インタビュー記録

1942(昭和17)年12月25日 現役

  • 二人とも地区60名中9名の甲種合格だった。歩兵第37連隊(大阪)に同年兵千名で入隊。

1943(昭和18)年1月10日 大阪を出発

  • 下関、釜山、山海関、徐州を経て海州(江蘇州)へ、歩兵第54連隊に転属。

武村さん じつ陽の警備

  • 初年兵教育中に大隊討伐へ参加。
  •  敵地区で住民は逃げ、若い男が八路軍に裸で縛られ殺されていた。
     周囲のあちらこちらの集落が火をつけ合図をしているのが見える。
     一時間交代で初の歩哨に立ったが、クリークでガッガッガッガッ鳴いていたカエルが一斉に静かになったので、「来たっ」と銃を握りしめ身構えたが何もなく終わった。
  • 新四軍の本拠地では壁に大きく「死ぬな、母が泣く」と書かれていた。
  • 1期検閲後、下士官候補生になる。
  •  好きだったわけではないが、軍隊が割に自分には合っていた。
  • 1943(昭和18)年8月 コーリャン畑で八路軍が激しく撃ってくる。
  •  中国人による保安隊を最前線に出していたが、大勢が死んで退却を始めた。准尉が軍刀を抜き、「止まれ」と言うが、死人の足をひこずって帰ってくる。中隊長は「突撃せい」と言ったが、准尉が「目標もないのに突撃したら皆死ぬ」と中隊長を何とか説得し、交互に下がった。弾が土にプスップスッ突き刺さる。前進はそうでもないが退却は怖い、しかし誰も負傷しなかった。

1943(昭和18)年 上海集結、ニューブリテン島へ向かう

  • 武村さんは第1梯団。9月24日に出発、10月5日にニューブリテン島・ラバウルに入港する。
  •  駆逐艦で島南部のガスマタへ移動する。
  • 石川さんは第3梯団。10月20日に出発。
  •  トラック島を出て間もなく爆撃を受け、両舷に落ちた。海軍の兵隊は水葬したが、陸軍の死者はラバウルに持っていき火葬した。
     ココボに徒歩で移動、そこから海路でガブへ移動する。
  • 武村さん ガスマタ守備
  •  ラバウルは物資があったが、運搬手段がなかったため食糧補給が出来ない。
     蛇やカエルを食べる、穴を掘っておくと朝になるとたくさんのカエルが落ちている。曹長が小さなカンガルーを銃で撃ち、皆で食べたことがある。
  • 石川さん ガブ守備
  • トカゲも食べた。

1943(昭和18)年12月15日 米軍上陸

  • 武村さん
  •  ガスマタに艦砲射撃があり、凄い音。照明弾も飛行機から落としゆっくりゆっくり落下傘で降りてきて昼間のように明るくする。米軍上陸があるものと武装して壕の中で銃を構えていたが、 米軍は西方のマーカス岬に上陸した。

     敵の諜報機関がガスマタとマーカス岬の間に上陸しているという情報があり、斥候に出ることに。僕の小隊長は横浜工専出身で英語がペラペラ、現地民のカナカ族は英語が通じたので、彼と7人ぐらいが行くことになり僕もついていくことになった。
     連隊長から恩賜のタバコを1本づつ貰い、悲壮な覚悟で出かけたが、敵に遭遇せず戻ってきた。

     カナカ族は当時は割と好意的。上半身は裸で、男性はラップラップという布を、女性は胸を出し腰蓑だけ巻いている。家に泊めてくれ、タロイモを食べさせてくれたり、こちらがタバコや缶詰を出したりした。オオコウモリを銃で落としたら喜んで食べていたが、臭いので僕は食べなかった。カヌーを漕がせ、飛行機が来たら海に飛び込むしかないと思っていたが、何もなかった。
     ジャングルには夜になると光る小枝が落ちていた。2~3本も集めると、夜でも磁石が見えた。
  • 石川さん
  •  1944(昭和19)年1月5日、ナカナイ山脈に諜報機関があるという情報があり、現地民2名に案内をさせた。
     今夜乗り込もうという時に2名を殺すことになって、1名をジャングルに連れて入ったら悲鳴をあげた。そりゃあ何をするかはわかる。それを聞いてもう一人が逃げた。ロープで後ろ手にしていても向こうは命がけだから。小銃を撃ったが慌てているから当たらない。
     逃げた1人がすぐに伝えたので、行ったらそこはもぬけの殻で、食糧、無線機、発電機、暗号表が置きっぱなし、床下には銃器もたくさんあった。
     後で分かったのは、そこを必ず通らなければいけない所に銃口を向けて待っていて、彼らがいたら絶対やられていた。現地民が逃げて言ってくれたから命拾いした。命は紙一重。

