山下 春江さん

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山下 春江さん

生年月日(昭和)年生
本籍地(当時)
所属
所属部隊
兵科
最終階級 

インタビュー記録

当時の韓国 

 どうして海外へ行っていたというのから。私の父は、役人でしたから、韓国併合って明治423年にあったんですよ。その後に、内閣の命令で、朝鮮13州のいちばん北のところ、満州の手前ですけど、平安北道州(当時の平安北道州では?)に父は、赴任したわけです。父は加害者の形になりますけれども、朝鮮の中に日本人の学校を建てて、朝鮮の学校もありますけどね、まあだんだん日本人が中に入っていきますからね(日本の学校がありまして)学校を作ったり、神社を建てたり、いわゆる日本の同化作戦ていいますかね。そういうふうな形になりまして、そして朝鮮の学校にも日本人の教員が行って、だんだん日本語で教育するようになったんですよね。

満州国

 昭和の初めになってくると日本の兵隊がたくさん送られてきたわけです。新義州はね、満州との境に川がありまして、鴨緑江(オウリョクコウ)という川がありまして、その向かい合わせにありますから、国境の街ですからね、日本からたくさん兵隊が送られてきてそこにとめられたりするの。時々見たことあるんですけれど。
 それからしばらくして満州事変が起きるんですよね。で、その兵隊がたくさん送られてきて満州事変になってから、満州どんどん日本人が沿線?に入り込みましてね、日本人が相当満州に入ってから、私の父は、しばらくして、満州に移ったんですけれどね、満州といっても、向かい側の安東というところに移ったんです。そして満州ではね、中国人が長(ちょう)の形になるわけです。いろんな、あの、日本でいえば、区長とかそういう形になるのが。
 あそこでは、長は中国人の名前がつけられて中国人がなるんですけど、日本人が副(長)になる。結局日本人の方が実力を持って動かしていたんですよね。そして満州国がしばらくしてつくられて、プイシー(溥儀)が皇帝になって、満州国がつくりあげられた。

開拓団 

 開拓団の人はね、ソ連と対峙するために、北側の寒い地域に開拓団ができて、どんどん日本から送り込まれたんですけど、今度は満州で私たちは生活したんです。私が女学校4年の時に父は病死しました。で、私は、女学校の卒業後、教員の学校を終えて、小学校の教員となりました。当時はね、戦時一色の教育でしたから、神の国、大東亜共栄圏、満州には五族協和といって、あそこにはたくさんの民族がりましたからね、そして満州国をどんどん栄えさせるっていう政策をとっていたんです。
 その頃私は小学校の教員になっていましたから、在郷軍人が指導して太刀とか薙刀をやったりね、訓練を小学生でもやったんです。学校の周りには、ヒマを植えさせまして、ヒマシ油といって油が取れるから、飛行機の燃料にしようというんで、本当に飛行機の油になったかわからないんだけれども、たくさん植えたりね、防空壕を掘ったり、そういういろんな形になって。

 男の先生はほとんど在郷軍人で取られまして、校長先生や年取った先生は男の方は残りましたけれど、あと3分の2は女の先生という状態になりました。それで私の姉はね、満鉄に勤めていたので、中国の戦局が広がっていくと、人が足りなくなりますしね。姉は天津に出張させられて通信の仕事を何年かやらされたんです。日本の軍隊はまず(中国の)百姓の家に入りこんで、食糧を確保するために中国の人たちをとってもいじめてたわけですよね。そういうのを目の当たりにしまして、姉が帰ってきたのはずいぶん後だったんですけどね、悲惨な状況を見て、私たちにいろいろ話したんですけどね。

 やがて敗戦になりましたから、敗戦になってからはね、日本にいる人には思いもつかないような無政府状態になったんです。銀行は閉鎖されるし、たちまち日本のお金は使えなくなったりしてね。それから、私たちはしょうがなくてね、中国人の売る食物を物々交換で、私なんかまだ南の端でまだ家にいろいろ残っていたあれがありましたから、物々交換できましたけれども、北の方から流れてきた開拓団の人たちはね、何もないもんですからね、食べる物も少なくなって、冬になったりするとマータイ(註:麻袋)を体に巻いて悲惨な状況でしたね。市場のまわりにいろんなこぼれものとかね残った野菜などを貰ったりして食べていたようです。私の家にも北から流れてきた3家族が入りました。何か月か生活していたんですけど。だんだん食べる物がなくなりまして1人減り、2人減りして、どこかにいらっしゃったようですけれども。そういうかたちでしている時に、私たちは公共開発会社っていう会社の社宅にいたんですね。父が亡くなっていましたから、母がそこの会社の寮母をしていて、独身の社員の生活をみていたんですね。

 敗戦しましたら、中国の人たちがその会社の倉庫を襲ってきて、そして社員が抵抗したわけですよね。(社員は)日本人でしたからでしょうけれど、襲ってきた中国人が軍隊に連絡して、ただちに八路軍が来て発砲したわけですよね。私なんかはあわてて屋根裏に隠れたんですが、弟たちが風呂場に隠れてかたまっていたんですが、八路軍の撃った弾が中の弟の背中に貫通して、あとあと肋間神経痛っていって痛いんだそうですけれど、私たちはその時はどうなるか分からないぐらいびっくりして、母はその頃、満鉄の安東(あんとう)病院に付き添い婦として1番下の弟を連れて行っていたもんですから、私と妹と弟2人がその社宅にいました。そういう時にそういう状況になりまして、背中に貫通したのが、肩から入って背中から出たんですよね、かがんでいたもんですから。そして肋間神経痛になってずうっと悩ませることになったんです。

