山口 昇さん

生年月日 | 1920(大正9)年5月9日生 |
---|---|
本籍地(当時) | |
所属 | 海軍 |
所属部隊 | 〇〇 戦艦武蔵 |
兵科 | 衛生 |
最終階級 |
インタビュー記録
志願
聞き手:最初は志願をされたのですか?
昭和16年に海軍を志願しました。
聞き手:志願をした理由は?
あの頃の教育ですからね。戦況もだいぶ厳しいし、どうせいつかは行かなきゃならんかったら、徴兵まで待っていないで早く志願をして戦地に行きたいっちゅうかね、そんな気持ちでしたね。今で言えばおかしいけど、早く死にたいっちゅうか、戦地へ行けば死ぬことは分かってるからね、早く戦地に行ってお国のために頑張りたいっちゅうか、そんな教育を受けていましたからね。待ちきれずに志願した。
聞き手:入った後の訓練の様子とかを聞かせていただいていいですか?
昭和16年の10月に志願して、12月に合格の通知がきましてね。それで昭和17年、合格の通知がきたときに、太平洋戦争が始まっちゃったの。昭和17年の5月に横須賀海兵団…軍人の始まりですね。横須賀海兵団で3ヵ月、猛訓練を受けまして、それから今度専門的な技術指導っていうことで、横須賀海軍病院練習部っていう旧名でさ、
(注:昭和20年に戸塚海軍衛生学校が開校し、横須賀海軍病院の練習部がそちらへ移動したので旧名)、海軍衛生学校の初等科(注:正しくは普通科のこと)の教育を受けての学校に6ヵ月入りまして。18年の1月に卒業して今度、実習部隊に、みんな戦地に発って行く訳ですねそれぞれがね。私は海軍病院に残されて特殊な研究に公務につくわけですね。細かく言いますと、南方で伝染病、蚊によるマラリアとデング熱がね、ものすごく流行したもんだから、その研究をしろ、っていうことで、連れていかれましてね。そこで専門の研究をしとったんですが、ですが早く戦地に行きたくて、何とかして戦地に行かしてくれと言ったら、19年の1月にようやく武蔵への転勤命令が出たんですね。
そして小さな船に乗ってトラック島に行きましたら、碇泊しているつもりの武蔵が昨日、日本に帰ったと。それで軍服のままトラック島に上陸して防空壕に入り、当分行けんかな、と思っていたら幸い日本に帰る航空母艦が早いから、それに乗れって急遽トラック島から航空母艦に便乗して、呉に帰って、呉から山陽線を窓から飛び乗ってやっと、横須賀に1月22日(注:武蔵の艦歴より2月の間違いと思われる)に着いて、1月23日(注:同じく2月)に武蔵は出港ですよ。1日違ったらまだ太平洋を走っていたところでした。不運っていうかラッキーちゅうか。その時武蔵に初めて乗って、武蔵との生活が、勤務がそれから始まる訳ですね。 パラオとか、あちこち戦場を艦隊で行動していましたけれど、どこまで言えば良いのかな。
聞き手:武蔵に乗った役割は?
衛生です。船はね全部、砲、整備兵、水兵、機関兵と分担がありまして、衛生は医務・衛生防衛生の専門です。そこに配属された訳ですね。
聞き手:もともと兵隊に入る前に、医術の心得とか、理系だとかそういうのがあったのですか?
いや、全然関係ない。農家の三男坊で、小学校を休み休み卒業したくらい。全然技術もなければ、学力もない。
聞き手:軍隊でたまたま配属されたのですか?
水兵とか整備兵とか志望しましたけど私は。たいして身長も足りなかったもんだから、兵科っていうか立派な水兵には無理だっちゅうので、衛生に回されたらしいんですね。
戦艦武蔵出航(マリアナ沖海戦)
聞き手:19年の1月以降、船に乗って移動しましたけど、どういう経路でパラオ以外ではどういうところに行かれたのですか?
パラオで入って、3月29日にパラオを出るときにアメリカの潜水艦から魚雷食いましてね。幸い武蔵はでかいから、魚雷の1発や2発ではびくともしませんでしたけど、初めての戦闘はそれでした。船の戦闘と言うのは陸上と違って、1人ずつがね鉄砲を持つわけでもないし、海の中の戦闘ですからね。それが初めてでした。 それから6月にはサイパンに、アメリカの機動部隊と日本の全機動艦隊の激突がありますね、マリアナ沖海戦。そこでは母艦が中心に狙われて武蔵には弾が1発も当たらなかった。戦闘と言うけど、戦闘らしい戦闘は味方の航空母艦沈むところを見ただけ。
聞き手:特に空撃を受けなかったのですか?
受けなかった。航空母艦ばかり狙われた、武蔵や大和は狙われなかった。全然、1発も弾が当たらない。運が良かった。爆弾も落とさない航空母艦〇?ですから大鳳、翔鶴、飛鷹、大型航空母艦の飛行機が全部やられていますね。武蔵は無傷です。狙われなかった。彼らの目標は母艦さえやればよかったと思いますよ。それがマリアナ海戦の戦闘経験といえば戦闘経験です。
聞き手:航空母艦が魚雷を受けたり、沈んだりするところを武蔵から見られたのですか?
見えない。遥かに、夜、水平線の向こうに炎が上がっているのを見られただけ。そして夜中に全速で突っ込んでいくと艦隊が行動したけど、米軍は逃げてしまったのが結果的に飛行機のない母艦、戦闘なんて意味ないからね。沖縄に引き返したの。それで武蔵のマリアナ海戦は終わり。
レイテ沖海戦
聞き手:そのあとに参加されたのは?
7月に横須賀に帰って、武蔵というのは大きな砲で相手の船を沈めるのが目的でしょ。ところが戦争が変わって航空母艦になってきたから結局、蜂の巣のように機関砲を改造して、機銃を120台くらいつけたり、レーダーをつけたりして、シンガポール南のリンガ泊地に艦隊が集結して、そこに行って猛訓練ですね。飛行機の応援のない戦闘に。毎日毎日訓練をして、終わったときに台湾沖航空戦が始まり、マッカーサーがレイテに上がってきましたね。そこで、捷一号作戦が発令されて、リンガにいる艦隊が全部出撃を開始するんですね。それが10月18日。20日にブルネイに入りまして。それがレイテに突っ込んでいくわけですね。大和と武蔵の艦隊と西村艦隊が、レイテに上がってきた米軍の大艦隊を迎えるために。
西村艦隊とはちょっと古い戦艦の扶桑、山城、最上クラスの戦艦(注:最上は重巡洋艦)が一番近いコースで。(地図を広げて説明をする) パラワン海峡を通ったときに、愛宕、高雄、摩耶の3隻が沈むのを目の前ではっきり見ました。警戒警報のラッパが鳴る。 朝、武蔵がぎゅーーっと全速で傾いているんですね(体を左側に傾ける動作と共に)
(注:全速で方向転換をしているために傾いているという意味か)
私はこちら(左側)に乗とった、ちょうどいた甲板で、目の前に摩耶が、1,500メートルくらい先の海上で、1発、2発、3発(下から上に人差し指を上げる動作と共に)と魚雷が命中して煙が上がるんですね。バーッと爆発する、真っ黒い煙が出る。それから傾く、雲が切れる、沈む。轟沈というわけ。 目の前で沈むのを見ました。ちょうどレイテに突っ込む前の朝ね、嫌な予感がしましたね。
3隻立て続けにやられてるのね。愛宕、摩耶、高雄…高雄が中破で駆逐艦でシンガポールに帰ってくるんですね。沈んだのは2隻ですね。
(注:高雄は中破でどうにか航行できたので、駆逐艦に護衛されてシンガポールに帰った。沈没ではない)それから、ほとんどダメかと思ったけど、400人か800人か…我々の中で救助されて、摩耶の乗員が武蔵に救助されて、病人やけが人が上がってきた。
その翌日の10月24日、朝の8時半から晩の3時半まで連続で米軍の大機動部隊の攻撃が。 今度は母艦がいませんから、大和、武蔵、結果的にね、不思議で分らんけど武蔵が集中攻撃を受けるっていうね。
聞き手:なぜ、武蔵が集中攻撃を受けたのですか?