1944(昭和19)年2月25日 第1大隊以外の全部隊にラバウルへの撤退命令

  • トッラク島の大空襲があり、ラバウルの航空隊や艦船は皆引き上げる事になったため。
  • 武村さん
  •  3か月間歩いて移動、アミエからナカナイ山脈を超えて島を縦断しガブへ、そこから北海岸線を移動。 爆撃が続き、食料はなく、マラリア、栄養失調で死んでいく。
     15000人のうちラバウルに着いたのは7000名ぐらい。
  • 石川さん
  •  半数ぐらい死ぬのは見込んでいた、それで良いと思っていたのだと聞く。

1944(昭和19)年3月6日 タラモア(北部)に米軍上陸

  • 第1大隊はガブにいたが、ツルブなど西岸からの撤退を援助するため2小隊をタラモアに出していた。そこに米軍が上陸してきた。
  • 石川さん
  •  偶々師団司令部へ行っていたため助かった。
     連隊史では戦車に爆雷を持って飛び込み戦車が止まったと書いてあるが、実際には戦車が大きくて効果がなく止まらなかったらしい。
     小隊長と当番兵の2名だけが帰ったが、後はほぼ全滅した。小隊長は自分が初年兵の時の教官で立派な人だったが帰った。頭と足を負傷し、当番兵が担いでガブに帰った。お見舞いに行ったが、身分の上の人だから「お前どこで何をしおった」とかは言わない。お見舞いを言うだけ、頭も足も包帯をしていた。
  • 武村さん、ラバウルへ移動を開始。
  •  19人は敵の艦船、飛行機の監視のために残され無線連絡していたが、更にガスマタへの上陸もあって逃げ切れなくなって「われ突撃す」という無電を送って皆戦死した。

     2メートルぐらいの背丈のミョウガがあり、それを下に敷いたり屋根にして寝る。雨季で午後になるとスコールが来る。”土人道”のぬかるんだところを歩くので1日5キロも進めない。ナカナイ山脈は1000m級の山が連なっており、ジャングルでうっそうとして上は見えない。縄梯子をつけてよじ登るような急なところもあったが、現地の人が歩くかすかな道があった 。

     転進直前に米の支給が1度あり、靴下に詰め込んだのを少しずつ食べた。おかずは粉味噌、粉醤油でおつゆに、カナカふきという小さなふき。

     連隊砲中隊の中隊長が、連隊の名誉にかけて1門は砲をラバウルまで運ぶと言うので、分解し、砲身だけで90キロある砲は連隊砲の兵が運んだが、彼らの装備を運ぶことになり、実質2往復することに。

     ガブ近くで部隊を丈夫な兵隊と弱い兵隊に分けた。丈夫な兵隊だったので、これは米軍が上がったタラシアに行くんぞと噂していたが、結局丈夫な兵隊はガブからトリウまでダイハツに乗ることが出来2日で移動。トリウで後から来る部隊のための兵舎作りなどを行う。弱い方の兵隊は陸路を歩き、へとへとになって1~2週間かかって着いた。

     ツルブからの兵隊はさらに酷く、至る所に白骨になったり息絶え絶えで、洞窟の外にこの中に○○上等兵という張り紙があるので入ったら、体が下痢まみれで、水をくれというので渡したが殆ど飲めず手を出す何がないぐらいだった。
     座ったなり死んでいて、ハエがたかり地獄だった。ものすごい死んでいる。
  • 同時期の石川さん
  •  靴も破れ、巻き脚絆を足に巻いたり、毛布を巻いたり。麻糸だから腐って底が抜けてしまい裸足になる。裸足になったらむごいもんだ。
     トリウまで裸足で辿り着いた人が、生きているのにウジが湧いていて、今亡くなったばかりなのにハエがたかっている。
     トリウで飯盒一杯白飯が食べたい、食べたら死んでもいいと言って、本当に食べたけど死んだ者がいる。

1944(昭和19)年4月末、武村さんがラバウルに到着

  • 武村さん
  •  その後は終戦まで訓練にあたった。農耕班を作りそこに入る者もいた。
     マラリア患者は沢山出て入院したり亡くなったりした。
     爆撃は毎日の様に来て、それでも亡くなった。オーストラリアから直接飛んでこられるし、艦載機もあった。
     下士官は測量を習って陣地構築に当たった。
  • 同時期の石川さん
  •  第1大隊は撤退はトリウまでで、ラバウルには行かせて貰えなかった。
     敵情視察に行ってバラバラになって仕舞い、重機関銃と衛生兵の2人だけ帰ってきた事があったが、衛生兵は捕虜になってシドニーに連れて行かれ終戦後早く帰ったが、大阪に出ていき、戦友会などに誘っても出てこない。誰とも会わないようにしていた。