 それからね、だんだん食糧が大変になったんでね、前にね学校で働いていたボーイさんが餃子ファンテって書くんですけどね。いろいろ食べ物をあれするような店を開いていたもんですから、そこへ私ともう1人先生の奥さんと2人で働きにきたら、食べ物何とかできると言われて行ってたんです。 

ソ連軍のふるまい

 そしたら、そのうちソ連軍が入ってきまして、ソ連軍というのは当時ねドイツと戦った後ですから、人が足りなくてね、監獄から出てきたようなソ連軍を連れてきたんですって。だから、女の人を見ると強姦したりね。それから物をね、時計なんかを人のを取ってね、ここにずらーっと(腕を手首から下になでるしぐさ)はめたり、余った物は足首にはめたりそんな兵隊がやってきて、奥さんに乱暴しようとしたわけですよ。で、奥さんは抵抗したのでね、叩かれたり、うんとけがをさせられたのですけれど、私はその間にボーイさんがオートバイで送ってくれたから助かったんですけれど。その奥さん、ずいぶん顔やら体やらすごくけがをさせられたというのがありました。

 それで日本人の男の人は、女の人の羽織りを裏返しに着て物を売ったりね。女の人は頭を丸刈りにして、顔に炭を塗ったり男装をしていたんです。そういうなんかソビエトの人が強姦したりするという噂が飛びましてね、母とある時外出した時に、中国人から襟巻やら外套をはがされたり、抵抗すると石を投げられたり、そういうのが何回かありました。

 そして姉の義兄は、旦那さんのお兄さんですね、中国人に襲われて、青龍刀で殴り殺されたんです。あのその頃はね、日本人が戦前はいばってたものですから、クリーニングか何かをやってたんですけど、中国人が襲ってきて青龍刀で殴り殺されたっていう。それから除隊兵が随分うろうろと多くなってきたんですね。弟が1人の兵隊を家に連れてきて、衛生兵っていわれてましたが、皮下注射を打つのに私たちに頼んできたんですね。だから皮下注射くらいは打てるからとやってたんですが、後でわかったんですが、これはモルヒネだったんですね。その時はよくわからなかった。

 そして1番はじめに八路軍が入ってきましたでしょ。それから船で山東の方からきたから1番早かったんですよね。その後ソ連軍。最後に国民党軍が続くんです。そうして国民党が来るからっていうんで、私がボーイさんの家で働いているっていうことを市公署っていう区役所みたいなところですけどね、そこへ行って自分のところで働いているから、軍隊に取らないでくれってい証明書をもらって、帰る時に運悪く八路軍の一人に出会ったんですよね。私が日本人だとわかったらしくて、主人(ボーイさんのこと)が市公署へ行って証明書を貰ってきたから連れていかないでくれっていったのにもかかわらず、駄目だって言われて、とうとうそのまま私が道を歩いている最中に連れていかれたんです。

 そして何も持っていませんから、兵隊が、銃を持って、歩いて30~40分で帰ってこられるなら(帰ってよい)っていうんで、兵隊に連れられて家へ行って身の回りの物を持って、行ったところが大きな船の中だったんですね。船は鴨緑江をさかのぼっていくためそれの中に行ってみました、日本人の看護婦さんとか先生とかほとんど日本語でしゃべっていたから、ほっとしたようなものを感じていましたけど行ったんですけれど、小さな町に船で連れていかれて、行った所は鞍山かどっかの日本の病院の人たちがいたわけですよね。

 私も全然わからないし、連れていかれて2、3日した時にですね、母が小さな小舟で、隣のらくそうという町から兵隊を1人連れて、私を連れていきたいという証明書をもらって、軍の上の方からの証明書を持って迎えにきたんです。なかなか駄目だと言って帰してくれないんですよね。その人がちょっと用事がある間に、上の中国の方が、今の間に行けと言うので、母がいるね、安東(アントン)の病院の人が行っているところへ行くことができたんです。

 それでその時に日本人の女性ばかり集めてね、「注射を打ったことがあるか否か。」で分けられたんです。注射を打ったことがある人は看護婦、打ったことのない人は付き添い婦に分けられたんです。私は衛生兵のおかげと言ったらおかしいんですけど、まあ注射を打ったことが一応あるとして看護婦ということになったんです。で、楽そうというところで、日本の博士の先生方が、毎日内科の先生、外科の先生、薬科の先生な教育を受けて、半年くらいした頃に国民党がやってくるっていうんで、すぐ向かいの鴨緑江の向かいは朝鮮なんですよね。ちんすいといってね、水豊ダムがある所なんですけどね。ちんすいという所は、昔日本の軍隊の宿舎がたくさんあるから、そこへっていうんで、すぐ川を渡ってちんすいの宿舎に私なんか避難したんです。ところが、ちょうどその頃日本軍の731部隊というところがいろんな菌をばらまいたおかげで敗戦後おおくの伝染病がはやったんです。腸チフス、発疹チフス、コレラなどがはやってね。

 その時1番下の弟が、発疹チフスにかかったんです。でも、すぐ向かい側に渡って臨時に渡ったものですから、発疹チフスってね、3週間も高熱がでるんですけど、それに対してのいろんな注射もないし、なんかゴタゴタしている最中ですからね、もうぜんぜん高熱にうかされているのに、ほったらかされてたわけですよね。

