インタビュー記録

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1944(昭和19)年10月15日 入隊

第24師団第89連隊第2大隊第7中隊第2小隊に所属していました。
私たちの学年は19歳から徴兵検査で、1944年3月に徴兵検査、10月15日入隊、10月10日に大空襲があったので家を焼け出された1週間後の入営となった。12月下旬台湾に移駐した部隊に代わって沖縄南方東部に駐屯することとなった。訓練は殆どなく、上陸予想地点ということで毎日壕を掘っていた。266名いた中隊だが、生き延びたのは8名ぐらい、今生き残っているのは私ともう一人の2名だけです。

1945(昭和20)年3月26日(註:沖縄上陸開始日)

陽動作戦として上陸用舟艇が集まり、艦砲射撃も始まって、私たちは10キロの爆雷を抱え戦車に飛び込むため戦車が上がってくるのを待っていたが、実際の上陸は中西部から行われた。
4月26日晩、首里へ移動命令、天皇陛下誕生日の前ということでお菓子の拝受があったのでよく覚えている5月4日~5日の日本軍総攻撃で第1大隊、第3大隊は全滅したが、僕らがいた第2大隊は予備として待機していたためこの攻撃には参加しなかった。

1945(昭和20)年5月10日ごろ 西原での戦闘

歩哨に立っているとすぐ目前に米兵がいる。手榴弾の投げ合いになった。こちらが投げた手榴弾を米軍が投げ返してくるので、ひもをつけて投げ、返ってきたらひもを掴んで又投げ返す。私はまだ頭に手榴弾が一発入っている。アイヌの人がいたが両腿をやられワーワー泣いていた。大阪の兵隊はお腹をやられて七転八倒していた。
一日中やっていると夕方になって残っていたのは50名のうち2人だけだった。中隊から伝令が来て、午前2時まで現陣地を死守せよという。翌日は代わった第3小隊が全滅。まさしく生地獄だった。

1945(昭和20)年6月 負傷

米軍はどんどん南下、押された日本軍は一気に撤退を決め27日に大きく南下したように思う。この時期沖縄は大雨が続いて泥との戦い、補給も続かなかったが落下傘で投下される(米軍の?)食べ物を拾いながら頑張っていた。兵器は機関銃が少しあるぐらいで壕に居座って進撃をいくらか止めることしかなかった。
私は“またび”という部落に砲弾を担ぎに行ったが、近くに落ちた砲弾の破片が右ひざの膝蓋骨にあたり足がのびなくなって與那に担がれていった。尿が2回で、一升瓶があふれた。
6月20日ごろ「負傷兵は戦闘の邪魔になるから出て行け」と大隊長に言われ追い出された。壕の入り口にはアメリカ軍の砲弾がぼんぼん当たっている。ひどいなと思ったが、今になって考えると大隊長以下元気な兵士はそのあと敵中突破をはかり与那原近くで皆死んでいるので、私が今あるのは大隊長のせいかもしれない。
病院の壕に移り、6月の末から8月11日まで過ごした。負傷兵は毎日死んでいくが、毛布をかけてそのままにして、その中で生活している。

1945(昭和20)年8月11日 米軍が壕に来た

最初の壕はひどくやられたが、僕は3番目の壕にいて、幸い他の部隊から数日前に壕に来た中国戦線も経験した少尉が指揮をとってくれた。
10メートルぐらいに足音が近づいたところで、手榴弾、次は毒ガス弾を3発投げた。ふんどしでもタオルでも何でもいいから水につけて口を覆え。ガスマスクは3月から壕の中にいるので湿気て役に立たない。一人はガスでのたうちまわっている。我慢できずに壕から頭を出す人間も。自分も最初は良かったが、口を覆っていても頭がぼっとしてここで死ぬんだなと思ったが、幸い米兵は退散してくれた。明日になったらこの壕はやられるから解散しよう、30名ほどいたが、全員で動けばたちまちやられるから、5名ずつ動こうということになった。