ラバウルに下がれなかった石川さんの体験

  • 1945(昭和20)年2月25日
  •  サエ川河口の分掌に、熱を出した兵隊の代わりで出た日に、兵6名の分掌が敵1個中隊に 囲まれた。
     昼の12時から撃ちあいを始めて、夜の12時まで相手は下がらない。こちらがごそっとでも動けばどんどん撃ってくる、分掌の偽装の囲いもボロボロ。分隊長が「突っ込もう」と言ったが、分隊長の1歳年上の兵長が「なんも突っ込むことはない。死んでしまうだけだ」と言って、湿地帯に気づかれず逃げる事が出来た、敵は這ってくるのを警戒していたからだと思う。湿地が音をさせまいと思ってもズボンズボンするが、撃たれなかった。
     この時伝令に来た他の隊で3~4名死者が出たが、次にその場所を通った時死体は埋められて、十字架が建てられていた。敵は紳士的な事をするもんじゃなあと思った。
  • 1945(昭和20)年3月6日
  •  マブロの敵陣地を1個大隊で攻撃することになったが、犠牲者が多く2名で斥候に出された。相手は同年兵だったが、軍曹だったので自分を先に行かせる。イノシシと一緒で若いもんから前に行かせる。斥候と言っても30mぐらい前にいることは分かっている。
     戻って一人が爆雷を持って切り込み0mから大隊砲を打ち込んだ。これで敵が逃げたので、切り込みに行った者も帰れたが、30何ぼの兵隊だったから戦後も行かせた者を悪く言った。

     大隊長も中隊長も小隊長も足をやられ、慣れていない者が軽機関銃を使うから、機械は壊れ、軽機関銃隊もようやくもっている感じ。
  • 武村さん
  •  指揮官は兵隊を殺さないことも大切、それは下士官でも同じ。葉隠武士の行け突っ込めの精神だけじゃ日本の兵隊は皆死んでしまう。下手な指揮官よりは経験豊かな下士官の方が頼りになることは多い。
  • 石川さん
  •  惨めな戦闘だった。後から考えると行けば犠牲が出る、行けば相手も撃ってくる。行かんでもいいのに何で行きよったんだろう、後で思うだけ。それでも行って後へ下がらせてやろうと思ってたんだろうね。

ワニについて

  • 石川さん
  •  トリウ川の岸でワニがいて、重機関銃を一連打ち込んだ。小銃や軽機関銃では弾が通らず、重機関銃でもその時はワニは水に潜ったが、翌日浮いてきた。頭以外は皆で食べた。
  • 武村さん
  •  ワニはジャングルの枯れ木の上に上がっている。近付くとばしゃ~んと下に隠れていく。斥候でも川の中に入るのは恐ろしかった。
  • 石川さん
  •  1943年末ごろ斥候に行くときに船に2名乗っていたが、2人ともいなくなった。ひっくり返されてワニに食われたのだろうと言われたが、気の毒なので戦死になっている。

機銃掃射について

  • 石川さん
  •  トリウ海岸が機銃掃射を受けた。ドラム缶が水平に穴が開くほど低空から撃たれた。
  • 武村さん
  •  ヤシの木も折れるぐらい、バラバラバラバラ薬きょうが落ちてくる。操縦士の顔が見えるほど低空で覗いて廻っていく。
  • 石川さん
  •  1mおきに穴が開いていく。

海野少佐(第3大隊大隊長)について

 兵隊上がりの少佐だったので兵隊思いで、演習の時も「兵は休め、下士官は集合」というような号令をかけていた。
 一度復員したが、巣鴨に入りボルネオに送られて処刑された。ボルネオ時代、捕虜が脱走して中尉が射殺したことがあり、大隊長は作戦でいない間の出来事だったが、当の中尉は戦死しており責任を取る事になった。当時もう50歳前後で子供が3人いた。

何が運かはわからない

  • 武村さん
  •  南京で4年兵(14年兵)が上海へ出発する直前に満期になって喜んで帰った。10月頃帰ったが翌年3月には召集があり、分隊長か何かで新しい兵隊を連れて行き、沖縄、フィリピンで大分亡くなった。
     巻き脚絆を代えてくれたり(古い兵隊は良いのを取っているので)、「満期じゃ、満期じゃ」と喜んでいたが随分亡くなった。この時成績がよく下士官になった人は、残され文句を言っていたが、生還した者が多い。
     自分の部落では同期4名が行って帰ったのは自分だけ。2名は第2大隊でブーゲンビルへ逆上陸して亡くなった。1名は一度内地に帰ったが沖縄で死んだ。

1945(昭和20)年8月15日 敗戦

  • 武村さん
  •  ラバウルは方面軍があったから東京から連絡を傍受した。ガクッとしてへたり込んだ。連隊長が皆を集め詔勅を読み軍旗を焼いた。
  • 石川さん
  •  無線で聞いた。

     しばらくしてからオーストラリア軍が1万ぐらい上がり、揚陸作業や将校の洗濯などありとあらゆる使役に使われた。
     ニューギニアから現地民が連れてこられ、自動小銃を持って警備をしていた。

1946(昭和21)年4月24日 ラバウル出航

  • リバティー船(7500トンぐらい)で3500人ぐらい詰め込まれて帰った。帰りの船で一人が亡くなり水葬した。

1946(昭和21)年5月4日 大竹に上陸、 5月6日 復員手続き

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