あの、ですけど、そういう状況の中で、年取った者やら子供たちはもう日本へ帰そうってことになりまして、私の母やら、先生の奥さんたちも小さい子供さんがいましたからね。その方たちと弟たちと一緒に日本へ帰すことになったんです。でもそこは朝鮮ですからね、何もなければ困るからと思って、私は貴金属やら母の着物など持って、朝鮮の人たちの家を回って、そして少しずつ、あの、お金に換えていったんですけども、私たち日本人は昔悪いことをしているという考えがあるから、日本人にはなかなか冷たいんですけどね、いくらかのお金をもらって、今度は弟を、高熱のままでしたけれど、おぶって駅まで連れて行ったんですけど。満足な治療もないままでしたから、耳の神経がやられて音耳が聞こえなくなったんですね。仕方なく日本へ帰すことになってそして母たちも苦労して1か月くらいかかって、清津ていう北朝鮮の日本海側の方へつくのに1か月かかったらしいんですけど。

そして、その後、家に、それも大変だったらしいんですけど、いったん日本の家に着いて、まず最初に父の家に、結婚してから父の家に1回も行ったことがないんですよ。あの、海外でしたからね。その、弟を連れて、あの、お義母さんのところへ行ったらね、父の位牌を持ってこなかったっていう理由で敷居をまたがしていただけなかったんです。

で、結局、まあ父の親戚のある人がうちへ住みなさいと言われて、ニコヨンみたいで和歌山ですからね、山から切り出した木をかついで下まで降ろす、そういう仕事をやったらしいです。初め少しですけどね。そしたらこれ以上やっていけないからって、母の姉の所へ手紙を出したら、さっそく迎えがきて、そして前橋の方へ行ったっていうんですよね。まあ、そういう状況がありますけれども。

弟は、耳の神経をやられたので、聞こえなくなって、何もできないことに悲観して、母を銭湯へ送り出した後に、灯油をかぶって自ら火を放って自殺したんです。で、すっかり家は焼けて、着の身着のままになった母は私が引き取って死ぬまで看しました。でもね、これもみんな戦争のために引き起こされた悲しい出来事だったと思っています。

中国のふるまい

それからね、これはまた元に戻りますけれど。国民党の姿が川を隔てて見え隠れするようになった時にね、私たちは、鴨緑江の川が凍るのを待って、氷の上を行軍して、奥へ入っていったわけです。その時2、3人逃げたんですけどね、後からつかまりましたけど。行軍の途中、昔の日本軍の将校が、武器を持って市民を巻き添えにして、たくさんの日本人が殺されたっていう通化事件の起きた場所を通ったんです。いろんな人の血の色で川が赤くなっていたんですけれども、日本人がたくさん投げ込まれたっていう話は後で聞きました。
 それで通化を越してどんどん奥へ入っていくわけです。八路軍ていうのはね、私なんかが入った時はね、10人のうち2、3人鉄砲を持っていればいいぐらいのね。最初は全然武器も何もないんです。で、そのうちにひとつの戦闘が終わると少しずつ増えていくんですね。それで国民党というのは、大きな都市に集まっているわけです。

 で、八路軍は結局まわりの小さな部落にいて集中的にいろんな戦闘をやるんですがね。ある時私なんか西安と言って昔の奉天なんですけど、城壁近くまで囮として近づいて、城壁から国民党の兵隊をおびき出すっていう、そういう、あの、活動をしたわけです。近くまで行くと国民党の兵隊は、機関銃や鉄砲でバタバタ撃ってくるわけです。私たちは一目散に逃げて夜通し走らなければならないんです。でもね背中に背嚢をしょっているわけですよ、10㎏位のね。あのう、布団は中の綿を抜いて皮だけをたたんでその中に自分たちの1、2枚の下着などをくるんで、そのまわりはコーリャンといって、向こうでは赤いコーリャンの粒を食べるんですけど、それを8㎏くらいかつがされているわけです。背中にそういう背嚢をしょってますし。それでガンズっていう鉄の、日本いえば歯磨きなんかで使うようなね、鉄製の外側を色つけたようなのを各自背嚢にぶら下げて、お箸は、ゲートルを巻いてますから、ゲートルの横に差し込む、そういう形で戦闘に行くのに一緒についてまわるわけです。そしてその囮になって、走って走ってあくる日の昼頃まで走ったんですよね。そしてその間に何人か走れなくなって倒れた人もいましたけれど、結局助けるわけにはいかないんです。

逃避行

 後ろから銃を撃ってきているから、敵兵がどんどん追いかけてきているんですよね。だから走らなくちゃいけない。翌日の昼頃まで走って、橋まできたわけですよね。中国の橋は手すりがなくて、木だけでできたような橋ですから、もう。軍人から看護婦から馬から、もうみんな一緒にその橋を早く渡れっていうんで、それこそ1分後に飛行機がきて、橋を爆破したわけですよね。後で聞いたら、それは味方がやったらしいんです。あの敵兵が後ろから追いかけてきているんで。敵の国民党の兵隊が出てきた時は、他の部隊が後ろの方を囲んで帰れないようにしているから、国民党もどんどん、追っかけてくるようにどんどん進んできたわけです。