分からない、アメリカの都合で。不思議なことにね、大和・武蔵は全く同型で、大和が旗艦なんです。(注:司令(長)官の乗っている艦) 武蔵が山本五十六が乗っていたけれど、武蔵が今、旗艦ではなかった。
(注:1943年2月、山本五十六連合艦隊司令長官が旗艦を大和から武蔵に移した。その年4月に山本が戦死。武蔵は1944年5月まで旗艦)
ところが22日にブルネイに入ったときに、燃えそうな物はやばいから、燃えそうな物は全部陸に上げて、ともかくペンキのパテ?まで剝がすような徹底した防火対策をやったんですね。ところが、出港間際にね、武蔵のデッキに、全部新しいペンキをね、ペンキ塗り作業をやるんだ。今突っ込んでいくという日の出港する前に。 なぜ、そんなことするんだ?全部そのへんに見えるとこ外舷?から甲板、デッキからね、新しいねずみ色のペンキを塗るんです。新しい船に見えるようなね。
なんでこんなことをするんだろうな、おかしいな、と言いながら兵隊達と話しておったんですが、その結果かどうか分からないけども、結果的に10月24日の海空戦では、大和は魚雷2発くらっただけ。武蔵は魚雷20発、爆弾25発、至近弾20発。蜂の巣にやられた。徹底して叩かれるんだね。終わった後の武蔵が、囮担当艦になったんだと言うことを、しゃべっている士官がいるんですね。
ご存知のようにレイテ海戦、我々が聞いた範囲内では、母艦はない、飛行機はフィリピンの陸上におる。日本におる母艦は1隻最新鋭の瑞鶴だけで、千歳、千代田・龍驤、それから戦艦を改造した日向と伊勢との…(資料を広げる)
聞き手:9回、空襲を受けたのですか?
6回だと思いますね。
戦闘
聞き手:その時の様子をもう少し教えていただいても良いですか?最初の1回目は?
1回目は…。 ただね、さっき言いましたように、2000人超の人が乗っていて、砲は砲。機銃は機銃。高角(砲)は高角(砲)。缶(カマ)は機関室。電機。みんな部署で… 私は船の中甲板のここのね(船の構造図を広げて、後方部分を指差しながら) 水(水面)の下の中甲板のね、全然外が分からない(注:ところにいた)。ただ、魚雷が命中すると7万トンの船がガーガーっと(両手を広げて上下に腕を動かす)揺れますね。電灯が消えていく。そんな状態で、やられた。向こうはこっちの弾を撃っている。分かるだけで。
ただもう熱気の中でこちらは何も戦闘状況は私は見えない。2,400人の乗員の内、戦闘の状況を見ているのは機銃とマスト。この辺におる人だけですね。半分以上の人はみな船の中です。私も船の中だから、全然戦闘の状況が見えない。3時半まで(注:の間に)電灯が消えていく。排気口が止まっていく。船が傾いていく。(腕を前に出して体を左に傾けながら)
やられてるな、って分かるだけで目で見ることはできない。排気が止まったら戦艦というのは○○ができませんからね。ですから、武蔵の戦闘の状況は正直言って全く分からない。武蔵が今、沈むかって言うのは。 本来は20何発の魚雷と25発の爆弾が雨あられのようにぶつかっていながら、私が乗っているここ(船の構造図を指差しながら)には一発もこなかったから、今の私がある。くらいしか、武蔵の戦闘の状況っていうのは分からないね。
聞き手:艦内放送だとか、そういうのはなかったのですか?
放送は入りますよ。入りますけど、ただ始めのうちはね、魚雷が命中したら、傾きますから(腕を前に出して体を左右に揺らしながら)振動で命中したのは分かりますから。でもこの辺の命中は全然わからないね(船の構造図を指差ししながら) この辺は(船の構造図を指差ししながら)振動でグーーーンと(両腕を胸の高さに上げて上下に揺らしながら)あぁやられたな、その内にまた元に。傾き始めた、どんどん傾く。(体を左側に傾けながら)それが夕方3時半に終わって7時まで傾いて、ついにはひっくり返っていくのね。
ですから、爆弾と魚雷に命中して爆発するんじゃなくて、防御装置が徹底していたものだから、さんざん魚雷と爆弾をくらったけども、爆発しないで徐々に徐々に復原能力(注:船が傾いても元の位置に戻ろうとする力)を失ってひっくり返った。武蔵の沈没の状況ですね。
聞き手:負傷兵だとか、甲板の戦闘員の負傷した人たちは?
ものすごくひどかったらしい。
聞き手:そこ(山口さんの配置場所)には運ばれてこなかったのですか?
衛生医務科分隊はね、ここ、ここ、中部、ここ(船の構造図を指差ししながら)4か所に分かれて傷病兵の手当てをするので、私は後部にいて。後部には一発も命中していない。一人も病人・ケガ人は運ばれていない。
聞き手:後部は全然負傷者はいなかったのですか?
私も当たらないし、周りも負傷していない。そういうことで、空襲の合間には応援に行きましたよ。でも戦闘中はほとんど動けない。
聞き手:応援と言うのは具体的に何をしに行くのですか?
ケガの手当て。
聞き手:負傷兵を見ていらっしゃる?
見ています。それはひどいものです。足の吹っ飛んだのからね、それはもうひどいもんです。その内にまた空襲が始まるから、また走って帰らなくちゃいけない。私らの分担はここ(船の構造図を指差ししながら)ですから。始まれば引き返して、また次のがくる、帰る、また。こっちは朝から晩まで、向こうは交代交代で。武蔵の戦闘と言うのは、そんな戦闘でしたね。 ただ問題は、私の実感としては、沈むときによくぞ色んな目にあいましたから、武蔵の戦闘と言うのは、沈没船のことの方がほとんどですね。2,400人が乗っている内、死んだ人が1,039人、約1,300何十人の人が助かったらしいですね。
聞き手:半分くらいはじゃあ(犠牲に)
約半分。ですから、戦闘中で爆撃をくらいながらケガをして死んだ人。沈むときに船と一緒に亡くなって死んだ人。浮かび上がったけども、駆逐艦に拾われなく救助されなかった人。含めて1,039人。
聞き手:沈むときで退艦命令が出たわけですか?
