インタビュー記録

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一般的な農家で牛・馬・豚や鶏やヤギを養い、両親は畑。弟と一緒に、祖母に育てられた。

1944(昭和19)年10月10日

祖母と一緒に、ひんぷん(沖縄で門と母屋の間にある魔除けの石)の大きな石に上がったり下がったりして、弟や近所の子供たちと遊んでいた。突然、喜屋武岬から4機編隊の爆音が聞えてきた。友軍の飛行機だと思い「万歳、万歳」と叫んでいた。あとから分かるがグラマンだったのだと思う。10~15分、突然に那覇から黒煙とともに大きな爆音が聞えた。

32軍がどんどんどんどん部落にやって参ります。大きな軍靴の音を立てて、馬に乗った上官、手綱を引く兵隊がいて、パカパカと砂利道を入って来たのを覚えている。軍を受け入れる施設がないので、公民館や学校の体育館は埋まってそれでも人が溢れる。そこで各民家に2名とか3名とか同居する。住民はお勝手とか物置とか狭いところで小さくなって生活していた。私は子供だから兵隊さんに馴染んで、肩に乗ったり、抱っこされたり、親しくして貰った。
食事は、時間になると炊事場で大きな鍋に麦や雑穀米を炊く、それをスコップでかき混ぜていた。それを飯盒に分けて、私たちもそれが欲しくて、指をくわえて見ていた記憶がある。

日に日に空爆がある。死体はあちこちにしかなかったけど、最初は埋葬したりかますを被せたりしていたが、日増しに数が多くなって散らかりどうしようもない。沖縄は雨季に入り、腐り膨れ上がってきます。栄養失調で痩せた人間でも風船のように膨らみます。それがすぎると臭いが凄くて、表せない。初めは点とか線で表せるけど、日増しに死体が多くなって、面に拡がってある。道は殆ど死体で埋め尽くされる。死体を除けて歩くんですが、たまに死体に足を突っ込みます。田んぼの中に足を突っ込んだような状況で、入ってそれを抜くと一緒にウジが付いて来る。ウジはチクチクする。そういう凄まじいのが戦争の情景。

70軒ぐらいある与座部落も焼夷弾で全焼する。可燃性の液体が撒かれ、あとで5~6発の焼夷弾が落とされます。焼夷弾は子爆弾に分かれゼリー状の火の塊になって場所に散らかっていく。だから5~6発で70軒ぐらいの部落は焼失するわけですね。
母や姉や弟は防空壕に行きます。しかし祖母と兄は、焼け残った廃材を使いまして、トタンの戸で仮小屋を作ります。父はその前に海軍に召集されます。祖母と一緒に道端で通る女性の方にお願いして、父の出兵に安全であるように祈る千人針を頂いたことを覚えています。昭和17~18年だと思う。祖母と兄は防空壕にはいっさい来ません。
私は防空壕、大嫌いなんですね。ガマとか穴をほじくって、松の板とかで防空壕が崩れないようにする。その中に5~10cmに箱状に松板をひく。そこを出ると水溜り。親族が固まって20~30名ぐらいじゃないでしょうかね。小さなお子さんやお年よりは用足しもそこでやっちゃうんですね。恐いし。衛生状態も非常に悪いのが防空壕の印象で。

昼は空爆、夜は艦砲射撃。夜になりますと閃光弾があがり無差別に艦砲射撃が来るわけですね。6つぐらいの足で防空壕から祖母のいる仮小屋まで10分ぐらい。その間でも破片を拾いました。爆弾から飛散した破片は、火傷するぐらい熱いんです。これを拾います。昼は昼で機銃掃射されたあとに薬きょうがバラバラと落ちてきます。それも拾います。当時はあらゆる物資を戦闘用にと供出します。鉄製の破片や真鍮の薬きょうを持って行けば大人に褒められるだろうと子供心に戦争の中に入っていました。しかし、運良くそれに当らなくて、怪我一つしていません。

1945(昭和20)年6月5日~10日頃

親族15~16名で相談して、那覇や首里からの避難民、あるいは日本軍の南下ということで、付近は全部戦争の真っ只中。もう少し安全な場所と大里部落に向うんです。その時も容赦なく艦砲射撃が降って来る。雷と同じでヒューパンは近いんですね。ヒューパンならすぐに皆砂利道に這うんです。10日ぐらいだと思うんですが国吉(くによし)部落に着きます。

近くにあった焼け残った農家に水がめがあって、水がめの水を、私の兄がひしゃくをとって飲もうとした時に、部落のおじさんが「わらば(子供)は後だ」とそのひしゃくを取り上げられて、そのおじさんがひしゃくをかめに入れたか入れないかの瞬間に、破片が来て脇腹をやられています。だから皮一枚でぶらんですね。大きな怪我の場合は血が出ません。