 それで橋で、あの、爆破されたものだから、国民党の兵隊は捕虜になったわけですよ。そしてその捕虜は、後で聞いたら、40万っていうんですけれど、私なんかもね、逃げてもう疲れ切って昼に寝ている間に捕虜がどんどん捕まってきたんですけど。あくる日にやっぱり夜になると出発するわけです。毎日50㎞ぐらい歩くんですよね。夜暗くなりかけたら集まって、あくる日の明けるまでずーっと歩き続けるわけです。その間に、あの、足は水がたまって30個位豆ができるんです。その日のうちに、つぶさないと次歩けないから、つぶして、また翌日30個位豆ができて、そんなにして毎日歩いたんですが、その捕虜があれした時も、まん中にいっぱい集めてあくる日歩かなけりゃならないんですよね。まわりは八路軍が周りをあれしてた時に、ちょうど出発する寸前、敵の飛行機がきて、爆弾を落としたわけです。だからまん中は捕虜ばっかりなのに、国民党軍の捕虜はやられて、まわりは八路軍だから結局あんまり爆弾の影響は受けなくて、そういうふうになって国民党の兵隊はたぶん死にましたけどね。

 そういう形であくる日に錦州ってところの街を歩いていたら、やっぱり敵の飛行機がきて、今度は機銃掃射でどんどん撃ってきたわけです。私のそばにいた看護婦が機銃掃射を受けて、肝臓に命中しちゃって、即死だったんですけど。そういう感じで、時々歩いていても、敵の飛行機がやってくるわけです。夜なんかもね、飛行機が、真っ暗闇のところを歩いているんだけどね、焼夷弾を落として明るくなるわけですよね、真昼間みたいに。そしてその後、機銃掃射をしてね、馬とかね、人間も隠れているんですけどね、機銃掃射というのはね、大体飛行機がきて、まっすぐにどんどん撃つわけですよ。だから周りにいるとそんなに当たらないんですけど、たくさんの中には、そういう機銃掃射で当たる人も何人かいてね、そしてだいぶ亡くなった方もいるんです。

 そういう風に爆弾を落とされるとね、私たち生理が止まっちゃうんです。それから1年も2年も。ある人はね、続いて止まらなくなって、ずっと生理が続いて、もう女の人はいろいろ苦しい思いをしました。行軍中の大小便も大変なんですよね。トイレなんかありませんから、女性は友達に大きな布を広げてもらって、大きな布といっても、布団の皮みたいな持ってたのを広げてもらって用を足したわけです。

 それから冬は寒くなってだんだん北の方へ行くと、川が凍ってくるわけですよね。敵の兵隊が追っかけてきたなんて時は、結局氷が浮かんでいる川でも、すぐ通り抜けなくちゃいけない。そういう形で氷の水の中にすぐに入らなくちゃいけない時もたくさんあります。それから盧溝橋って北京の近くまで行った時なんかね、急に偵察隊がやってきたわけですよ、そういう時は、中国語で早口でしゃべるもんだから、とっさには私なんかが先に行ってると、答えられないわけですよ。何を言っているんだか、わからない。それでこっちで話するのも中国語で話をしなくちゃいけないから、だからみんな黙っていたら、その偵察は踵を返していったら、5分ぐらいして銃声がどんどんどんどん撃ってくるわけですよ。私なんかもいろいろ逃げて前の方の小高い丘へ上がったら、高くなって、で、結局弾が高いところの方が飛びやすいんですよね。そしてそばで一緒に走って逃げてた人が撃たれたりね。そんなことも(ありました)。

 で、結局10㎞くらいは逃げるんですよ。撃たれても。そして銃声が少なくなったら、やっと走るのを止めるという状態が何回も続きました。それから、何㎞歩いても、「北京まで20㎞。」と言うんですよね。それであくる日になって聞くと、「まだ北京まで20㎞。」そういうわけですよ。もう何日か歩き続けてその後で聞いたら、北京を包囲していたんですよね、いろんな軍隊が一緒になって。だから北京の周りをまわって、20㎞。みんなで包囲して。結局、戦いをせずに、無血で北京は解放されたの。そして、天津も同じように20㎞ぐらいの周囲を包囲して、天津も無血で解放したといいます。でもね、激しい戦いの中ですから、みんな病気になるわけですよ。あの頃は、肺結核がはやっていましたからね。私もね、熱をたくさん出したりね、血沈が2とか3とか後は結晶になってたので、真っ白になるわけですよね。そうなるとやっぱり肺の方がおかしいんだと。調べてもらうわけですよね。X線とかそういうのは昔ありませんでしたから、先生のちょっとした診断だけでね、簡単にはわからないんですけれども、私がなった病気は、マラリア、回帰熱、急性肺炎、結節性紅斑、腸チフス、肺尖カタル不明熱、そういう病気にかかって、いろいろ熱が出たりしましたけど、それでも行軍は続けなければならないので、それこそ熱が出ても歩いてましたね。

 そういうふうにして、丸4年間は風呂なんか1回も入ったことありません。中国はね、北の端北安(ペイアン)から南の端広東まで全部歩いたわけです。それで、蒋介石の軍隊はね、上の方は4年後に台湾に逃げちゃったんですけど、下の兵隊、残党がいっぱいおりまして、結局それを追いかけて、南までいったわけですよね。そしてそのたくさんの兵隊も死んだりしてね、いろいろ送られてくるんですけど。その処理をしたりね。

 それから南京を通る時はね、日本人が虐殺している状況を、写真に写していてね、漫然と展示されている塔があるんです。その塔を上まで上がって、全部壁から何から日本の兵隊が中国の人たちを殺している。そういう写真がずうっと並んでいる。そういうのを見て、本当に、日本の兵隊は、そういうのを平気でやっているんだなっていう。目に焼き付いていました。行軍している時、食べ物がなくて百姓から買ったネギ1本がその日の食糧の時もありました。それから男の人がヘビを捕まえてブツブツ切って、火にかけた時は、まだくねくねと動き回っているんですね。そういうのを見て、今でもウナギが食べられなくなったんです。