軍隊っちゅうところはね、厳しいっちゅうか当たり前っちゅうか。総員退艦っていう命令なんです。命令が出ない内に飛び込んだら、敵前逃亡で銃殺するんですよね、軍隊っちゅう機構は。敵前逃亡になる。ですから今、飛び込めば助かると思っても船が傾いていて、退艦命令が出てない内に飛び込むことはできなかったはずです。ただ、無線も何も全部切れてしまっている。電源もない中で午後7時半ごろ沈むときにね、総員退艦の命令は私は聞いていない。かかったぞ、という言葉を聞いたけど私は聞いていない。 総員退艦だっていうので、結局もう船が300メートルなんですよね。
さっき飛びましたけど、あの時の囮の航空母艦が、飛行機の教育を受けていない、へたな操縦士の乗った飛行機50機ばかりに母艦4隻が、呉から出てきて、そして台湾を越して、航空母艦の本体はここにおるぞ!というデモンストレーションをやっているんだね。完全にやられる覚悟で、米軍のハルゼー艦隊に応急戦をしようと戦うわけです。うまく成功して、ハルゼーは、機動部隊が来たっていうんで本隊がここに行ったんですね。囮艦隊の航空母艦4隻と、詳しいことは…良いですね。
日本の全艦隊の航空母艦を○○した○○(伊勢?)が、大淀なんかが台湾の方からフィリピンに向かってくる。大和、武蔵、長門、金剛、榛名の戦艦5隻と愛宕、高雄の巡洋艦、主力はパラワン海峡を通ってここに入ってくるんですね。(地図を指差ししながら) そして、古い戦艦の扶桑、山城、最上と駆逐艦4隻の西村艦隊というのが、ここの近道を通って(地図でスリガオ海峡ルートを指している)シブヤン海に入ってくるんですね。それからこちらから航空母艦。
そして、25日の午前5時にここ(地図のレイテ島を指差ししながら)に集結して、一斉に突っ込むという作戦計画らしいんですよ。ですが、扶桑、山城の戦艦2隻と最上(と駆逐艦4隻)との7隻は、ここで全滅です。おそらく何千人の人が死んでいる、全滅。こっちからきた航空母艦4隻は全部沈んでいる。これは囮。これは所詮力のない○○○○無理無理で全滅覚悟ですよ。我々自身も、大和、武蔵もレイテに突っ込んで、マッカーサーの有力部隊を叩け、母艦を叩け、飛行機のない艦隊が突っ込んだら、おそらく全滅したでしょう。西村艦隊は間違いなく全滅しました。こちらから行った母艦のほとんど、生きて帰った人おるらしいけども、かなりの人が、艦がやられ死んだ。肝心の我々が、我々がレイテに突っ込む主力部隊だった。その主力部隊の大和、武蔵の武蔵がなぜ、塗装をして囮艦になったのか。その謎は今はわかりません。
そして大和の栗田中将が、レイテに謎の引き返した。(注:謎の反転といわれる) その謎も分かりません。ただ、武蔵がなぜ塗装をして集中攻撃を受けるような羽目になったのか。生きて帰った人として、私は未だに疑問だし、なんか釈然としませんね。武蔵は一番世界で、大和と共に立派な艦(ふね)だ。戦後、大和大和と言いますけど、武蔵の話はほとんどしない。武蔵で死んだ1,039人のカンていうかね?
そして、あの荒海の中を泳いで必死で生き残った者たちからみればね、あれは一体何だったのかな。必死に突っ込んでいって、砲を撃ち込んで、マッカーサーの飛行機をやっつける為に、すべてを犠牲にして突っ込んでいった人たちの、1隻しかない大和・武蔵の武蔵を…。
なぜね、そのような囮艦にしたて集中攻撃をさせたのか。生きて帰ったから良かったけど、死んだ人もそれじゃ釈然としないでしょ。囮じゃ。戦って立派に死んだ、って家族に報告したいでしょ。いくつもいくつもある謎の1つですね。レイテ海戦の武蔵乗組員の生き残りの一人として。私は釈然としない。生きて帰った私は良い。大和と武蔵は日本で最高の、世界最強最大の軍艦、日本海軍の象徴だ。そういって志願をして、猛?訓練に耐えて、乗ってきて、訓練を受けて、突っ込んで行ったときに、名誉の戦死は期待したとしても、こんな死に方を私は横から見て納得できないね。彼らのために。○○○○の中で、もっともっとよみがえってますけど、武蔵について言えば、そんなことを言いたいね。こんな話するの、皆さんと初めてだね。囮の話についてはね。
聞き手:囮ということは、現場の兵士にも当時伝わっていたのですか?
囮っていうのはね、船が沈んで艦長が重傷を負って、船が沈むと艦長は運命を共にするのね。副長に遺言を残しているんですよ。(注:ご本人も副長、副官、副艦長と言い直しているが正式には副長) 遺言と戦闘の経過についてしゃべった言葉が。戦争を終わってから見たんです。それには「囮艦としてその目的を果たしたことを、ただいくらかの慰めとします」っていう言葉があるんです。艦長の言葉だよ。
ところが、兵だってね、ブルネイで塗装する時にね、みんなもしゃべっているんですよ。
「艦長が4人、朝倉さんで4番目の少将。(注:艦長の数を指で数えている。朝倉さんは3人目の艦長:朝倉豊次大佐)副長が2人。四二(しに)で縁起が悪い。おまけにこの塗装は囮じゃないか」というのを、塗装している兵隊がしゃべっているんですよね。そのことを、まさかとは思ったけど、後ほど艦長の遺言の中にね「囮艦としての目的を果たしたことを唯一の…」という言葉があった。 こんな話を公にしゃべったとこないんじゃない。武蔵が囮艦で沈んだなんて。
私は目で見て実感で、おかしいんですよね。 航空母艦4隻でしょ、戦艦でしょ。大艦隊が一方にあって、囮で引き寄せて見事、米軍の飛行機でほとんどやられてるんですね。そして西村艦隊も大したことないから、まあできるだけやれと、主力のね、艦隊もまた囮を作って、そして突っ込むならいいですよ。突っ込まないで引き上げる。途中で戻っちゃう。永遠の謎です。
ぜんぶ特攻ですよ、艦隊特攻ですよ。レイテ海戦は。負けるべくして生きて帰れん、海軍が残ったってしょうがない、海軍がここで勝たんかったら、もう日本負けるんだから、生きることより全部突っ込んで玉砕しろっていうね、いわゆる玉砕戦法のなか、飛行機のない米軍の大機動部隊のおるところに、飛行機のない艦隊が突っ込んでいって、しかもやったのはついでと囮を作って、そして突っ込まないで帰ったあれは…。大本営の命令、参謀の命令がなかったのか、艦隊参謀(の命令)がなかったのか、艦隊の司令長官がなかったのか?
結果的に、完全に負けるべくして負けた。大惨敗ですね。だけどレイテに突っ込んだらもっとひどかったですよ。レイテ海戦の武蔵は、私は不幸な… だから武蔵については、話はしていませんけど、長崎の三菱造船所でね…
武蔵という戦艦、その最後
これは私が長崎に旅行したときにね、グラバー邸の2階の部屋に油絵が額で飾ってあった。私のカメラで撮って拡大したものです。(現物を示しながら説明する) 全長286メーター、幅40メーター、排水量7万トン、昭和〇〇年10月18日サンデー○○○○。世界一の船に乗る、そしてお国のために働くんだという、一緒におった連中はそういう意気込みと誇り。そういうものをもって行った、あの武蔵がそういう末路をたどった。しかも船を造った時から全然秘密、秘密で、徹底した秘密ですね。横須賀に帰ってきても入れないんですよ。木更津沖におって。シンガポールに行ってもね秘密で入れない。ずっと沖にいる。別の船に乗ってシンガポールへ。そういうような、徹底して継子、おめかけさんの子ども。そんな扱いを受けて、戦死するときもそういう不運の沈み方をしてね。沈んでみたら戦後すぐから、大和大和大和でね、武蔵って同等に扱われていないでしょ。性能はね武蔵の方が上なんですよ。山本司令長官、古賀峯一、全部武蔵です。そういう武蔵が、結果的にひがみでないけど、徹底してね差別されている。なぜか。私はそういう疑問を思っています。
沈むときの話を聞きますか?
