インタビュー記録

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尋常高等科を卒業して、紡績工場に就職。贅沢品だと工場が閉鎖になり、紹介されて沖縄新報社に就職。東町に1年ぐらい、そうしたら戦争(沖縄戦)になった。私の年齢の人は軍属に採られているけれど、私が行かなかったのは新聞社が軍に協力していたからではないかと思う。
私たちの年齢では山原(やんばる)に疎開は出来なかった。地元で働きなさいということで、ここにいるしかない。ずっと前に行った人は助かったけど。でも軍属にならなくて良かったから助かった。

1944(昭和19)年10月10日 空襲

丁度出勤する時で泊市場の辺りで、敵とは思わないで演習かなと。新聞社は空襲を察知したのかすでに東町から十貫瀬(じっかんじ)に仮事務所を作って移っていて。十貫瀬は住民は少なく畑がいっぱいあって、朝鮮の軍属が荷役で働かされて、死んじゃったらお墓で釜石被せて石油かけて燃してた。あれなんだろうと見た覚えがある。他所の人の墓でよ。
空襲では怪我人もない、あまり被害も出なかったけど、多分輪転機なんかは駄目になったんじゃないかな。工場は駄目になった。

1945(昭和20)年4月初め頃~

十貫瀬から首里に。首里城の下に師範学校の壕があった。会社の壕は作ってなかったので、そこを借りて2ヶ月ぐらいおりました。

父母は浦添にいて一度は帰って来たが、首里に戻って。怖さを知らなかったのか、鉄兜を被って腕章をして、陸軍がスパイかと疑うので腕章をして、腕章には沖縄新報と書いてあった。新聞を刷る大きな紙をおじさんたちがトラックもないから荷車に積んで、わっしょいわっしょいして首里まで押して。
会社の人も皆同じ、地べたに板を敷いて寝るような感じ。新聞はガリ版刷りで発行していた。うちらは飯炊きみたいなもの、玄米をつついて。人がいないので、野菜や薪は盗ってくるような感じ。壕は4つ入口があって、偉い人の部屋、記者の部屋があって、私たちは人の通る道に寝ていた。顔の上を飛び越え飛び越えして暮らしていた。隣の男子師範生が米の俵に石油をこぼして、くさくて食べられたものじゃない。戦争でもひもじくて食べられたものじゃない。食糧難の時でも食べられなかった。

ガリ版の新聞は現地軍発表という感じで。だから軍の発表のとおりですよ。龍潭池の側に司令部があったのを当時は私は分かっていなかった。記者の人は司令部に行って、現地軍発表と、あれを信じるしかない。行ってきてふうふうはあはあしてたもん。私なんか近くにあっても何でも秘密でしょ、ここが司令部なんて知られてない。
記事が集まった時だけ出していたと思う。毎日載せる記事はなかったんじゃないかな。A3ぐらい、1枚。壕の中に活字を新聞社が移動する時持って来ているでしょ。学校の戸板は区切りがあるので、そこに活字の箱を載せている。昔の新聞はおじさんたちが1字1字全部手で取っている。判子があって仮名も漢字も埋めている。見出しもそれを書く専門がいる。爆風が入って来てばんとやられて、あれから出来ないのさ。風が入口から入ってきたら立ててあるのが倒れて。爆風は死ぬ人もいる。

上の人誰も言わないけど、今誰もいないから私言えるけど、ろうそくやらマッチやら大豆、こんな配給を会社にくれていたみたい。玄米をビンに入れて棒でつついて皮をむく。大きな鍋にご飯を炊かされて、私は当時炊事をしたことがないからとても困った。沖縄のお砂糖を炊く大きな鍋、しょっちゅう蓋を開けて加減を見て、薪をくべて。

住民がいるところに誰それとなしに配っていた、情報を見せるために。(軍が知らせたいと思った情報を住民に知らせるために?)うん、金を取るんじゃなしに。(それで軍から配給を貰ってたんですかね?)そういう約束だったんじゃないかな、私多分そう思います。だって他は何もないのに、マッチ、ろうそくなんて。缶々にろうそく照らして、大豆を炊いて食べておなかくだしてあへあへしている人いたよ。首里城は水はたっぷりありましたんでね。最後は壊されて。一般の人は水を汲みに行くのにやられるでしょ。

師範生には、毎日死ぬ人がいた。戸板に乗せて南風原(はえばる)に運ぶけど行きながら死ぬかもしれない、そういうのをよく見ました。亡くなったんじゃないかな、悪い人は命絶えるように注射でやってたって、見てはいないけど話には聞いている。