 そうしてやっと4年後に、国民党が逃げていったもんだから、革命が成功したっていうんで、北京で勝利宣言をやりましたが、私なんか南にいましたから。で、それが成功してから朝鮮戦争が始まったんです。だから、中国の兵隊はみな広東から朝鮮の方へ抗米援朝(中国のスローガンはこれで、援朝は間違いないかと。前半は確かにかんめいと聞こえますが、抗米を中国語発音だとこう聞こえるとか??)といって、アメリカに抵抗して朝鮮を助けるっていうそいういう戦争に向かったんですけど。それもね、あのー、地上ではね、戦闘ができないくらいアメリカの飛行機が、爆弾が落とされたもんだから、地下にもぐってそういう戦闘をやったらしい。日本人は、あの、国際的にそういうのがわかったらいけないから、行かされませんでしたけどね。

 で、けいこさんていう兵隊が傷ついた兵隊たちをみるようなそういう所に私なんか行って1年間か2年間いましたけど。それであの朝鮮戦争終わってから、私なんか学校へ行って、あの大学で4、5年の勉強をしたんですけど。主人はその時中国語の勉強をやりましたから、今も中国語もいろいろ教えていますけどね。

 でも、今考えると戦前に私たちは、教育勅語っていってね、天皇をあがめたり、天皇の皇軍を助けようっていう教育ばかり受けてましたから、今、教科書問題で侵略戦争でなかったなんていいますけどね。だけど教育勅語ができて4年後に日清戦争、日露戦争、朝鮮出兵(併合)、それからシベリア出兵、第一次世界大戦、満州事変、日支事変、大東亜戦争、第二次世界大戦ですよね。そういう戦争が起きましたから、だから、今、教科書問題も大切だしね、あの小泉首相が靖国神社に参拝しだりしていますけどね。

 そういうのが、やっぱり今の若い人たちはいろんなことを知らないと思うんですよね。だけど全部今度憲法9条を変えようとしていますけどね。変えたら戦争に参加するような国になるんじゃないかと心配しています。だから、2度とあの悲惨な戦争を起こしてはならない、起こしてはならないと思っています。

 私は、今、81歳になりましたけどね、やっぱり平和っていうこと、戦争ということに対しては、敏感に感じる方なんですよね。こんなんでも役立つかしら。以上です。

質疑応答

聞き手:女性が八路軍に入ったのどれぐらいの数ですか?・・・何人かで行軍しているみたいですけど数としてはどのくらい?

そうですね。今度、私、中国に招かれたんですけど、その時の話では、あの日本の兵隊が捕虜になったのは、2000人くらいなんですって。みんな今、年取ったからこれなかったんですけど、私の主人含めて14、5人しかいなかった。もうほとんど亡くなったらしい。でも、あの、八路軍、国民党も日本人を流用してますからね。その10倍じゃないかという話があるんです。だから八路軍に入った人たちは私なんかの部隊でも500人はいましたね。

聞き手:部隊はどのくらいの規模ですか?

私なんか、後から42軍になりました。42軍の衛生しょ(所?、署?)のね。ちゃんと3か所あるんです。衛生しょで働いている人たちはほとんど日本人でしたから。ひとつのしょに150人くらい。

聞き手:そんなに日本人の女性の方が入っていらっしゃる。

はい。それは病院そのものが一括して流用されたから。病院に勤めていた看護婦から先生から付き添いから全部一緒に連れていかれましたから。だから日本人は相当いますよ。

聞き手:軍はどのくらいの規模ですか?

そうね。師団がありますからね。私なんか軍部だったんですけど。ある時がその師団に手伝いに行くというのがありましたからね。

聞き手:軍の上に師団があるんですか?

いいえ。下です。軍の下に師団があります。師の方の兵隊まで入れたら、師の方の兵隊はほとんど中国の人ですからね。何人でしょうね。私もよく分からないけど。

聞き手:師団は1万から2万?

答え:そんなにいないですね。八路軍。

聞き手:最初にもお聞きしたんですけど、初め装備がなくて、7、8人で銃2丁。銃はチェコ機銃でしょ?(答え そうですね。)みんな弾を持っているんですか?それがお帰りになる時は?

全部持ってましたよ。

聞き手:日本からの、あの日本がバンザイした日本からの武装解除で装備は相当大きなものになったの?

そうですね。大きなものになりましたね。だから機関銃だけじゃなくて、大砲とかね、大きな重機がいっぺんにね、いっぱいになりました。ところが初めは使い方を知らない。日本の兵隊も一緒に機械を使っていたような。日本人の部隊の中に入れて。それこそ飛行機の航空隊の人も捕虜にして、日本人の指導する人も一緒にあれして、どんどん大きくなったんですよ。それこそ初めはね。鉄砲もひとつかふたつでした。

聞き手:その正規軍というのは蒋介石の部隊ですね。蒋介石は、相当にいいものを持っているんですね。

アメリカ軍のね、援助がありましたから。だから蒋介石はいろんなものを持っていましたけどね。

聞き手:それに対して八路軍の方の装備は、まあ比較的劣りますよね。そういう中で、最終的には蒋介石軍を台湾に、小さな島に押し込めちゃうという。それだけの力は何が?

