっていなかった。学童疎開よりは一般疎開の人の方が多かった。陸軍の徴用船だったから陸軍の砲術兵がいた。

1944(昭和19)年8月22日午後10時 沈没

 船員が「10時15分前!」という声を聞いた。大きな音がしたと思うが、不思議なくらい音が聞こえなかった。ものすごい音がしたという人もいる。爆発で吹き上げられたけれど生きて落ちてきた人もいると言う。
 旧暦2日の細い月で夜は暗い。やられた頃にはもう月も沈んで真っ暗。家族は一緒に甲板にいた。船は後ろから沈んでいった。いかだは船の後方にあって、船が沈む前にいかだが浮いてきてしがみつくことができた。学童は船の前方に集められていた。先生が「海に飛び込め!」と言っても子供は怖くてできないでしょう。先生が掴んで投げて助かった人もいるし、投げられて浮遊物にぶつかって怪我をした人もいると、そういうのを知ったのは戦後のこと。
 両親と自分は同じいかだ、兄はとなりのいかだに乗っていた。こちらに呼び寄せればよかったが、「ああ乗っているから大丈夫」だと。兄が金物の水筒を投げて渡した。ぺしゃんこに潰れていた。兄は怪我をしたんじゃないかと思う。自分はここにいるということを知らせるために投げたのかも。
 いかだやら他の浮遊物がごつごつとぶつかる。いかだといかだに挟まれて怪我をする人もいたと言う。父が2つのいかだをロープで結びつけて大きくしていたから2つで20名くらいいたと思う。波は穏やかでいかだも揺れなかった。

1944(昭和19)年8月23~28日 漂流、約1週間

 夜が明けるとぶつかるくらいだったのに、他のいかだは見えなくなっていた。
 翌日は低気圧で海が荒れ、三角波がぶつかって、あの裏山の高さ(7、8m?)くらいの波になる。ボートならひっくり返るが、筏だからかひっくり返らなかった。父の結んだ太いロープが切れて、いかだはばらばらになった。
 2畳ほどのいかだにぎっしり乗って、身体の半分は海面下に沈んでいる、乗り切れなくて掴まっている人もいるほどだったが、4~5日するといつの間に落ちたかは分からないが1人なくなり2人なくなり最後は4名になった。
 大人が4、5名。会話は全く無い。子供同士、どこの学校で何年生というくらいは会話した。同級生が1人いた。だんだん人がいなくなる。夜が明けると人が減っているのに気付く。
 2、3日後にまた海が荒れた。その頃には4名になっていた (久高さんと両親、同級生)。いかだが軽くなって水面から浮くくらい。高波がくると、波を上がっていき、一気に落ちる。最初は私たちだけと思っていたが、波の上から遠くのいかだがいくつも見えた。
 いかだに伏せた体勢でロープを掴んでいた。怖いという気持ちはなかった。ひもじいのは分からなくなっても喉は乾いた。2、3日経つと水が欲しくなって幻を見る。海の向こうに水瓶があって、「ああ、水だ、水だ」。はっと目が覚めたら「ああ、自分はまだ海にいる」。いかだの上に畳も見えた。 助からなかった人は、いかだの上に立って、「水だ、水だ」と歩いていく気持ちで落ちる。自分は怪我をして動けなかったので助かった。
 悪石島(あくせきじま)が見える。距離はとても離れているのに大きな島なので近くに見える。元気な人はあれぐらいなら泳いで行けると思って泳いで行って、辿り着いた人はいない。

1944(昭和19)年8月28日 救助

 偵察機が飛んでいて、いかだのある所に発煙筒を落としているのは遠目に見えていた。船はその発煙筒を目印に救助に来る。
 ああ船がきた。水兵さんが飛び込んできて、いかだをロープで縛って船で引っ張っていく。ロープを握っている手が拘縮して力もなく開かない。水兵さんは私の指を引き剥がして、魚でも捕まえたみたいに甲板に上げる。
 救助されてはじめて、「俺、足怪我してたんだ」とわかった。自分では立てなかった。治療のために船底につれていかれた。このとき考えたのは、船底だし動けないから「今やられたもうお仕舞いだな」ということ。あのとき船の中にいる人はダメで甲板にいた何名かが助かったから。

鹿児島の病院に3ヶ月ほど入院

 太ももに何かが当たって打撲し、掌ぐらいの大きさが真っ黒くなっていた。その黒い皮が剥けて肉がむき出し歩けなかった。

熊本に疎開

 入院の間に疎開予定先の宮崎は満杯になり、急遽熊本で終戦まで過ごす。予定どおり着いた者は宮崎に、対馬丸で遭難した者は熊本の1箇所のお寺に纏められていた。実際にどうかは分からないが、秘密が漏れないよう纏められたのではないかと思っている。
 沖縄に空襲があったとか上陸したとかはどこからか伝わって来た。
 傷を完全に直すのは2年ほどかかったが、軍から言って無料でやってくれた。

 同級生で救助されて那覇に戻った人がいた。軍などから絶対喋るなと箝口令がひかれて喋ろうにも喋れなかったと言う。
 対馬丸の事は知らされなかったが、後の学童疎開は潜水艦を使って行われた。久高さんの奥様はこの潜水艦で9月に宮崎へ疎開した。

1947(昭和22)年 沖縄に戻る

 熊本の中学を出て、○○○(名称不明)ハイスクール(当時は占領下でHigh Schoolと呼んだ。現普天間高校)に。
 校舎は生徒が色々な材料を集めてきてかやぶき屋根で作った。米軍のテントも多かった。机や椅子も手作り、記章は女生徒が刺繍してくれた。

20歳の頃

 父が家具屋をしていて奄美大島から買い付けに来た人に大島からと言うので対馬丸の話しをしたら、うちに流れ着いたという話しになり、この人を通して遺骨収集を行い、遺族団体も出来た。
 兄は奄美大島の悪石島に死体で流れ着いた。名札で分かり、戦後、大島から連絡があって遺骨をもらいうけた。

 学童疎開だと補償はあるが、一般疎開は補償が無い。

40歳のとき、対馬丸が沈没する絵を描いた

 脳裏に残る光景。知らないとはこれはオーバーだと批判する。でも経験した人はまさにこの通りだと言う。平和なときの考え方と戦時中の考え方は違っていて、それを話しても理解してもらえないようだ。この絵は那覇市に寄贈し、今対馬丸記念館にある。

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