内地から来た新聞記者もいた。朝日新聞とか。碑がありますよ。ああいう人たちは仕事をしに来てるから。疎開している記者の人は、元の新報社には戻って来ていない。(※最後まで壕にいた10人のうち9名が沖縄タイムスの創刊メンバー)。家族と早く疎開した人も、途中で船でやられた人も。沖縄戦が始まる時に10人ぐらいはいたかねえ、お偉方も疎開している人はいるでしょ。家族は疎開させて1人残っている人もいるし。
やがて瓦礫の山になってそこにおれなくなって。恐さ分からなかったのかねえ。

(1945(昭和20)年5月27日)

首里の石嶺まで米軍が上陸しているのでグループを作って南部に下がりなさい。家族はどこにいるか分からない。5~6名救急袋ぐらいを持って、食べ物は持っていない、慌てふためいて、一日橋を通り、南風原を通り、兵隊が、首のないのとか、馬が倒れているのを見た。「たから?」で一泊、照屋、糸満を通り、名城ビーチ、「いさか」(伊敷?)という所に着いた。拾ってきた芋でも炊こうかとバケツに火を炊いていたら、どんどん摩文仁から艦砲射撃が来るし。ここもおれないなと引き返し、喜屋武(きゃん)まで。私が見たのはところどころ死んでいるのを見ただけで、山と積まれているのは見ていない。

喜屋武の崖に降りて何日か過ごした。壕はなくて、岩の湧き水があって、陸軍がいっぱいいました。兵隊が逃げて来て。兵隊は食べるものが何もないから人のいるところに指をくわえて立っているような感じだった。恐かった。さとうきび、汁出るでしょ、食べるものだからアメリカさんは火炎放射器でどんどんやられてるのよ。これも一つの生命線。

摩文仁まで行かないけど、あんたと私ぐらいの距離で人がやられたから戻って来たの。胸、あん時私ほんとうに泣いたよ、男の人だけど。機銃掃射で、ここ(右胸)をやられて、しゅーっと血が出たわけよ。泣いて。だから人の命って分かんないもんだね。屋敷に仏壇、線香立てるところだけあるとこあるでしょ。あれは一家全滅の家。あそこは戦前からあまり作物の出来るところじゃなかった。枯れた村よって言ってた。

私が恐いなと思ったのは、名城ビーチの近くの部落、福地。戻ってきてそこにいた時に日本の兵隊もたくさんいたわけさ。家族やられて、ちっちゃい子だけ1人残ってた。子供貰う人いないかねって言うわけ、兵隊が。あんた自分の身も危ないのに、子供貰う人いる? あの時は恐いと思った。硝煙が舞って。

1945(昭和20)年6月中旬

そこに糸満の警察学校の偉い方が部下を連れていた。管理職の人が部下に「君たちは若いから出て行っても殺さないよ」と。自分たちは責任があるから出ない。その人について私も出たんです。アメリカ人が、いれずみしたんやら何やら恐そうなのが裸でいっぱいいて、怖いなと思ったけど、可哀相に思ったんでしょう、食べ物、ビスケットやら。皆恐がって毒が入っていると思うでしょ、食べてみせるわけ。
そこから男と女を別々にして、豊見城に収容されて、人間が溢れるからまたトラックに乗って北部、宜野湾とか点々とさせられて。国頭の古謝(こじゃ)で何ヶ月か過ごして。作業をさせられて、蚊帳でおうち作ったり。配給はくれてました、毛布の配給もくれてました。
集められて、自分の故郷、元の住所に移動することになって、私は那覇、そこで落ち着きました。市役所で何ヶ月か勤めて、役所の人が戻って来るのでやめざるを得なくなって、自分の部落に戻って。英文タイプの出来る人がいなかったので一から教わって、午後は単語も習って。子供が1人出来て、20何年勤めました。ベトナム戦争の時まで働きました。ベトナム戦争が終わったら赤字減らし、年数の長い人から退職しました。


私戦争の話、初めてするんだよ。一緒に歩いた人ともしたことない。みんな戦後は生活に追われて。
私は自分だったでしょ。会社なら情報得られると思って、親を心配させて。道で似た人を見たらこれじゃないかな、あれじゃないかな、だったって。
小坪大尉という人は分かっているから、3月26日、「即逃げなさい」と。皆墓の中に入っている、(墓の)1軒1軒廻って「明日逃げないと駄目だよ」って。自分はここで世話になってるから、うちのおばあちゃんの家は大きかったから、そこに入ってた。翌日は皆トラックに乗って名護に逃げた。

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