八路軍はね、軍律が厳しかったの。あの各百姓の家に分散して、泊りますでしょ。針1本もね、借りたら返さなくちゃいけないという規則があります。私なんかもね、行軍してへとへとになっていても、まず最初にね、川や井戸から水を汲んできてイーチョーペータ前と後ろのてんびんに。水瓶に水をいっぱいにするわけですよ。それからね、庭の掃除をするわけです。掃除をしてそして寝かせてもらうという。でも土間にね、コーリャンの茎を並べて、その上に寝たっていう。冬なんかになると綿が中に入った綿服を着るでしょ。そのままで寝るわけですよ。そういうふうにして。で、八路軍の方は、百姓の家に迷惑をかけないという形ですね。蒋介石の方はね、違いまして、食糧の方は、日本軍と同じですよね。略奪するし、いろいろ女の人を強姦したり、それから迷惑をかけても知らん顔していく。

 八路軍はね、次に進む時に、一軒ずつそこへ泊っていた一家(を回って)、迷惑をかけていないか聞いて、迷惑をかけていたら何かの弁償をしてという形で撤退しましたから。ロウバイシン(中国語で老百姓の意味)そのものが、八路軍には援助するけど。主人なんかもね、前線で捕まったんですけどね。前線に行って、日本兵に戦争反対の活動をするんですけどね。後ろから日本兵から、あの撃たれますでしょ。一所懸命逃げていくとね、川のそばまで来たら、ばったりと倒れて息が切れて意識を失うんですって。で、その時にロウバイシンがは、どこへ連れていくかというと、八路軍へ連れていかれて。で、国民党の方へは連れていかれないんですよね。八路軍の方に連れて行かれて、主人は何回かそういう経験をしているわけ。だからロウバイシンそのものは、ロウバイシンって百姓の人たち、八路軍には援助するけれども、蒋介石の軍には援助しないっていう、そういうなんていうか影の援助ってありましてね。だからまあ、いろいろ戦争をやってもね、まあ例えば、今さっきのように、私なんかが囮になって引き出す。その間に他の部隊が作戦で、たくさんの蒋介石の軍隊をあの滅ぼしたっていいますか。

 いろんな機械やなんか持っているけれども、あの最後はね、八路軍が勝ったっていう。だからえーとね、捕虜になって、女の人が捕虜になっているんです。でも日本の人ですよ。蒋介石の軍につかまって、そこで、結局はね、将校とかね上の人たちのたくさんおめかけさんになってましたよ。でも八路軍はそういうことは一切なかったですから。だから、そういう作戦が一般の国民に受け入れられたっていうか。そういうのありまして、最終的に勝ったのでしょう。

聞き手:農繁期、田植え時期とか刈り入れ時期にはみんな農家に行ってあの草刈りやったり田植えしたりみんなお手伝いをしたという話を聞きました。

みんなやりました。草刈りやら刈り入れやらね。そこでお世話になる以上は手伝う。規律的には八路軍の方が良かったんだと思いますよ。

聞き手:感心するのはね、よく女の方が兵隊と一緒に行軍できたなあと。ずいぶん辛かったんじゃないですか。

そうですね。辛かったですよ。胸の悪い方もね、途中で走れなくなってね、それでまあ、国民党に殺された人もいますよ。でもやっぱり大変でしたけどね。それこそ明日命があるかって、そういう考えがありますから。結局走らなければ命がなくなるっていう。そういう気持ちがありましたから。やっぱり若い人たちだけをね、使ってましたから。年取った人はね、主人なんかね、軍属で物資を運んでいる時に、台風に遭って、船が座礁してたわけですよね。捕まった時に船長とか機関長とかみんな年取っているわけですよ。そんな人たちみんな帰した。主人だけが若かったから捕まったんですよ。だから若い人しか八路軍には入れてないんですよ。だから体力的には何とかなったんでしょうね。

聞き手:あの、八路軍でね、任されたというか任務としては、わざと囮になって相手を引き出すという過酷な任務も…。

ええ、それはね、部隊によっていろんな役目をさせられたんだと思うんですよ。私なんか囮になる役目でしたけれど、他の部隊ではやっているのはまた別の作戦でやっていると思うんです。偶々奉天の、西安って今言いますけど、その部隊はね、蒋介石軍の中で1番大きな軍隊が集まっているんですよ。だからたくさんの、42軍だけではなくて、他の軍も参加して、そして後ろの方からつかまえるというかそういう形があります。私なんか結局囮の形になったっていう。

聞き手:八路軍から行軍中にセクハラめいたことはされましたか。

一切ありません。一切ありません(2回繰り返す)。3大・・・3つの注意と8項目の規律というのがありましてね(註:三大紀律八項注意のこと)。一切。だからね、私なんかはね、革命が成功するまでね、お互いの恋愛とか禁止だったんです。だから、そういうのないですね。で、革命が成功してからは、自分の好きな人たちと結婚してもいい。そういうのが許されてます。だから、私も、結婚したの28才です。だからあのそれまでは一切なかったですね。

聞き手:敗戦の前の時から、たまたまご両親のお仕事の関係でお出でになったことも含めてなんでこんなことに?という気持ちが常におありだったと思うんですね。今にして、なんでこんなことにと思う時、1番に思い浮かぶのは、どういった理由ですか。