聞き手:はい聞きます
昭和19年10月24日、朝の8時半ごろ軽い食事をして、朝の10時から午後の3時半まで、間はあるけどほとんど波状攻撃で、止まったと思ったらまたその次の攻撃がくる。そして3時半、私のおった場所で、全速でエンジンの缶(カマ)焚いてる。すごい振動。振動が止まった、スクリューの振動が止まった。爆撃も止まった。砲撃も止まった。船が左の方に傾いて。こういう風に、こうして沈んでいくらしいんですね。(Uの字に丸めた紙を少しずつ左側に傾ける動作をしながら、最後は180度回転する)3時半の状態です。午後ね。 総員集合しろ、という伝令がメガホンを持って回ってきました。(資料を広げて確認している)
聞き手:退艦命令を聞かれたのはその…
総員(集合)して、ここに集合したわけです皆、後甲板に。(船の図を指差ししながら)
聞き手:後部甲板に集合したわけですよね?
ここに全部集合するわけですね。総員集合後甲板(船の図を指差ししながら) この船は傾いてもう完全に這ってね、油で滑って、やっと傾く這ってハシゴに行きましたら(?音飛び) ここはもう水面に浸かっちゃっている。(船の前方を指差ししながら) 前から沈んでいって左に傾いてくる。そしてそのうちにだんだん沈んでいくわけですけども、ガラガラガラと物が転がり始めた。総員退艦がその時に出たっていうんですがね、私は聞いていない。総員(退艦が)出たっていうので…私は泳げないんだよね。かなづちっていうんで、泳げなくて考えて…海軍に入ったら、泳げなくて海軍行ってどうするかっていうけど、海軍なら教えてくれるから大丈夫だって行ったんですけどね。海軍の学校の訓練の中で、平泳ぎができるくらいまでになって…いわゆるその程度の泳ぎなんですよ。その自覚はありますから、かなづちではないけど、そんな程度の生きる術としての泳ぎの能力が無かったから、まず飛び込むとき偶然ね、綿花をテント、防水性のある布で包んだのがあるんです。けがをした時に傷口にパッと当てて、脱脂綿は血を吸いますけど、綿花は血や水分を止める。その包みを固く絞ったのがあったのを、とっさに飛び込む前に2つ縛ってね、右腕に通した。泳げないって自覚があったからか、なぜか知らないけど、いよいよ船が沈むなって分かったもんですから、それを持って船のこちら側に、左手は船の手すりにつかまって、右手はこうやって(紙を船に例え、腕を使って当時の様子を再現している)
カタパルトのあるここまでいって(船の後甲板の右端辺りを指差ししながら)滑り落ちようってことですよ。すーっと落ちたところが途中でね。止まっちゃったの。というのは、船が真横になっちゃったんですね。船から滑り落ちる(腕を上から下に下げる動作と共に)ってところで途中で止まっちゃってね、この辺で立ち上がったの(船の図を指差ししながら) フーンって傾いて。7万トンのスクリューが4つあるんです。スクリューが水面から出て(腕を下から上に上げる動作と共に)スクリューが出てきたっていうのは、船がもう逆さになるところですね。
スクリューが○○○○って走ってきた。夢中で、貝殻がね、そこにいっぱいついている、そこを走ってきましたら、前からワーーーっと泡の水がきます。後ろからも水が来ます。で、飛び込んだと思うんだけど、飛び込んだのか巻き込まれたのか分からないし、第三者が見れば、武蔵に浮かんでいる武蔵の最後の人間でないかね。舵が出て、スクリューが出て、そこにまさに沈んでいくここに立ってるわけですからね。(資料を指差ししながら)
ともかくゴーーーというすごい音は覚えています。そして飛び込んだ。飛び込んだのかは知らんけど、ただ遮二無二、生きてるうちに、だんだん引っ張り込まれていく。その内になぜか、覚えていないけど、どのくらい経ったか知らないけど気が付いてみたら、さっきの応急手当の○○○○持って○○、この辺から上が、ぽかっと波の上に浮いているんですね。(胸の前で地面と平行に腕を出す)周りが重油で、目から鼻から口から重油で(顔の周りを指でなぞりながら)
「あぁ。下に沈まなかったんだな。」
普通だったらね、普通の船でも沈むときは50メートルから100メートルは船から離れろ、常識でね。渦で巻きこまれるから。最低100メートルというのに、ぜんぜんそんな一緒でしょ。
沈む、巻き込まれていく、沖の方で巻き込まれていく中で、なぜどこで浮かび上がったのか知らないけど、やっぱりその綿花の硬い浮力と引っ張る力のバランスがどこかで崩れたんでしょうね。私は分からないけれど、結果的に私は浮かび上がったんです。
ところが重油の横で、あっぷっぷと、溺れそうな声を聞きました。だけど自分の場合は、人のことを考えている暇なんかなかったですね。だけどこうしたったんじゃどうしようもないとおったらね。またこのくらいのこんな(幅1メートルくらい腕を広げながら)真鍮のね、円筒状のものが浮かんでいるんですよ。それをこうやって取って(手繰り寄せる動作)空いてる手で抱え込んで、このくらいまで波から出るんだよね(胸の前あたりを指しながら)だけど油の中におったってしょうがないからっていうんで、何とかあちこち溺れる人の声、聞こえるでしょ。いってるうちに、油が目や鼻に入ってきて目を開けることができないんですよ。そうこうしているうちに、本当にラッキーの連続なんですがね、昔の小学校のトイレに、下に桟打った、このくらいの長さ1メートくらいで幅50センチくらいのが、浮かんでいるのが見えるんだよね、向こうにね。そこを目がけて泳いで行って、それをこのように抱えて(身体の前で抱きかかえる姿勢をとる)
聞き手:小学校のトイレ。私、昔そういうのなかったのですがどういう物ですか?