私と2歳上の親戚と馬小屋の天井で遊んでいました。突然われわれから1~2mのところに爆弾が落ちました。爆弾だと思うんです。今まで真っ暗な状態が青天井です、屋根裏が吹っ飛んじゃって。下にいた親子連れも影も形もなく吹っ飛ばされているんです。1~2mの距離にいて、私もS君も無傷なんです。着弾した時に爆風は八の字に行くんでしょうね。近くても遠くてもバーンといっちゃったかもしれない。S君のお母さんは胸に小さな破片が当って死にました。

1945(昭和20)年6月11日か12日

どうせ死ぬんであれば自分の生まれたところに行こうということで与座部落に帰った。母の実家の石垣を積んだ簡易の防空壕、入口はトタン、そこに15名が入った。12日の晩に缶詰を開けて食べた。

1945(昭和20)年6月13日 捕虜になる

姉が外で靴音がするという。皆押し黙っていた。フル装備の米軍が銃剣でトタンをぱっと開けた。東の空から光がぱあ~っと入った。目がくらむぐらいの眩しさ。「出て来い」って言うわけだけど、当時は鬼畜米英で怖い。誰も出ません。しかし、1人出、2人出。米軍の人は1人でした。

当時の状況は見渡す限りの焼け野原、防空壕みたいなところ、焼け残っている所は火炎放射器で、あれ100mぐらい行くんです。防空壕には爆弾をぽっと投げてる。あとはジープの後ろに引っ張ってきた大砲っていうんでしょうか、ランニング姿で米兵がぼんぼんぼんぼん撃ってる。前に見えるんです、全部見えますから。そういう現状の場所。爆弾も投下しているから破片もびゅんびゅん飛んでいます。

アメリカ兵が最初にしたのは腰に下げていた水筒を出して、われわれに「飲め」って言うわけですよ。しかし、死んでもいいと思ってる、死になさいという教育なんだけど、誰も毒じゃないかと飲まない。彼は自分で一口飲んでみせて、われわれにやったわけです。喉が渇いているから我先に飲んだんですけどね。これが命の水だなと思ったですけど。勇敢にも1人のアメリカ兵でした。

その人に連行されて一屋敷分を下ります。その付近にも死体がいっぱいで、うんうん唸っている人もいます。仮小屋には避難民のお母さんがいたらしく、その仮小屋はぼんぼん燃えていました。小屋の周りには子供が「んまんま」と泣き叫んでいました、しかしどうすることも出来ない。約15mの距離で県道に下ります。砂利道です。

20~30名の兵が銃を投げ出して疲れたと休んでいました。そこには弾薬やらなにやらいっぱい落ちていました。アメリカの戦力の。たまたまそこにパイナップル型の手榴弾があったんです。そこにさっきのS(親戚の子供)が信管をかちっと抜いたんです。とっさに私の兄が取って、がけ下に投げ捨てたんです。ぱーーんと。そしたら今まで休んでいた20~30名の兵もわれわれに銃剣を向けて。

そこから15mぐらいのところに、私の祖母と兄がいた仮小屋があって、さかんに燃えておりました。建物とかなんとか火炎放射器で焼いていくわけです。兄が防空壕に置いてある何かを取りに行こうと言ってる瞬間に、私の祖母は燃え盛る自分の仮小屋に焼身、飛び込み自殺するんですね。われわれに一言も言いません。とにかくアメリカの捕虜になるなら死になさいと教えられてたわけですね。一言も私聞いてないです。死ぬんだとかね。当時は女は強姦されるとか、辱めを受けるとか。男は股を裂かれるとか、首を切られるとかそういう怖いあれしかないもんですからね。そういう事件があってさらに連行されます。

県道の砂利道には死体がいっぱい、石ころのように転がっている、片付けようがない。まだ23日より前ですからね。アメリカ軍の軍用トラックが南下していく。子供を連れたお母さんが腰にお弁当箱を下げて、その上を戦車のキャタピラで切り刻まれた遺体が忘れられないですね。遺体が1人や2人、ハエがぶんぶんする、そんなものじゃない。とにかく凄いですよ。道という道に。

それから10分ぐらいのところに簡単な収容所があって20名ぐらい集まっていました。これが第1収容所でした。
それからどんどんどんどん歩いて行って、与那原ぐらいかな、畑の中に鉄条網があってそこには200~300名ぐらいいっぱい人がおりました。あ、こんなに人がいるんだなと思って。

誰が探してきたか分からないけど、アメリカ兵の鉄兜、それに石を拾って来てかまどにして。私はひもじいというのは無かったんですよ、親がやってくれたんでしょうね。そこで一夜過ごしたかなあ。

玉城村の垣花(かきのはな)の収容所へ

焼け残った家があって、トタン屋根で、そこに全然知らない家族も入れて20名ぐらいで入ります。  南は戦闘中だからアメリカ軍は軍用車に乗ってどんどん朝なんか行くわけです。するとチューインガムとかチョコレートを投げるんですね、わらばーに。誰が言って覚えたかしらないけど“Give me candy”とか叫んで、貰ってました。

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