初めの頃は、私なんかは恵まれていてね、生活も豊かでしたからね。満州っていうのは、日本人は優遇されてましてね、お金なんかも日本人でもいろんなものでも1としたら、配給はね。朝鮮の方が住んでいるところがあるんですよね。朝鮮の人は半分。下っ端の苦力といって労働者の方、中国の人はね、1としたらその方たちはその半分、4分の1しか配給がないんですよ。だから生活は、日本人は戦争前は裕福だったと思うんですよ。だけど、それが廃止になると反発されますからね。だから、一変して生活が変わっちゃった。だけど結局、日本の戦争による侵略が私たちを苦しめたって、後でね、わかりました。

 初めの頃は全然で、何のあれもなく。日本人が住んでいた所を中国人が住んでいたところは別々になっていたの。戦前は。だからあんまり中国の方と接していなかったのです。だからそれこそ20才過ぎるまでは裕福な生活をしていて、敗戦になってから一変したもんですからね、いろいろ話を聞いたり、勉強したりした中で、日本の政策が侵略戦争だったということがわかって。あのね、私なんかの部隊に来た若い先生がね、ハルピンの医大を卒業して、まだ戦争の最中ですけどねいらしたんです。それで私たちに対して「リーベングイズ(日本鬼子)」と言って、それ以上話しない、どんなことがあってもお話ししない先生がいたんです。どうしてかっていうと、その先生はね山東省に住んでいらして日本軍に親兄弟みんな殺されたんです。それで自分が16~17才の時に、親兄弟殺されて、家は焼かれて、16歳で、ちょうど走ることができたので、山ふたつ越えて逃れたけれども、と後から話を聞いたんですね。それで八路軍に入ったんだって。で、その人はね、初めは日本のリーベングイズって私なんか一緒に仕事をしていても一言もしゃべらない先生だったけれども、囮作戦で走りましたでしょ。で、その後にね、到着の時にね、自分は日本の帝国主義を憎む、それからね、自分の親兄弟を殺した兵隊も憎む、でもね、その人たちも日本人、あんたたちも日本人だけれども、日本の人民は自分たちの味方だって。だから、自分も考え直さなければいけないって。それから話をするようになったの。初めはね、1年半くらい一言もしゃべらない人だった。山東省だっていうからね、後から考えたら三光作戦でね、やられた人だと知ったんですけどね。だから、私なんかも恐ろしくて、初めはそばに寄れなかった先生ですね。

 今度北京へ行った時に、広東から飛行機で会いに来たんです。やっぱりある程度憎むものは憎むんでしょうけど。お互いこう意思が通じ合ったらね、やっぱり変わる先生もいるんだと思いますよ。日本人がねどれだけ苦しめたかわからないんですけどね。

聞き手:さきほどの、南京で日本兵が中国人を虐殺した写真を展示した塔があると。それは、向こうの方が作られてこんなことがあったと知らしめるために。その写真はどこの提供になるんですか。

そうですね。こういう小さい写真ですけど、壁に全部あってこう塔なんですけど、らせん状になって、上まで全部壁に貼ってある。全部日本の兵隊が銃剣で突き刺したりね、穴を掘ったところに蹴飛ばしたり、そういう誰かがやった写真ですよね。そういうのがいっぱい上まで貼ってありましたよ。

聞き手:それは「見ろ」と連れていかれる?

(うなづく)いや、連れていかれるんじゃなくて、歩いている最中に塔があるから見てこいと言われて。

聞き手:強制ではなかった?

強制ではないですね。みんなが、中国の方も一緒に見ていたんですからね。

聞き手:南京に記念館ありますよね。私は行ったことあるんですが。あそこではないんでしょ? 

後から私、南京に行ってないからわからないんですよね。

聞き手:私が南京の記念館へ行ってから、もう10年ぐらいになったでしょうね。

(私は)60年前だから。

聞き手:そんな大変な思いをして日本に帰ってこられましたよね。日本に帰ってこられて大変だったこと?

それは大変でしたね。日本へ帰ってきてあの公安につきまとわれて。初め主人の田舎が山口でしたから、山口に帰りましたけど、なんかちょっとどこかへ出かけたすきに、菓子折りを持ってきてお義母さん(このおかあさんは、ご主人のお母さんと思われるので、義母と表記)に、どこに行ったか、どんなことをしているかそういうの公安が聞くんですよ。それでね、何回もそういうことがあった。年を取ったお義母さんはね、何のことやらわからないから何もしゃべっちゃうんですよね。帰った当時はね、いろんなことするわけでもなく、もう30過ぎてましたからね、だからもう職なんかすぐ見つからない。

聞き手:それは何年頃のお話ですか?

1958年だから昭和33年です、帰ってきたのは。それで、しょうがなくてね、いろんな家の事情もありましたけど、東京に来てまた就職活動をしたら、やっぱり公安につきまとわれて。それで三菱重工に、中国語で入ることになったんですけどね。ちゃんと許可されて入る寸前に、急に辞めさせられたんですよね。で、それも、後でわかったんですけど、中国関係で話をしていた人は、それこそ公安の手先の人らしくて、就職も止められたんですよ。それからちょっとしばらく悲観してて何もやる気がないとか言ってたんですけど、後から別の所に就職しました。家を出る時に、その前を自転車で2回も3回もうちの前をうろうろする人がいるの。そしてあの停留所に行くまで雲隠れしたようなまた出てきてついてくるわけです。バスに乗ったら、今度バスに別の人が乗っているわけ。そういうのを毎日やられたんです。だから別に中国に長くいたからって、いろんなあれをしているわけではないんですがだけどそういう形でずいぶん妨害されましたね。

聞き手:いまだにそういう公安からという気持ちというか、恐怖心、嫌な気持ちは?