歩く板。渡し。トイレに入っていくと水を流す、桟。(注:学校などのトイレの入り口や下駄箱の前などに置かれていた、履物の履き替え用の、地面より桟で高くした木の板のことと思われる。名称不明) あれに似たようなのがあってね。それを抱えたんですよ。そうしていくと波がバシャンバシャンとぶつかって(板が身体に受ける波をよけてくれる) あっ!これは泳げるなと思って泳いで、油のあるところから出たの。
あの時のことをね、体系だってしゃべれないんだよね。なんでそうしたのか。
沈んじゃいかん、死んじゃいかんと思ったんでしょうね。そうして泳いでったところが、同じ医務科衛生科分隊の中で、私の他にもう1人泳げない人がね、偶然ね、偶然バッタリそこで一緒になって、彼も一緒に掴まって泳いどったの。これまではずーっと向こうの方に、墨絵のようにね駆逐艦が見える。1,000メートルか1,500メートル(先に)。午後7時37分ですかね沈没がね。真上に半舷の月が出ていました。さあなんとかあれに泳ぎ着かなきゃ助からない。行こうっていう時に、今度またね、3メートルから5メートルくらいの角棒にね、5人ばかり掴まって、ワッショイワッショイと泳いできたんですね。その人達と偶然にぶつかってね、俺はどこの何分隊のだれだ!お前はどこだ?って名乗りあって、一緒に行こうっていうんで、今度それに掴まるわけですよ。今まではここまでだったけど(胸の前で地面と平行に腕を出す)全部とられちゃって、その丸太んぼにみんな掴まるんですね。もうこの上しか(水から)出ません(あごの前で地面と平行に手を出す)
ワッショイワッショイと、かけ声をかけながら船を目がけて泳いでいくんですね。その時の…
まあ、こんな話は良いのかな。海軍ではね、船が沈むときの心得としてね、「さらしを腹に巻いておれ」という教訓があったのね。さらし。
というのは、船が沈む。ようやく生き延びてもね、船の爆発、魚雷が当たったら、駆逐艦に爆雷が当たったら、振動で…。ダイナマイトで魚獲るでしょ(注:中国や南方でダイナマイトや手りゅう弾を池や浅瀬に放り込み魚を獲ることがよく行われている)あの理屈で。内臓破裂で。みな命が〇〇っても、そこで死んでしまうんだ。さらしを腹に巻いとれっていう、私は幸いね、手に入ったものを腹に巻いとったんです。それをほどいて、丸太に巻き付けて、股を通して、ちょっと片手で固くしばってね、やったんだね。
なぜやったのか知らないよ。そんなことをしてから、小一時間ほどしてからね、突然ものすごい吐き気がして、油から上げてね、もう○○○○もんじゃない、きれいな水が出るくらいまで上げてね。そして終わったら、なんていうのかな、もう何も○○○○ただ眠くなって、掴まっている丸太から手を放して、仰向けになって、ただ眠たいの。武蔵も何もかも眠たくてね。手を放して眠ろうとしたときに、宮城県の花巻(注:正しくは岩手県)の兵隊ですかね、その男が、俺の頭を殴ってくれたらしいんだよね。それで目が覚めたんだけど、もしその時、さらしを巻いていなかったら、手が離れたら終わりです。もうみんなに置いて行かれてね、完全な溺死だったですよね。巻いとったおかげで目が覚めて、一緒に泳いでた。
そのうちに、途中できた元気のいい兵隊たちは、とてもこんなことやっていたんじゃ駆逐艦に行けないからっていうんで、置いていくってサーっと行っちゃった。それで私と宮城の花巻の人、2人がワッショイワッショイといいながらね、泳いで行くんだけど、潮が流れてるんですね、海峡ですから。船が動いているんですよ。(腕を左右に動かしながら)目がけていくんだけど、だんだん。
そんなことを繰り返ししながらね、朝の3時ですからね、7時半から約8時間、泳ぎ通しです。所詮ね、後で戦記を読みますと、ボートを降ろしてね、救助したっていうんですよ。ボートがこない。どうして泳ぎ着いたのか。偶然の偶然かて、駆逐艦の船縁にたどり着きましてね。なんでか知らないけど、泳ぎ着いたっていえば自信ないけどね。武蔵の階段(注:舷梯のことか)はね、海面から甲板まで階段が18段くらいあるんです。
駆逐艦の階段は、縄梯子4段です。4段だからちょっとしたら上がれるんだけど、縄梯子に掴まるとすとんと落ちちゃうんです。また掴まっても落ちちゃうんです、上がれないんです。
手にいっぱいの油と水を含んだ軍服を着たまま、これはダメかなと思ったら、駆逐艦に乗った兵隊がね、うさぎ捕りの輪を作ったロープを投げてくれて、それにこうやって掴まって(抱きかかえるような姿勢をとる)引っ張り上げてくれたの。それでようやく船まで引っ張り上げてくれて、助かった。
聞き手:駆逐艦の名前は分かりますか?
清霜。清霜だと思ったな。清霜だと思う。
聞き手:駆逐艦に上がってそのあとはもう?
それからはバッタリ死んだように倒れちゃって、朝○○昼間の○○
真っ黒に油に焼けた頬に火傷して(注:重油は付くと火傷する)目が覚めた。それでコレヒドールに運ばれて。ですからもう朝の3時半ですからね、もうすぐ夜が明けるから、夜が明けたら米軍のこれくるから(戦闘機)全速で逃げ出したの。その時にはまだ、その付近の海上にね、まだおったと思うよ。ラッキーというか私は。最後に近い段階で拾われて。命が長らえた。 武蔵の(話は)それくらいですかね。
聞き手:武蔵で戦闘を受けたのは、最後の沈むときの?
その時くらいで。あとは武蔵に乗っていたくらいで。戦闘らしい戦闘には。
聞き手:マリアナ沖海戦は参加されているんですよね?
ずっとですよ2月から。武蔵と一緒ですよ。 パラオの魚雷、6月のマリアナ沖海戦、7月からのシンガポール、リンガでの訓練、10月のレイテ沖海戦、沈没、救助。武蔵とはずっと一緒です。2月の23日から10月24日までは武蔵と。
ただね、武蔵について言えばね、私の体験と関係ないけど、戦後色々と調べた中で、約1,300人くらい助かった人が、バシー海峡でさんとす丸の沈没で300人。(注:マニラから台湾に向かっていた)フィリピンの島で私と共に日本に帰らず、陸戦隊に回った690人のうち92%が戦死。コレヒドールの近くの島の人は全部玉砕。帰ったのが何百人いるかね。ほとんど…1300人以上生き残ったけど、日本に帰ったのは、ほんの何百人…
聞き手:山口さんは駆逐艦に拾われてコレヒドールですか?
コレヒドールに行った。コレヒドールに加藤部隊というとこで、隔離されているうちに、12月に今度マニラの131特別根拠地隊(注:第31特別根拠地隊のことと思われる)という海軍部隊に決起命令が出るわけですね。マニラ戦に出てくる。31特別根拠地隊に転属の指令が出て。戦後、調べてみたけど、私が武蔵に乗ったときから、武蔵が沈むまでに山口昇は海軍の籍はないです。横須賀鎮守府に山口昇、横須賀鎮守府に山口昇だけで。武蔵の記録は何もない。厚生省から取り寄せたけど。ないんです。
陸戦隊
聞き手:マニラの131特別根拠地隊?陸戦隊ですか?
陸戦隊みたいなもんだね。マニラの防衛部隊。そこに組み込まれた。それからしばらくしたら、103海軍病院にまた飛ばされるんです。
聞き手:厚生省の武蔵の名簿の記録に載っていないという話をもう一度お願いできますか?
日本におる連中はね。何月何日に海軍に入って、何月上等兵になって、兵長になって、どこ行って、どこ行って復員してって全部記録があるんですね。私は武蔵が沈んでいるから無いんですよ。私の身の回りは全部沈んだから。だから帰ってからしか、厚生省に山口昇って言ったの。全部、足跡、陸軍でいえば軍籍、戸籍みたいなの、取り寄せてみたの。昭和18年1月8日に海軍衛生学校(注:厳密には横須賀海軍病院練習部)を卒業したという記録があって、18年の7月に上等衛生兵になったという記録と、19年の1月に武蔵に乗ったという記録だけでぷつりです。あと何にもない。
聞き手:ただ、実質問題として131特別根拠地隊に?