摩文仁(まぶに)の壕に移ったが、ここは膨れ上がった死体が積み重なり死臭がすざまじい。どうせ死ぬんだから、こんな臭いところで死ぬよりは外で死にたいということになり1日で出た。
場所を替えながら一泊ずつしていたが、米軍が敗残兵を掃討するために歩き回っている。それが山の上に見えて、みな手榴弾を用意して構えたがみつからずに済んだ。
米兵の駐留跡に食べ物を探しに行って、靴のクリームをバターだと思って取ってきて食べるとガソリン臭かったりした。

1945(昭和20)年9月 投降

13日夜、先に捕虜になった日本兵が来て「お前らも出て来い」とラッキーストライクのタバコを渡された。「こんなものを持ってスパイじゃないか」と5人で相談したが、最初5人のうち3人が「どうせ死ぬんだし出ていく」、二人は残ると言ったが、夜明け出て行こうとすると二人も心細くなったのか出ていくことになった。

集まってみると70~80人いた。途中、百名の沖縄人用の収容所で民間人一人を降ろしたが、戦争中沖縄の人を見ることは全然無かったので、その収容所を見てこんなに沖縄の人がいたのかと驚いた。

当時まだ牛島中将の自決も敗戦も知らなかった。駐留地に切り込みに行ったこともあり首を切られるだろうと思っていた。米軍が埋め立てたところを見て、戦争をしながらこんなこともしていたのかと思うと初めて敗戦を実感した。
男は耳・鼻を削いで殺す、女は強姦されると教育されていたので、戦争が終わったから川で洗濯をしている女性を見ても可哀想だなと思いながら逃げ回っていた。

切り込み隊

切り込み隊長で5回いかされた。5回にもなったのは、「伊禮は沖縄出身だから郷里を守ることになる、地理に明るい、幹部候補生だ」、これが理由になった。

第1回はその日の日中、米兵が大量に攻めてきて、擲弾筒を打ちまくって応戦した、曹長が初年兵の自分のところに弾運びをするほど激戦だった。米兵は多民族で団結心がなく臆病と教育されていたがとんでもなかった。
その晩、一人を連れて斬り込みに行けと言われた。地元のなまりの声がするので、「今から斬り込みに行くので家族に伝えてほしい」と伝えた。あちらからもこちらからも幾つか斬り込み隊が来て米兵が撃っているのを米兵の頭の上から見ていたが、夜中になってそろそろ投げようかと手榴弾の安全ピンを抜き投げ込んで逃げ帰った。帰り道で行きに見た軽機関銃と自動小銃と弾薬、雑嚢を拾って帰ると中隊長に褒められ、タバコを貰った。

それが成功すると翌日大隊長の斬り込み命令が来た。今度は上等兵が指揮官だったが「お前は昨日もだろう。先に行け」という。「いやそちらが指揮官なんだから」と行ったが動かない。そのうち夜が明けて彼は大隊長に嘘の報告をした。第3回は船舶兵を連れて行った。歩兵の訓練を受けていないので、投げた後すぐに伏せる事をせず一緒に吹っ飛ばされて仕舞った。4回目、5回目も失敗した。

6回目の命令が来たとき頭にきて「またですか」と言ったら中隊長は「う~ん」と言ってその後行かされる事はなかった。他の上等兵は仕事も何もないのに、自分は三ツ星でも初年兵なので雑用も多く、眠れない。「またですか」と口に出た。
そのうち「今のうちに腹いっぱい食っとけ」と言う。腹いっぱいと言われても食うものがないのにおかしいな、負けているのかなと思っていた。米兵は大きな石があるとその下に必ず食料を置いて前進、下がるときに回収するので、大きな石の下にはよく食料があった。ある日夜茶色い四角いものを拾った。チョコレートだと思って持って帰ったが食べると苦い、ダイナマイトだった。