今でもありますよ。今でもあるんですよ。どうしてかっていうとね、それはね、あの、年を取った方ですけど、警察に、何とかって名前がありましたけど、年を取った方で昔から警察に協力をするような人が近付いてきてね、話聞いたりする人がいるわけですよ。今でもなんか監視されているんだなあってそういう事は言って言ってましたけど。

聞き手:戦後60年経っても?

戦後60年経っても。そんな日本が簡単にあれするわけないですよ。だって中国に行って、八路軍の中にはね、兵隊から日本のスパイが入っているわけですよ、スパイが。だから、そういう人たちの、そのひとつの部隊の動向を煙草のケースの裏に書いて、日本の軍隊に渡すとかそういうやり方やっている人がいるわけですよ。

聞き手:じゃあ見つかったんですか?

見つかったんですけど、平気でいますよ。日本に帰ったら平気ですけど。

聞き手:それはその八路軍の中で見つかって殺されたりしなかったのですか?

しないですよ。八路軍は、捕虜収容所というのがありまして、あの頑固な人もある程度いろんな教育して改良させるってそういうあれがありますから。ただ戦争の最中は、部隊の中ですからね、ある程度監視はしてるけれども、殺すとかそういうことは一切やらない。そんな状況ですね。

聞き手:いやー。帰国された時というのは、北京で勝利宣言をして、そこから帰国されるまでまだ少し。

大学行ってます。中国で。

聞き手:結婚もじゃあ、向こうで?

女の子も1人(生まれました)。大学の中にね、母親班っていうのがありまして、そういう保育所に預けて、私なんか勉強へ行って、昼間。夜は話し合いがありますけど。子どもは保育所へ預けて、中国人がみてもらって。

聞き手:ご自分たちで仕事をなされながら、学費を払いながら?

全然学費なんか。国が経営しているから何もいらない。

聞き手:それは外国人の日本人であっても取らなかったんですか。

そうです、そうです。取りません。今は違ったでしょうけど。あの頃は、成功した後ですけどね。中国の方も大学とかタダだったんですよ。あの頃は学問をするのに国がお金を出してあれしてましたから。

聞き手:解放された後、すぐお帰りにならなかったじゃないですか?

いや、帰った人もいますけどある程度あのなんていいますか。上の方からどういう基準であれしたのかわかりませんけれど、何人かピックアップして残されたわけです。だから学校に行くのも1200人くらいいたですかね。大学の中に。何万人て日本(人)はいたんですから、その中から選ばれて大学へ行ったんですよね。

聞き手:じゃ、その命令とかではなくて?

半命令です。

聞き手:嫌ではなかったですか?

それはある程度八路軍の中にいて様子がわかって、ある程度中国語がわかって。で、その軍隊の性格も分かって、ある程度信頼していた。そういう関係もありますから。まあ、命令されても何しろ当時はまだ写真とかね、そういうのは一切持ってはいけないと言われていたんですけど。結局2、3枚残してたって感じです。一切焼かされたんですよ。

聞き手:取り上げられて焼かれた?

いえいえ。自分たちで焼けって言われて、焼いたのがほとんどですけどね。

聞き手:じゃ、隠し持っててもばれない?

そうですね。そういうのは日本の悪いかもわかりませんけど、何枚かは。

聞き手:じゃあ、ある程度信頼関係の元に、やったであろうと状況で?

やだって言えばその時に帰れたんですよ。

聞き手:写真は?

写真はね、中国は外国人をこんなに使ったと、国際的に問題になればあれだからっていう考えなんですね。だからその当時は焼くのが当たり前だった。でもだから大学に行った時は、全部名前変えられた。全員が知らない名前になったわけですよ、急に。

聞き手:それは中国語の名前ですか?

いいえ、日本の名前です。自分で作った名前に変わったけど。そこで何年か一緒になっていると分かりますよね。だけど、前の名前はわからないんです。あの人いたなといっても、名前が変わっているから。

聞き手:卒業証書の記名もその名前ですか?

卒業証書はありません。そういうのは出さない。

聞き手:私の個人的な質問ですが、八路軍への気持ちの変化、最初は無理やり連れて行かれたと思いますので、例えばその囮になる時もやっぱり嫌な気持ちなのか、いくらか気持ちが共鳴してきて。

自分では反発なんかできませんよ。軍隊と同じ行動をしないと、それこそ自分の命なくなります。だから初めのっていうのかしら、やっぱり言われた通りにするという形でしたけど。

聞き手:最後の頃は幾らかは一体感があったのですか?

最後じゃなくて、中間から一体感はありましたね。規律正しい軍隊だと分かってからね。そしていわゆる私なんかがやっている最中に、学習もありましたからね。いろんなことについて。だからあの軍隊そのものも学習する機会が多かったのですから。日本だけじゃなくて、中国の新しく入った人たちも一緒に学習するわけです。だから別にどうってあれじゃないんですけど。

聞き手:同じことを学習するんですか? 日本人を洗脳しようとかいう?

そういう学習じゃなくて、八路軍はどういう軍隊かとかそういう形でやりますから。新しく入った中国の方。自分は食べられないから軍隊に入ったっていう方がたくさんいたわけですよね。うん。だけど軍隊は当時国民党軍の軍隊もいれば、八路軍の軍もいますよね。国民党軍との違いとか、そういうのは学習しましたね。

聞き手:こういうのもう一度話しておきたいとかありますか?

いいえ。

聞き手:ありがとうございました。こちらの資料いただいていいですか?

はいどうぞ。

参考資料

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