日本海軍の、東京の○○(音飛び)にはないけども現地の中で、武蔵にはないんですが、加藤部隊(注:加藤憲吉大佐(武蔵二代目副長)が率いた臨時的な武蔵生存者部隊)という名前から、103海軍病院、131特別根拠地隊、それから103海軍病院、12月○○○○(音飛び)103海軍病院また転勤です。それから終戦まで、103海軍病院が3月の14日に○○○○海岸で解散して、またそこの○○マニラ等海軍病院○○籍になって、そして終戦、復員。
聞き手:マニラにいる間はずっと何をされていたのですか?
それからがまた大変なんですね。
聞き手:マニラの陸戦隊に行かれましたけど、そこの時の様子を教えていただけますか?
武蔵の生き残りは、コレヒドールからみんな散って行って、私はマニラに上がって131特別根拠地隊(注:第31特別根拠地隊と思われる)、103海軍病院といって、12月に103海軍病院に移るわけですね。
一緒に同じだった連中は、クラークフィールドとか飛行場に回されてね、私は病院に行って、初めて船が沈んでから、足を伸ばして眠れました。そして、そうですね、12月…1月の始めまで1ヶ月、人間らしい生活をしました海軍病院でね。フィリピンの市中の立派な病院を接収した病院だし、病院だから爆撃もされないしね、ケガした人はくるけど爆撃されない。足を伸ばしてベッドで眠れました。1月の7日にマッカーサーがルソンのリンガエンに逆上陸してきますね。1月の末にもう、マニラの尻まできました。そこからですかね、いわゆるマニラを転進…山に逃げ込むんですね全部、山下兵団全部がね。103海軍病院の患者も人間も全部移動するの。その設営隊というか土木作業ね、その中心で、私はマニラを離れてフィリピンの山の中に入りますね。
聞き手:山に入って、土木工事というか穴を掘っているんですか?
これがフィリピンの地図で、知人から貰ったんですがね(地図を指差しする) モンタルバンというのがあるんですね。(注:モンタルバンとモンテンルパは別) マニラから50キロくらいあるんですかね。山のここに移動しまして(地図のモンタルバンを指差ししながら)ここから、この山の中に入っていくわけです。もうアメリカの爆撃と戦車、砲兵、ものすごい爆撃と砲撃の連続で、日本の陸軍も海軍もね、みんな山の中に入っていくわけですが、逃げ込んだという言い方もあるし、もう1つはやはり、陸地の苦戦でぜんぜん歯が立たない。山の中に引きこもって、そこで時間を稼いで、日本の本土攻撃を遅らせる目的だ、って本には書いてありますけどね、本当か嘘か分らんけど。だけど戦車にしたって、アメリカの戦車と日本の戦車は、アメリカの戦車は、日本の戦車の砲が当たっても破れない。アメリカの戦車のが当たったら無条件で一発で。(破れる)そのくらい性能が違います。しかも制空権、飛行機は完全に、空はアメリカでしょ。武蔵が沈んでからずっとね。(注:制空権を握られている)そんな状態で山の中に逃げ込んだわけですけど、普通の戦闘様式といったらね、まぁ戦争という言葉では表せられないけど、敵とドンチャンやると、ケガをして重傷(になると)、その人は後方に送って野戦病院で看病して、それから補欠(?雑音で聞き取れず)に戻って。そして治った人はまた原隊に復帰し、治らない人は病院船で日本の病院に帰って治療する。そういうのが戦闘の一般の様式です。明治時代の日本の戦争の様式です。ところがマニラの場合は、もう実戦部隊も後方部隊もないわけです。ともかく山の中に入れば、後ろに米軍がきている。前は山の中に入っていく。ですからそこで私は衛生・病院関係の仕事をするわけですけど、ケガをしてきた人と、ある程度、治療した人と、その次の段階ではまた次の山へ移っていくんですね。
どうしたと思います?マニラからここに逃げ込むときに、軽い人は治っていないんだよ。ケガをして病院にきてこれから日本に帰る人が、軽い人はまた原隊復帰だよ。元の部隊に帰れって。元の部隊っていくつもないんだよ、寝る場所もない、原隊復帰。
重病の人は、1月の末です。私が聞いた話。どうした?と兵隊に聞きましたら、どうってことないさ。 どうしたの?始めはな、薬をやったよ。大体の人が納得して飲んだ。飲まない人は、仕方ないさ。 日本人が日本の兵隊を殺して。薬か注射で殺して、引き上げてくる。そのことの繰り返しですよ。自分たちの人間も含めて、ケガしたり病気になったら、山を越して道のない道を越して、山を行くわけですから、ついていけないんですよ。ついていけないのは分かる。じゃあ死ねば良いのか。今の常識だとおかしいけどね、フィリピンの1月から8月までの終戦まではその繰り返しですよ。ただ栄養失調・餓死・自決、あるいは補助殺人。生きて虜囚の辱めを受けず…死ぬか捕虜になるかで死ね…靖国神社に行けっていう形で、上官がこれでやれって話もした(注:手りゅう弾で自決しろという指令の意味か) そこで本当に、日本の戦争の末期の惨めな状態をね、私は嫌っていうほど見てきたの。
聞き手:食料も当然ないですよね?
もちろん食料もない。私は○○○○この手がくっつきましたよ。(腰に両手をあてて、左右の指がくっついている様子)想像つきます?一番痩せている時。もう米も満足に食べられなくて。しかも背中にいっぱい背負って、背負っている全財産。それが無くなったら終わりなの。しかも私は23、4歳で元気だけど、20年の1月にね、佐世保から最後の病院船が入った時に、降ろされた兵隊が34歳か5歳だね。甲種、乙種、丙種、現役、補充兵含め、第二国民兵のね、召集されてマニラに着、来て私の部隊にきた。会社の社長、大学の助教授、小学校長、歯医者さん、薬剤師、〇〇の親方、社会におれば一流の、有能な人々が二等兵です、34歳、5歳で。私の(私と同じ重量の)荷物を背負って、体力がないのに山を駆け上がって崖か谷を渡って、崖○○○○倒れた。雨はスコールで降ってくる。靴の中は砂でいっぱい。しかし野営をして、○○○○食べ物を食べるの。
寝とったらね、今度スコールがきて、目が開いたらこの辺まで水がきているの(お腹の前辺りに手を出しながら)で、山蛭っていう蛭がね、人間のにおいが分かるのかね。落ちてくるんだね。(頭上から下に腕を降ろしながら)なんだかかゆいなと思ったら(首の辺りをかく仕草をして)血をいっぱい吸ったり蛭がいるの。足がかゆいって足の靴の中に入っている。革靴なんかもちろんない、ズック靴ですよ。靴下の中で血をいっぱい吸ってね、かゆいと思っていたら蛭がね、ただでさえ痩せた人間の血を吸っている。しかも天気でもね、ゲリラ軍?の下は雨が降る、梅雨のね。外が天気の良いときは、けれどほとんど広っぱないですから。そんな中をね、転進転進で、退却退却でね次々と下がってくる。最後に…地図を見れば分かるけど、標高差が出てません、こんなことの繰り返しですよね。
聞き手:途中、米兵、連合国の兵士を見たりとかもあったのですか?