首里からの撤退で迫撃砲の砲身を背負って下がった時、砲兵隊が馬も牽引車もやられているので人間が皆で担いで搬送している。その側を足をやられた兵隊が泥の中を這って下がっていくのを誰も自分のことに精いっぱいで助けられない。両足をやられてダルマみたいな兵隊もいる。両手で一生懸命いざって下がっていく。それも誰も助けられない。毎日戦友が死んでいくと死生観も何もない、明日は俺の番かなと、それだけしかない。

聞き取りをした会場での参加者とのやり取り

男性「私の村でも昭和2、3、4年の連中は皆防衛隊に出て、地雷を抱え死んだ。村に誰も居ない。」

伊禮「私と一緒に捕虜になった3人の一人は防衛隊だった。」

女性「私の父も防衛隊で出て行った。誰が指示をしていたかとか知っているか?」

伊禮「私は本当に米軍と100メートル、150メートルの最前線だったから、そこでは防衛隊は見ていない。ある朝、朝食を取りに5人が出て行って、先頭が米を、後ろが2人ずつ汁の入った醤油だるを担いでいた。そこに機銃掃射で先頭の一人はあっといったらもう掌が無い、次の3人は声もたてずに死に、最後の一人は一度うまく隠れたが、すぐに次の銃撃で殺された。その日は朝食が無くなった。そんな近くだった。
自分は悪運が強いのだろう、手榴弾が来ても、砲弾に飛ばされても、敗残兵になってもなぜか死ななかった。不思議なもんだと思う。何も分からない、20歳の子供で夢中だった。」

若い男性「切り込みは何をやったら任務達成なのか、どういう基準で選ばれるのか?」

伊禮「選ぶのは上官の勝手だから、私にはよく分からない。主に初年兵だった、いつ死んでも良いというやつだろう。船舶工兵などは船もなくなったので用が無くなったと切り込み隊要員として前線に送り込まれた。持っていくのは手榴弾程度で大した火器は持っていかないのだから撹乱ぐらいの意味しか無かっただろう。」「米兵は一人でも遺体を置いていくことをしない。危険をおかしても収容していく。日本軍は道でもどこでも置きっぱなし、腐乱する。」

男性「沖縄人は日本軍を友軍と呼んでいた。軍隊自体は何と呼んでいたか?もうひとつ、日本軍は残虐行為や集団自決をさせたりしているが、失礼だが伊禮さんの所属している軍隊は沖縄県民に対して何をやったか、やらなかったか」

伊禮「先ほども言ったように私は終戦で収容所にいくまで沖縄の人をただの一人も見たことが無い。常に最前線で米軍と隣合わせにいた。民間人なんているようなところでは無い。
日本軍については皇軍と呼んでいた。」

同じ男性「そう答えない兵士が案外いる。日本軍じゃなく皇軍だったから日本人を守らなかったんだ。」

伊禮「うちの親父も村の住民が入っていた壕から追い出されたと言っていた。「住民も生きる権利があるんだ」と言ったら、“さいた”という少佐が「おまえは天皇陛下の命令も守らんのか」と軍刀をがちゃがちゃがちゃがちゃさせたと親父から聞いている。戦争がどんなに悲惨なものかつくづく分かりました。私は徹底して戦争に反対します。戦争だけはやってはいけません。」

新聞記者「命をかけて戦ったのは何がそうさせたと思いますか」

伊禮「命令です。国のために死ねという以外に何もないです。」

記者「それを信じるのですか?」

伊禮「それ以外に考えようがないですよ。そんだけですよ。」

記者「それが価値の無いものだと知った時どんな気持ちになるのですか。」

伊禮「教育の恐ろしさですよ。男は国のために死ね、20歳になったら兵隊に行って死ね。」

記者「教育はそういう人間を作れると?」

伊禮「そうです。」
会場「徴兵を忌避するとか、指をなくして銃が撃てなかったらとられないとか言いましたが?」

伊禮「そうは言いましたけど、とにかく男は足りなくて、部隊にもこんな体力で大丈夫かというような人間は混じっていた。とにかく員数合わせができればよかった。そんな忌避とかできるもんじゃないですよ。どこまで行ったって逃げ切れるものじゃない、運命だと思うしかない。」

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