1回ね。20年の5月ころ、この東海岸に…(地図を広げながら)こんな山を越したの。これはマニラ側ですけどね、マニラから100キロくらいの東海岸のところ。1月から3月の半ばにかけてこの辺までくるわけですよね。(地図を指差しながら)だいぶ死にました。米兵はそこで会いましたね。ようやく平地…山の中はね、南方だから食べ物はあるけども、何もないです。ヤシやバナナは平地です。日高山脈の山と同じです。南方でもね。やっと出てきてここへ行けば、まだ家がある、水田がある、海がある、塩がある。ここまで来たらこの部隊の関係でこの辺戻れって。戻ってこの山の中当たっていくんですね。ここに入ったときに、食料探しにきたときに、この辺でね(地図を指差ししながら)米軍の飛行機がね、飛んできたんですね。普通はバリバリバリバリ飛んでいるんですけど、その時は輸送機、旅客機みたいなね、静かにこの辺まで米軍がきているわけですね。(地図を指差ししながら)
ここで行水をしとったら、米兵がね、160メートルくらい川の対岸を歩いてくるんですよ。10人ばかりね。私は鍋釜の〇〇まで自分で背負ってね、カタトジで山を越してくるんですけど、彼らは何も持っていない。自動小銃を持っているだけね。(右肩に背負う動作と共に)
本当にもう、見えるんですねちょうど、木の影で見ていたらね、こちらも見つかったらやばいから○○隠れてたら、そしたら飛行機から何か落としたんだ。何かと思ったら糧食なんだね。糧食から何か全部ね、ネットに包んでブーンブーンと落としている。身体ひとつで。そんなアメリカの兵隊にね、日本の兵隊はさ、着の身着のままでさ、背中に背負っただけで最後までね、生き残っていく戦闘の繰り返しですから。そこで初めて、終戦前に米兵の武装した姿を近くで見たのはそれだけです。戦闘はもちろんしない、しちゃいけない。こちらは1発でも100発受けますからね、すごいですよ。そのかわり高角砲が一発当たって、こっちの方でね、3月から米軍の爆撃するのでこの辺でね(地図を指差ししながら)、この辺におった陸軍の高射砲、部隊が撃ったの1機落としたの。その明くる日、一日中その辺の形が無くなるくらいこう…(注:腕を交互に上下させながら。米軍の反撃で弾を撃ってくる様子を示している)どれだけ物量があるのかね。
聞き手:昭和20年のそれは?
1月の話。米軍の絨毯爆撃を受けてね。こちらは1発撃ったもののね、とことん…(注:右腕を素早く上下に動かしながら。絨毯爆撃の様子を示している)夜も定期的にね、砲撃ちどおし。よく弾があると思う。こちらは一発背負っとくでしょ。私たちはここで日本に捨てられているんですから。糧食もない、食べ物もない、薬もない、衣類もない、銃器もない。そんな中で自活自営、何もかも繰り返しでしたね。 ただね、その過程で申し上げますとね、その途中ね、そういう人といって、途中で倒れて動けない。連れて行こう、行けない。私はその時、兵長だったものですから、兵隊のまとめをしとったわけですからね。動けない、先に行ってくれ。置いていったらどうなるか、見えているわけですよ。置いていってくれと、連れていくわけにはいかない。平坦な道じゃないですからね。結果的に置いて…おそらくあの人はそこで餓死したか自決したでしょう。キャンプに、キャンプってと思って野営をする。あるもん食べて食料って。兵隊がトイレに行くって、トイレって藪で。藪に行ってしばらくすると、ドーンと音がする。我々は手りゅう弾を2個持たされているわけです。(右手で拳を握りながら)1個は敵に対して。1個は自決用。それを持って藪に入って…栓を抜いて(口で栓をくわえる仕草をしながら)7秒すれば身体ふっとびますからね。そうして死んだ人が。あぁ。あいつもまた逝ったか…そんなことの繰り返しでした。 ただようやく、ちょっと平らなジャングルの平地でもね、やられると思って、蛭でね。歩いていたら、
ウワーンという音がするのね。道はないんで、人が歩いたから道ができるんですね。その道の横に兵隊が倒れている。陸軍の、別の方からきた部隊だと思うんだよね。軍服着て兵隊が倒れている、白骨。その横にね丸々太ったってね、倒れて…結局…腐乱、腐っているんだね。それに目といわず、鼻と(いわず)、穴が開いている。蛆がいっぱいたかっているんです。おそらく2日、3日で全部白骨になっちゃうんじゃないですかね。白骨、軍服着たまま、ぶよぶよ太った(人が)。それにハエがたかっている。ウワーンというような音がした。(注:たくさんのハエが飛び回っている、羽の音をたとえていると思われる)
見て…今、思うんですけどね。残酷な場面ですが、あの…私は何も感覚を持たんでね、それを踏み越えていきましたよね。ちょっと行ったら川があって、小川があって。水を飲もうと思って水を飲んだら臭いんだよね。あれと思って、すぐ上に死んでおってね、うつぶせに倒れている。そんなのを越えて行ってね、おりましたけど。なんで、何を考えていたかを…今考えてみれば、明日、もし今倒れたら、明日は私もこの姿だ。と思ったからなんじゃないかと。何もね、残酷とか平気でね、そこは歩いて行った私の、その時の精神状態はね、自分でも想像が…おそろしい。そんなことの繰り返しでしたね。
終戦
聞き手:終戦は、8月15日はその時は分かりましたか?
終戦の話にいきますとね。この山の、この辺に入っているんですけどね(地図を指差ししながら) もう米軍がここまできている。ここが山なんですね(地図を指差ししながら) 迫撃砲って山越しに撃つ(山に向かって地面から軌道を描く動作を繰り返しながら) 迫撃砲がね、しょっちゅう飛んでくるんですよ。それから米軍の戦闘機が谷筋を見ながらね、ちょっとでも煙が出たら、爆撃するんですよね。
8月14日…14日です。朝から珍しく飛行機が飛んでこない。大砲も打ってこない。珍しく、本当に昨日か?良い天気でね、ぐあーっ晴れて天気でね、不思議と静寂が突然戻ったっていうんですかね。
あぁ、なんだ…変だな。何時ごろでしたかね、ドロンドロンドロン…アメリカの艦載機を。ドロンドロンドロンと音がするくらいものすごい低速で、精巧なカメラで撮っているらしい。それがまた飛んでた。ビラをまいたの。毎回あることで読んでみましたら、日本国天皇裕仁は、トルーマン大統領に対して無条件降伏を申し出た。諸君は無駄な抵抗を止めて、アゴス川、インファンタ川の合流点に集結しろっていうビラなんですね。
まさか、まさか日本がそれまでも散々な目に遭ってますから、ここにテント…枝を張ってね、小屋を作って自活しているわけですから、ここで解散して15人くらいの小部隊です。 晩、夕方、河原へ出てね、汗くさい身体を川水で流しながら、お月様を見てね、戦友と話したのを覚えています。 「日本は負けんよな。だけどこんな状態では俺たちの生きている内は、俺たちは日本の勝ったの見れんだろうな」 言っておったんですがね。負ける…おかしなものですね。あんだけ戦って、負けるっていう実感がないんですね、いや日本がだよ。俺たちはダメかもしれないけど、日本は負けることはないだろうな。いつか、日本は神風が吹いて俺たちを迎えに来てくれる。
話飛びますけど、2月11日は建国の日かい。昔は紀元節でね、建国の日。2月には日本の大挙、フィリピンに応援にきてくれる、終わった。 3月10日は日露戦争で、日本が勝って陸軍記念日。陸軍記念日は、陸軍の爆撃隊が大挙、フィリピン行ってこい、米軍を蹴散らせ。 4月29日、天長節、天皇の生まれた日。これは日本が大挙反抗に来る日だ。 5月27日は海軍記念日。日本が、本当にこの日を期して大工作で、そんな噂を聞いておいて行くけども。
でも負けるとは、実感しなかったね。分かったって人もいるけど。いつか日本は、きっと勝ってくれるんだと思って、それまで生きておれるかおれんかが勝負?だと思ってね。 だからビラをまかれたときに、まさか…そんなことはないだろうなと思っておったけど、この静けさは何なんだ。そして翌日、私のグループの隊長が、ここら辺に司令部っていうのがあったらしいんですね。(地図を指差ししながら)そこへ行って情報を取ってこい、っていうんで、若い兵隊を1人連れて、私は歩いていくんですね。距離は1キロか2キロだと思うんです。もうみんなバラバラに、そこに司令部ってこの辺の、海軍の部隊としてまだ統括しとったんだね。もう陸軍はバラバラになっちゃってけっこうあるんですね、ジャパンゲリラって日本人のゲリラが。
そして、行ったら日本は無条件降伏したんだ。14日だったと記憶があるんだよね。〇〇があるわけじゃないからね、私の記憶しかないからね。 そして、四国共同宣言を受諾するのはやむなきに至り。耐えがたきを耐えだ。 負けたんだって。本当に負けたんだって分かった。そこでね、初めてです。 その時のショックっていうのは、本当にどういって表してよいかね。
そこで、司令部の兵隊が降伏文書の中に、外地におる日本軍隊は可及的速やかに本国に送り返す。そういう一行があるっていうんですよ。その言葉がだんだん○○○○生きて日本に帰る。生きて日本に帰るなんて、考えてもみなかった話だね。外国の軍隊は、可及的速やかに日本本国に送り返す、日本は無条件降伏したって。負けたって。
ひょっと思ったら、日本に帰れるんじゃないか。これがね、ちょうどこの積乱雲みたいにね、こうなって(注:腕を左右交互に上げ下げしながら。悲しい気持ちと嬉しい気持ちが交差している、複雑な気持ちを表現していると思われる)本当に今思い出して、地面にうつ伏して泣きじゃくりましたね。日本が負けた悔しさなのか、生きて日本に帰れる嬉しさなのか、今でも分かりませんけど、あの時の気持ちは、複雑な気持ちでしたね。 そして、現地の部隊との交渉って言ってたか9月6日に、ここのフィリピン、インファンタ川(地図を指差ししながら)ここですね。武装解除を聞きました。
聞き手:8月15日から2週間くらいはずっと。2週間くらいはまだジャングルにいたのですか?
9月の6日。ですから、終わったけど、どうしていいのか分からなかった。9月の5日にここに集合しろ、っていって(地図を指差ししながら)ここですね、山を越えて。ここでインファンタ川を渡って米軍の武装解除を受けた。
捕虜
聞き手:それからは捕虜ですか?
えぇ。9月6日から捕虜。いわゆる捕虜。
聞き手:捕虜はどこに行かれたのですか?
フィリピンのカンルーガン。これがね、カンルーガンの捕虜収容所。見てください。1つに25人ずつ。(資料を指差ししながら)
聞き手:どのくらいいらっしゃったのですか?
21年の12月1日。(1年)3カ月。
聞き手:役務をされていたのですか?
朝の6時から晩の6時まで。でもシベリアに行った人みたいに、目的を持った労働じゃなくて、いわゆる作業につけっていう、スコップで盛ったのをならすことだけで。 軽度の作業で、重労働ではなかった。
聞き手:食料も結構ちゃんと?
食料は9月の6日から12月頃までは本当にひどい食事でしたね。朝は米軍の食器に米粒が浮かんでいる…タプタプしたもの。昼はこんなパン1つ。(親指とその他の指を5センチくらい広げて大きさを再現している)夕食は、ちょっと粘ったお粥みたいなの。それに若干ミンチのね、ひき肉のちょっと入った、においがする、そんなもんだね。
聞き手:昭和20年の12月くらいまではそれぐらいだったと?
20年のね。そして、いちばん辛かったのは、その中で入った通り、ようやくそれが終わって出てきて、病人はジャパニーズ、日本人病院に行って治療をして、そこで死んだ人の死体を毛布でくるんでジープで積んで米兵がくる、その埋葬作業。幅60センチ長さ1メートル80、深さ1メートル50センチの穴を二人で掘るんです。スコップで、シャベルでね、こう掘るでしょ。こうしてすくって土をこう掘ってふらふらで、こんな状態で(スコップで土を掘りふらふらする動作をしながら)
その食事でね、毎日毎日朝6時から。雨も降ってました。彼らの戦争が終わって、せっかく日本に帰る身体で出てきて、病気になって、そこで死んだ人が6千から1万(人)って。これ(資料を指して)墓地です。これがどうして手に入ったかねぇ。58年の8月、これが大阪の新聞に今朝載っててね、これはまさに私たちが掘ったご遺骨、墓苑ですよ。これはね、私を受け入れた収容所です。間違いないです(新聞のコピーを広げて提示している)
聞き手:昭和20年の12月までは食料事情も悪くて?
やっぱりね、アメリカが、日本人の捕虜が多くてね、食料が間に合わなかったんだ、っていっとったけど、実際はね、あそこで普通の食事を食べたらみんなバタバタ死んでた。いわゆる、私がガダルカナルの戦闘のときに、横須賀の海軍病院で、ガダルカナルから来た人を見ているんだね。欲しがってね、ガツガツしていた。食べさせたらダメ。ともかく徐々に徐々に慣れていかんと。まともな食事をやっていたら、一気に死ぬ。(注:低栄養の人が一気に食べると死んでしまう)
聞き手:病院食みたいな?
そう。みんなはね、捕虜が多いから食料が間に合わないんだ、って文句いっとったけど、私は長い目で見ればね、一番有効な。我々は辛かったよ。ひもじい、食べたいから。辛かったけども、それが延命の最後、痩せこけて、こう痩せたのがね(ウエストに両手をあてて、左右の指がくっついている)、ここにえくぼができました、12月に。手に、太って。(右手の甲を指しながら)手にえくぼができるまで太りました。みんな、元気になりましてね。それからその後もどんどん帰っていきました、私はどうしたかな、37便目の終わりの方で、戦争が終わって1年経った、21年の12月1日に、マニラの復員船に乗りました。
聞き手:日本に着いたのは?
名古屋。伊勢湾のね、入ってきたら、12月で寒かったけども漁師の人がね、ハチマキを取ってね、こうして降ってくれたの。(笑顔で右腕を上げて左右に振っている) 涙出たねー。生きて日本に帰れたってね、いやーあの時、嬉しかったね。(満面の笑みを浮かべている)
体験記録
- 取材日 2011年9月11日 (miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
- 地図 ───
- 年表 ───
戦場体験放映保存の会 事務局
■お問い合わせはこちらへ
email: senjyou@notnet.jp
tel: 03-3916-2664(火・木・土・日曜・祝日)
■アクセス
〒114-0023 東京都北区滝野川6-82-2
JR埼京線「板橋駅」から徒歩5分
都営三田線「新板橋駅」から徒歩7分